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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第4章 魔人、激突
16/24

3

 

 眼に見えない圧倒的な力が、地上にあるあらゆる存在(もの)を叩き潰し、巻き上げ、瓦礫と変えてゆく。

 それは、地球を汚し、死へと追いやりつつある人類に、超生命体存在が与えた罰のように思えた。

 人類が滅びることこそ、地球への贖罪なのか…。

 だが、そこにあるのは神の意思ではなく、邪悪な存在〝魔空神王サタン〟の凄まじい妖気だけだった。そして、その妖気は地上の建造物を壊滅させるだけでなく、地下深くにまで及んでいた。大地の中へ浸透していく暗黒の波動は、地球という一個の生命球の持つ再生力を根こそぎ奪い、それを浴びた一帯の生命を涸渇させていく。そうなってしまったら、大地の復活は見込めない。雑草の一本も生えず、細菌一匹とて棲めなくなるのだ。

 そして今、地上に出現した〝死滅した大地〟はまさしく魔界そのものであり、よってそこに棲むことが出来るのは魔界の住人のみであった。

 妖気は、地上にあるあらゆるものを蹴散らしてなお留まるところを知らない。

 一方、地下に浸透していった妖波動は、どのような傷跡を残したのだろうか。

 先ずはじめに振動が来た。

 それは一瞬で終了したが、地下にいた多くの人間の身体に変調をもたらした。地下にいた人間全員が、突如、身体の不調を訴えだしたのである。

 ある者は腹痛、またある者は手足の痛み、激痛にも似た頭痛、激しい嘔吐、下痢など上げればきりがない。

 そして次に、妖気が人体に襲いかかった。

 地上で猛威を振るうそれとは異なり、妖波動と妖気にかなりの時間差があったのは地下へ浸透する速度の違いであり、また妖気も微風程度のものであった。また、空気中に含まれる妖気の割合は、一立方センチに一万分の一グラムというわずかな量であったが、それでも、普通の人間――しかし、体調を崩した人々を発狂させるには充分な濃度であった。

 一瞬で人々は正気を失い、血走った眼を異常なまでに吊り上がらせ、すぐ目の前の人間に殴りかかったのである。

 男も女も、老人も子供もなかった。

 たちまちのうちに、地下は修羅場と化した。

 今度は、哄笑と絶叫が地下街を満たした。そして、これと同じことがある地下の一室においても起こっていた。

 そこは、京都府知事中道茂が、一般民衆には極秘で造らせた核シェルターだった。その内部には、ついさっきまで中道知事の到着を待つ政治家や建設会社役員など十数名がいたのだが、今はもういない。今、そこにいるのは、否、あるものは血みどろの屍だけであった。

 核の放射能を完全に遮断する特殊鋼製のシェルターの隔壁さえも、妖気はたやすく通り抜けたのである。

 一瞬のうちに、妖気はシェルター内に充満し、人々を知性のない悪鬼へと変貌せしめた。

 それにしても、地下に累々と横たわる死体の無惨さには閉口してしまう。

 眼球が糸を引いて落ちるまで殴られ、頭部が変形した死体。両眼を突き潰され、耳を引きちぎられた死体。顔面をガラスの破片ですだれのように切り刻まれた死体。人間の形をすら留めていない、赤黒い肉塊…。

 信じられぬ光景の広がる地下街も、程なく訪れた「崩壊」に()し潰されていった。

 大地が、恐るべき規模の妖爆発によって陥没していく。

 このとき、眼に見えぬ崩壊は、直径がすでに三〇キロを越えていた。しかし、爆発は(とど)まる気配を見せず、依然として拡がり続けていた。

 爆発が起こった瞬間、妖は魔剣を鞘におさめて玲花の隣に舞い戻っていた。

「獅天たちの居場所、わかるか?」

「え、ええ」

 眼前で展開される壮絶な光景から視線と心を引き剥がし、玲花は頷いた。

 頷いたときには妖の言葉を理解して、能力を働かせ始めていた。

 眼を閉じ、思念を集中させる。と、頭の中が三次元レーダーのようになって、立体的に映像が結ばれる。

 二人はすぐに見つかった。

「いた。見つけたわ、妖」

「了解だ。見失うなよ」

「ええ。――でも、どうするの?」

「きみの能力に俺の魔力を乗せて飛ばす。――出来るだろ?」

 玲花は頷いた。

 すると、何かが身体の中に流れ込んでくるのが感じられた。それが妖の魔力だと知ったとき、

「飛ぶよ」

「え――?」

 その途端、玲花の足から地面の感覚が消失した。

 そのあまりの唐突さに、思わず玲花は「きゃっ」と妖に抱きついていた。

 こわごわと眼を開けてみる。

「――!?」

 玲花が絶句するのも無理はなかった。

 一瞬で、二人は宙に舞い上がっていたのである。

 空に飛び上がる感覚も、襲い来る筈の風圧もなかった。

 まさに刹那の内に地上遥かの高空にいたのである。

 そして恐る恐る足許に眼をやったとき、すでに爆発は今まで妖と玲花のいた場所を通過していた。

 まさに、不可視の悪魔に呑み込まれる寸前、妖は空中に飛び上がっていたのである。

 玲花は、愛する若者の腕に抱かれながら、重力を断ち切って宙を舞う感覚を味わっていた。

 それは、妖や彼等から離れた場所にいる獅天と光炎も同じであった。特に妖は、何故、自分に空を飛べるという自身があったのか驚きすら感じていた。

 爆発が全てを消滅させんと迫ったとき、妖の脳裡に閃光が疾った。それは、自分の中に眠る〝可能性〟の扉を開放する鍵だったのかも知れない。

 以前から、どんな妖魔を相手に戦っていても、妖が自信を失うということはなかった。常に、どこから湧いてでてくるかわからぬ程の自身に満ちあふれ、妖は戦い抜いてきた。それが、最も如実に表出したのが伯爵〝凶〟との一戦である。

 魔界貴族第三位の魔人と対峙してなお恐怖に身を萎縮させるどころか、妖は嬉々として戦っていた。しかも、凶を圧倒してさえいたのだ。

 今にして思えば、これまでのこと全てが、妖に〝扉〟を開けさせる布石だったように思われる。

 自分の魔力の強大さを改めて悟った妖だったが、決してこの魔力にはおぼれまいと心の中で堅く自身に誓っていた。

 力におぼれれば、待つのは〝死〟でしかあり得なかったからだ。

 そして今――

 射しそめる朝日の中、玲花を抱きしめ高空を飛行する妖の身体を、歓喜が朝の光とともに貫いていた。

 凄い、と全身がわななく。

 無意識のうちに唇が吊り上がった。

 妖は、ある程度の高さまで上昇すると、そこで浮遊に移った。

 自分は何ともないが、玲花が猛スピードでの上昇に苦痛を訴えたためである。

「このくらいでいいだろう」

 溜め息とともに、妖は呟いた。


「ようやく停まったか」

 足が大地についていないという奇妙な、そして不安な感覚を味わいながら、獅天は安堵の笑みを光炎に向けた。

「そのようですね。――しかし、助かりました」

「まあな。――これは、妖の魔力なのか?」

「ええ。二人なら、ほら」

 光炎が魔剣〝紅蓮〟で遥か彼方を指す。

 剣の切っ先が示す方向に眼をやった獅天は、その先に浮遊する一つの影を見つけた。

 眼をこらすと、美しい若者が、同じくらい美しい女を抱きかかえて飛んでいるのが見えた。だから、人影は一つに見えたのだ。

 あの、玲花の幸せそうな表情。

 能力は、彼等に妖魔と対抗しうる術を与えてくれたが、時として余計なものまで見させてくれる。

 獅天は舌打ちした。

 そのとき、二人の身体が妖たちの方へ吸い寄せられるように滑らかに空を滑った。

「何だ、もう出ちまったのか。もっと中に入っときゃいいのに」

 妖のそばに来た途端、獅天の口から衝いて出たのは感謝の言葉ではなく、いつもの悪態であった。

「いやいや。何でもはやいっていうのは怨まれるものなんだな」

 いつものことなので、妖は余裕を見せて言い返していた。

 あれが、獅天なりの感謝の言葉なのだと思っているのだ。

「しかし、いつになったら爆発は収まるんだろうな」

 足許を見て、戦慄を禁じ得ずに獅天が喘いだ。

 未だ、地上の地獄は終息の兆しを見せず、依然としてその勢力範囲を広げ続けていた。

 もうそろそろ、妖爆の西端は京都府と兵庫県の境界を越えようとしている。

 地上にある一切のものを灰燼に帰し、拡大を続ける不可視の爆発から逃れ得た者は、この街の住民では二人しかいなかった。

 一人は、四天王から少し離れた空中にいる安田圭一である。

 彼は爆発が起こったとき教会にいたのだが、猛烈な悪意を秘めた爆風が建物を吹き飛ばした瞬間、胸にかけた十字架の放つ蒼い光球の中にいた。

 そしてこのとき、圭一の手には、吸血姫を殺すための白木の杭と、聖水の入った小瓶が握られていた。

 そしてもう一人。

 爆発の中心となった高校より離れた高台に居を構える川中義人――彼がそうであった。

 地獄現出の少し前、彼の屋敷では、使用人をも含めた全ての人間が吸血鬼やゾンビーと化し、奇跡的に助かっていた彼と彼の幼い妹とを追っていた。

 屋敷じゅうの防犯装置を作動させ、スプリンクラーや防火扉を駆使し、必死に応戦したおかげで、二人は何とかヘリコプターの格納庫にたどり着くことが出来た。

 そこには、ヘリコプターが一機、待機していた。

 川中は、備え付けのコンピュータで即座に計算を開始した。

 この格納庫に、奴等がたどり着くまでに何分かかるか。それまでにヘリコプターの発進準備が出来れば、自分たちは助かる。つまり、その時間は自分たちの生死を決めるものなのだ。

 ここに至るまで、奴等はいくつもの防火扉を潰してきている。まるでチーズでも引き裂くかのように、簡単に鉄扉を切断するのである。

 その光景を思い出しただけでも、川中は心の底から戦慄を感じた。

 しかし、この格納庫の扉だけは違う。いや、違う筈だ。何故なら、ここの扉と四方を囲む壁は鉄よりも遥かに耐久性のある特殊鋼を三枚重ねて造られているからだ。それは、この格納庫が非常災害時に逃げ込めるシェルターの機能を兼ね備えているためである。

 隣では、十歳近く年の離れた妹が、両親やメイドたちの異様な雰囲気に恐怖し、泣き喚いていた。

 コンピュータが答えを弾き出した。

 特殊鋼の扉を破るまで、五分。

 たったの五分!?

 夜明けまで、あと少し。

 急がねば。

 そのときだった。

 ずんっという地に響くもの凄い音がして、川中を文字通り飛び上がらせた。

 恐る恐る音のした方向に眼をやった川中は、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「んな、阿呆な!?」

 扉に、ものの二分も立たない内に凹凸が入っていたのだ。奴等のうちの何者かが、その人知を越えた力で殴りつけたのだろう。そう、忘れていた。奴等は人間ではないのだ。

 見る間に表面は肉腫のように醜く腫れ上がり、やがて亀裂さえ入った。

 茫然と立ち尽くす川中兄妹の眼前で扉は破られ、怒濤のように奴等があふれ出てきた。

 川中は、妹の手を引いて、大慌てでヘリに向かった。

 異様な哄笑と恐怖の叫び声が格納庫内に満ちる。

 筆舌に尽くし難い恐怖だ。

 その恐怖に、気が狂いそうになる。

 持っていかれる!?

 引きちぎられる!?

 このときの川中の脳裡を駆け巡ったのは、そういう思いだった。

 しかし、死ぬわけにはいかない。

 ヘリまでの距離を半分ほど走り抜いたとき、川中の背中を冷たいものが流れ落ちた。

 妹が強い力で背後に引かれ、握りしめていた筈の手が、するりと抜けて離れていってしまったのだ。

「――!?」

 しまったと思う間もなかった。

 気が狂いそうになった。

 反射的に振り返った川中の眼に凄絶な光景が飛び込み、少年は声を失った。

 地獄――そう、ここにも地獄があった。

 妹の首を、実の母親が引きちぎり、まるでお手玉のように弄んでいたのである。そして、首のない妹の胴体には、父親がその歯を食い込ませていた。じゅる、じゅると音を立てて、死人と化した父親が、身につけていた小さな衣服を全てはぎ取り、妹のゴム鞠のように弾力のある尻を喰らい、血をすすっていた。

「…あ…あ…」

 声の出ない川中を、吸血鬼となった母親が嘲笑う。そして、妹の首を彼に差し出したのである。

 そのとき、今まで閉じられていた妹の眼が、カッと見開かれた!

「ケケケケケケ!」

 甲高い声で妹が嗤う。

 悪鬼の形相で。

 もはやそこに、妹のかわいらしさは片鱗もなかった。

 胴から引きちぎられてなお笑い声を上げる妹の首――まさに、悪夢。地獄の光景であった。

「う…うわああああ!?」

 心の底からの恐怖の叫びであった。しかし、その叫びが自分の口から迸っていることに、川中は気がついていない。

 凄まじい戦慄と恐怖。

 なぜ、狂ってしまわないのか。

 気が狂ってしまえば、どんなに楽だろうか。

 その瞬間、川中は、腕を滅茶苦茶に振り回して逃げ出した。心の中を占める暗黒が、彼を逃走に駆り立てたのだ。

 しかし、彼はついていた。逃げ出したその先にヘリがあったのだ。

 ヘリのドアの把手に手をかけ、川中は一気に操縦席に乗り込み、ドアを閉めた。

 ごつん。

 その直後、何かが防弾ガラスにぶつかる音。

 見ると、妹の首がガラスに白く走ったヒビにめり込むようにして嗤っている。顔中を血まみれにして。

 恐らく、川中を乗り込ませまいと、母親が投げつけたのであろう。

 悪鬼と化した人間に、情けなどもはや存在せぬということが、川中の心を寒からしめた。

 ヘリの操縦は、当然やったことがない。

 いつも、父親か専属のパイロットがやっているのを見ているだけだ。

 だが、見て、知っていた。

 どこのスイッチを、どのように、どの順番で操作するなど、まるで熟練のパイロットのように、理解していた。

 全てを振り切るように川中は首を振り、ヘリのエンジンを始動させようとした。そのとき――

「――!?」

 不意に世界がかげった。

 ヒィ、と引き吊った声を上げる川中を、フロントガラスにびっしりと貼りついたゾンビーや吸血鬼どもが、よだれを垂らして眺めていた。

 うまそうだな、おい。

「く、くそっ」

 あまりの恐怖が、まるでブレーカーでも落ちるように、人間の心を逆に落ち着かせることもあるのだ。そして、このときの川中がまさにそうであった。

 震えの止まった手でヘリのエンジンに息吹を入れる。そして、ヘリのローターを回転させ、格納庫の天井をリモコンで開けたのである。

 もの凄い風を巻き起こして、ヘリがぐんぐん上昇する。

 フロントガラスに貼りついていた奴等は、巻き起こる暴風に残らず跳ね飛ばされた。なかには、ローターに巻き込まれて身体をバラバラにちぎられて死んだ不幸な奴もいた。

 大量の血液と肉片が空中にばらまかれ、川中は吐きそうになった。

 生まれ育った、そして今や地獄と化した家が、どんどん小さくなっていく。

 もうあそこには戻れない。

 戻っても、誰もいないのだ。

 そして、このときになって初めて、川中は両親と妹の死を、心の底から現実だったと認識できたのである。

 川中は、それからしばらくの間、ヘリを自動操縦にして、顔を伏せて泣いていた。

 爆発が生じたのは、そのときだった。

 地獄の亡者と化した家族、隣人、同級生、それら全てが無音で広がる爆発の中に消え去っていく。

 果たして、彼らは成仏出来たのだろうか。

 涙を拭うこともせず、川中はただ、高空よりその爆発を見つめるだけであった。

 ――

 無数の人々の想念を呑み込んで拡がり続ける爆発が、完全に拡大を止めたのは、正確に十分後であった。

 京都市にほど近いその街――ある高校を中心にして半径六〇キロにも及ぶ巨大な円を、凶悪なるその爆発は描いていたのである。

 東は鈴鹿山脈を半ば呑み込み、西は兵庫県の柏原辺り、南は奈良県の御所市(奈良盆地は全滅)まで、そして北は福井県若狭地方一帯を破滅に追いやっていた。

 無論、大阪湾の一部と琵琶湖全域は水が蒸発し、湖底がめくれ上がっていた。特に大阪湾などは、めくれ上がった海底がヘドロもろとも盛り上がり、まるで堤防のようになって海水を侵入させないでいたほどである。

 時ここに至り、神戸、大阪を含む近畿圏は、その活動をほぼ完全に停止した。

 わずか、そう、わずか十分で。

「――結界、だな」

 遥か高みより地上を見下ろし、妖が苦々しく呟く。

「結界? 魔界侯爵のか?」

「ああ。爆発が描いた円から、もの凄い妖気を感じる。こんなことをたやすくやってのけるなんて、奴しかいるまい」

「同感ですね、妖。――しかし、この妖気、少し異常じゃありませんか?」

 光炎の言う通りだった。

 身体が震えていた。

 怒りと、恐怖で。

 確かに、異常だった。爆発が停止したにも関わらず、(サークル)内から放出される妖気が衰える様子を見せないのだ。いや、それどころが、徐々に増しつつさえある。

 それは妖も感じていたので、

「確かにな。――どういうことだろう」

 そう首を傾げて見せたが、実際には想像がついていた。

 直径一二〇キロの妖爆発を生ぜしめるのに、魔界侯爵は持てる魔力のほんの何パーセントかを使ったに過ぎない筈だ。しかし、それでも、この円内の物質を魔界のものと転換させるには十分であった。つまり、円内の物体は、外見はそのままに、内側から魔界のものへと変貌しつつあるのである。

 どのくらいの時間を要するのかわからないが、結界内の一切の物が自ら妖気を放ち始めるのも近い筈だ。

 しかし、そのことを話せば、玲花たちがパニックに陥るかも知れない。そう思ったから、妖はわからないふりをして、とぼけたのである。

 そして、このとき、ようやく妖は魔人伯爵が姿を消すときに言った言葉を思い出していた。

 なるほどな。

 妖は苦虫を噛み潰したような表情で、潰滅した街を見下ろしている。

 そう、あのとき、凶はこう告げたのだった。

〝もうすぐ、おもしろいものが始まる〟

 と。

 これが、その、おもしろいものであるらしい。

 妖はそう思った。

 そして無意識に、魔剣を持つ左手を強く握りしめていた。


 このとき、彼等四天王から少し離れた地点で、ちょっとした邂逅が起きていた。

 青い光球に包まれて空中を漂う安田圭一に、ヘリに乗った川中義人が出会ったのである。

「や、安田…!?」

 コクピットの窓から半ば身を乗り出すようにして、川中は叫んだ。しかし、ヘリのローター音で声がかき消され、圭一にまで届きそうにない。

 何度も叫んでみた。

 もう、圭一の光球は眼と鼻の先だ。それでもヘリの爆音に気づかないところを見ると、あの光の内側にいると、音が完全に遮断されてしまうのかも知れない。

 川中がそう思っていると、不意に圭一が振り向いた。

「川中!?」

 圭一は光球の中で立ち上がって、たった一人生き残った彼の友人の名を呼んだ。

 川中にもそれがわかったから、ヘリの腹部にあるドアを開けて、圭一に向かって手を差しのべたのだった。

 どうやら乗り移れといっているらしい。

 そう悟った圭一は、川中のもとへ行きたいと思った。その途端、光球がスッと空中を滑るように移動する。

 光が消え、圭一が無事にヘリの内部に降り立った。

 川中は圭一に、一体何が起こったのか問うた。

 その問いに、圭一は無言で首を横に振る。

 川中は、やはりわかるわけがないかと溜息をついた。しかし、真実は違った。圭一は、ほとんど全ての事態をこのとき理解していたのである。この妖爆発以外は。

 だが、いや、だからこそ、普通の人間には話してはいけないことだと思い、口を閉ざしたのである。

「それより、優子ちゃんはどうしたんだ!? まさか、爆発に巻き込まれたのか!?」

「いや――」

 圭一が首を振る。

「殺された」

 あまりにもあっさりと圭一が言ったので、川中は一瞬理解できなかった。

「な、何だって!? い、い、一体誰に――」

「青木を殺した奴にだ。そして、そいつは、まだ生きている」

「ど、何処に!?」

 圭一は顎をしゃくった。その仕種で、川中は友人の人格が変貌していることに気づいた。

 何があったのだ――

「まさか…?」

「本当さ。――そいつは、この瓦礫の山の中にいる。今から、俺は、そいつを殺しに行く」

 圭一の口調は、あくまでも冷静だった。

 そんな圭一の変貌ぶりに、川中は戦慄を禁じ得ず、思わずゴクリと喉を鳴らした。

「――それより、お前、家族はどうしたんだ?」

 今度は、圭一が問う番だった。

 その途端、川中の顔が、もの凄い怒りに包まれた。あの壮絶な光景を思い出したのである。

 化物となり、自分を襲う両親。

 その両親に首をちぎられ、殺された妹。

 死してなお、嗤い、襲いかかってきた妹の首。

「――お前もか、川中…」

 圭一は、川中の悽愴な表情を見て、何が起こったのかを察した。

「お、俺も行く!」

 不意に、意を決したように顔を上げ、川中が叫ぶように言った。

「親と貴子の敵を討たせてくれ!」

 圭一の襟首を掴んで離さぬ川中をなだめながら、

「いや、俺一人で行く。これは、俺の問題なんだ。――俺が決着をつける」

 圭一は決然と言った。

 何が彼の問題なのか。何故、彼が決着をつけねばならないのか。川中にはわからなかった。しかし、圭一の放つ気迫に、川中は友人の襟首を掴んでいた手を離さざるを得なかった。

 川中は、改めて圭一を見た。

 そこに、彼は、精神の修羅場をくぐり抜けてきた一人の男を見た気がした。

 こんな圭一の表情を見るのは初めてだった。

 思えば、こいつは蒼い光に包まれて空に浮いていたんだっけ。

 川中は、圭一が自分の手の届かぬ存在になりつつあるのを感じた。

 もはや、あの楽しい、懐かしい日々は帰ってこないのだろうか。

「生きて…還って来い」

「ああ」

「待ってるからな」

「ああ」

 言えるのは、それだけだった。

 そして圭一は、優子を殺す二つの道具を握りしめ、ヘリから身を躍らせたのだった。

 もの凄い風圧。

 胸が締めつけられる。

 だが、恐怖は、死への恐怖はなかった。


「ふむ――」

 そのとき、妖の眼は、地上に向けて飛ぶ一人の少年の姿を捉えていた。

「玲花――」

 その声に、玲花が顔を上げる。

「いま、安田君が結界内に入っていったよ」

「優子ちゃんを殺すのね」

「いや、彼女の敵討ちさ」

 そう答えて、妖が微笑する。

「――では、我々もいきますか、妖」

 言いつつ、光炎が魔剣〝紅蓮〟を引き抜く。

「そうだな、行くか」

 光炎にならって、妖が魔剣〝夜魅〟の鯉口を切った瞬間――

 どんっという大地をも揺るがすかに思える衝撃波とともに、凄まじい妖気が頭上より降りかかった。

 結界上空にその波動が覆いかぶさる寸前、妖の張った結界のおかげで、四人と川中の乗るヘリは何の被害も受けずにすんだ。

 真っ先に、自分たちが巨大な影の中にいることに気づいたのは、獅天であった。

 地上に映る四角い影。

 その中にいるだけで、放出される凄まじい妖気に、心の底から冷えきってくる。そして、その妖気は、通常の人間を一瞬で発狂させ、そして衰弱死させるだろうと思われた。

「いったい、何が――」

 自分たちを包み込む影の正体を見ようと、四人と川中はほぼ同時に頭上――さらに高空を降り仰いだ。

 その瞬間――

「おお!?」

 彼等は声を失っていた。


 これが、おもしろいことだよ、妖。


 彼等を、嘲笑う声が聞こえた気がした。

 頭上を見上げた彼等の眼には、遥か天空に忽然と出現した〝扉〟が映っていた。

「こ、これは――」

 圧倒的な巨大さであった。

 人類の想像を絶する巨大さで、地上を睥睨するかのように浮かぶ〝扉〟は、見る者の心を寒からしめ、恐怖に震撼させるのだった。

 今――

 縦の長さがゆうに五〇キロメートルを超え、横も二〇キロメートルはあるであろう壮大な観音開きの扉が四枚、大地と平行に出現していた。

 東の扉は、吸い込まれそうになるほどの青色。

 西の扉は、一点の曇りもない純粋の白色。

 南の扉は、燃え上がる炎の色――紅色。

 北の扉は、何ものも生み出さぬ漆黒。

 そして、その光景に眼を奪われ、声が出なくなったのは、何も妖たちばかりではなかった。

 亜空間にある〝美槌〟の一室「石版の間」にいた八導師たちもまた、声を失い、驚愕に身を震わせていたのである。

 しばらくの間、時間が止まったかのように静寂が満ち、誰も動かなかった。

 そして、彼等にとって永遠にも思える数瞬が過ぎ、誰かがようやく喉を鳴らした。

「まさか――」

 美しい白髭をたくわえた老人〝天〟が、絞り出すような声でようやく言った。

 時間が、再び流れ始める。

「まさか、これは――」

 うわ言のように言ったのは恵だ。

 誰もが背筋に冷たいものを感じていた。

 普段は気の強い星も、このときばかりは足の震えが止まらなかった。

 恐怖という名の巨鳥が翼を広げ、そっと人類の頭上に舞い降りる。

 その爪は、人間どもの心臓を鷲掴みにし、嘴は眼を突き潰すだろう。

 超高密度の妖気は、その〝扉〟から放射されているのだった。

 如何な四天王といえども、人間である限り、長時間この妖気を浴び続けていれば死は免れないだろうと思われた。

 そう感じられるほど、〝扉〟の発する妖気は凄絶なものであったのだ。

 自分の心を蝕む恐怖に耐えきれなくなったのか、星は心中にあるものを吐き出すかのように叫んだ。

「馬鹿な! 信じられん。なぜ、魔道門が現界に現れたんだ!?」

 それは、〝扉〟――魔道門の存在を知る全ての人間の叫びでもあった。

 魔道門。

 亜空間に存在し、魔界と現界とをつなぐ通廊のことを、畏怖を込めてこう呼んでいる。

 この門が全て解放されたとき、この世は瞬時にして魔界と化し、人間はもちろん、全ての生物が死に絶え、魔物の跳梁する悪夢の世界へと変わると云う。

 そのような門が、なぜ、突然この世に顕現したのか。前例がない事態だけに、八導師たちも困惑を隠しきれなかった。

 魔道門現出の原因は、妖にもわからないことだった。しかし、これだけは言える。

「魔界侯爵どもの息の根を止めればいい」

 そうすれば消えるはずだ、と妖は言う。

 本当に消えるのか、やってみなければわからない。魔道門を消す手だてが他にない以上、やるしかなかった。それに、魔界侯爵たちは倒さねばならぬ相手に違いはないのだから。

 魔界貴族の恐ろしさを誰よりも知っている筈の妖が言うのだ。これは、賭けであった

 侯爵ともなれば、日本列島を沈めるくらいはたやすくやってのけるだろう。

 それほどの魔力の持ち主に、果たして勝つことが出来るのか?

 だが、勝たなければ意味がない。

 今までも、そしてこれからも、〝美槌〟はハルマゲドンの戦いの始まりまで、悪魔の復活を阻止しなければならないのだ。

 たとえ、如何なる痛手をこうむろうとも、勝たねばならぬ使命が、彼等にはある。

「行こうぜ、妖!」

 獅天が魔剣を振り回しながら言う。

 どうやら、これからのことを考えて武者震いが止まらないようだ。それを悟られまいと、獅天は身体を動かしているのだった。

「さっさと奴等を倒すんだ。さもなきゃ、何が起こるかわかったもんじゃねえからな!」

 この様子だと、心はすでにここになく、結界の中で漆黒の魔人たちと戦っているのかも知れない。

「そうだな、行こう」

 妖は薄く笑みを浮かべると、滑るように降下を開始した。

 思わず、玲花が妖にしがみつく。

 四天王の身体は風を切って、滑走するようなスピードで結界に向かっていく。

 目指すはただ一つ、魔人たちの首…。

 ――

 妖たちが地上に降り立った瞬間、結界に変化が生じた。それは、半径六〇キロの弧を地上から描くようにして、うっすらと闇そのものが半休をつくり出したのである。

 闇は最初、墨を薄めたような濃さであったが、やがて時が経つにつれ、それは暗黒へと近づき、程なく、闇色の結界へと姿を変えた。

 戦いは、これから始まろうとしていた。


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