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妖と玲花の二人は、しばしの間、無言で凶と対峙していた。彼等の視線は虚空で激しく絡み合い、火花を散らしている。
「何か用かい?」
そう問いかける妖の声、表情には一片の緊迫感も見受けられない。
「貴様を待っていたのだよ」
「俺を?――何のためにだ?」
「優子にな、妖という強い魔力を秘めた男がいると聞いてな」
凶の美貌に、凄絶な笑みが浮かぶ。
「なるほど。戦ってみたくなったと。――ところで、あの娘を知っているのか?」
「知らぬ筈なかろう。あの娘は、我が妻よ」
「――!?」
妖と玲花は、愕然と顔を見合わせた。
何ということだ…。
事態は、すでにここまで進展していたのか。
チッと舌打ちする妖に向かって、伯爵が声をかける。
「さて、貴様の質問には答えた。そろそろ、私の相手をしてもらおうか」
妖が、しょうがないなぁという風に肩をすくめて魔剣〝夜魅〟を引き抜こうとしたとき、
「――ね、私にやらせて」
魔剣の柄にかかった妖の手を押さえて、玲花が言った。
「かなわないのはわかっているわ。――でも、悔しいじゃない。一矢も報いることが出来ないなんて」
「――ああ。やってごらん」
あっさり言うと、妖は魔剣を収めて玲花の後ろに退がった。
玲花は、手にした細身の剣〝月影〟を鞘走らせると、数メートルの距離をおいて凶と対峙した。
「女。貴様等人間が身につけた能力なぞ、魔界貴族の足許にも及ばぬことを――」
瞬間、凶が地を蹴った。もの凄いバネで、ぐんぐん玲花との間合いをつめていく。
「その身に思い知らせてくれる!」
ダン、と凶が宙に舞った。インバネスが翻るその姿は化鳥に似て、その上に乗る白き美貌は青くなりそめた空に映えた。
しかし、玲花は慌てることもなく、ただ、魔剣の切っ先で道路をコンと叩いた。
それだけで、それは起こったのである。
「――なにっ!?」
凶の美貌が驚愕に歪む。
女が剣で路面を叩くのを見た。その次の瞬間、彼女を中心にして蜘蛛の巣のように路面に亀裂が疾り、さらに地中で破裂した水道管からあふれた水が大地を押し破って天高く噴き上がったのである。
奔出する水柱の数、六。
魔剣の尖端を中心として、それは円を描いていた。いや、六芒星――魔法陣か。
そして、水が意識あるものの如く向きを変え、凶に向かったのは、次の刹那であった。
水竜と化した水は、降下に移ろうとしていた魔人伯爵に激突した。
「ぐおおお!?」
吸血鬼にとって、水もまた大敵の一つ。膝の高さまでの流水にさえ、吸血鬼はその生命を奪われ、破滅するという。
想像を絶する水圧と水の有する力に身体を犯されながらも、凶は耐えていた。
苦痛に歪む凶の顔を見て、玲花は、いけるなと思った。だが、その自身が砕け散ったのは、わずか数秒後のことであった。
六匹の水竜に喰らいつかれながらも、伯爵はゆっくりと右手を天にかかげたのである。
何をするつもりなのか?
妖と玲花は、不審な眼差しで凶を見た。
そして、凶の手が手刀となって振り下ろされたとき、妖は玲花に向かって疾走していた。
凶の真意を悟ってのことなのか、それとも手刀に集中する妖気を感じ、玲花の危機と見たのか。
ともかく、最高のタイミングであった。
高速で振り下ろされた手刀は、正面の水竜を真っ二つに切り裂き、轟然と燃え上がらせた。
水が燃える!?
信じられない光景であった。しかし、玲花の能力を秘めた水竜と切り裂いたとき、能力と魔力とが霊的作用と惹き起こした結果なのかも知れない。
正面の竜が消えた今、凶は背後からの勢いに乗って、頭上より玲花目がけて躍りかかった。
「あっら~」
術をあっさりと破られて、間抜けな声を上げる玲花に、水と妖気と声が降りかかる。
「その美貌、血で真っ赤に染めてくれる!」
長く伸びた爪――今まで、何人の人間の肌を裂き、血を浴びたかわからぬ爪が、今度は眼前の美しい女の喉に食い込もうとしている。
一瞬、凶はそんな幻想に囚われた。しかし、それは現実のものとはならなかったのである。
立ち尽くす女をかばって立ちはだかった男――美しい若者のすらりとした長い脚が、神速をもって跳ね上がり、曲線を描いて自分の腹に吸い込まれるのを見、そして強烈な圧力を伴った痛みに襲われ、彼は吹き飛んでいた。
数メートルも飛ばされ、やがて脇腹を押さえ、呻きながらよろめき立った凶に、妖の美しい声がかかる。
「待たせたな、伯爵」
そのとき、凶は、自分の唇が歓喜に吊り上がったのも気づかずにいた。
妖は玲花に自分の魔剣を手渡すと、右手をポケットに突っ込んで、凶の前に立った。
双眸の鋭い光と妖しい微笑は、待ち望んだ戦いの近きを知り、血をふつふつと沸かせているのだ。
「くく。嬉しいぞ、妖よ」
凶が言う。それは、妖もまた同じ気持ちであった。
凶と対峙して、妖はぞくぞくしたものを感じていた。それは、戦うことへの、えもいわれぬ快感である。
麻薬にも似た快感をより深く味わうべく、妖は戦いへ地を蹴った。
凶の間合いへ大きく一歩踏み込むと、妖はストレートを放った。が、凶は首を傾けるという最小限の動作で、これを難なく躱す。
躱すと同時に、凶もブロウを放つ。
双方、眼に見えぬ音速のブロウを繰り出し、スウェーバックや巧みなフットワークで躱し続けた。
それら全てが二人の肌をかすりもせず空を切る光景は、見る者に感動とそれに勝る戦慄とを与えた。何故なら、一つ一つの攻撃は、かすっただけで肌を切り裂くほどの鋭さを持っていたからである。
軽い、小刻みな息づかいと、拳が空気を切り裂く音しか、もはや存在しないように思われた。
玲花は、ただ茫然と見ているだけ。
二人の戦いは、もはや余人の介入を許さぬものであった。
妖は、一体何者なのだろう?
魔界貴族と対等に渡り合える人間がいるとは思えなかった。では、彼は人間ではないのか?
それでもいい、と玲花は思う。
自分が愛し、自分を愛してくれるのなら。
靴底が道路をこする音が時折り聞こえる。
このままではらちがあかぬと思ったのか、凶は舌打ちをし、突然右手の指でVの字をつくると、妖の眼を突きにいった。
しかし、妖は慌てることもなく、正面から突いてきた右手を左手の手刀で横に弾いていた。そして弾くとともに、手首を握りしめる。
「ひあっ」
次は左手が来た。今度は、人差し指と中指だけを立てた二本貫手だ。が、これも右手と同じように弾き出し、手首を掴んだ。
「くそっ」
凶が呻いた瞬間、妖の両手が離れた。
何を!?
その刹那、妖の脚が地上より跳ね上がった。と思う間もなく、強烈な回し蹴りが伯爵の脇腹へめり込む。先程と全く同じ箇所だ。
凶がぶざまにも苦鳴を上げたが、攻撃はそれで終わりではなかった。
右脚が地面に着く寸前に、今度は左脚で凶の顎を蹴りにいったのである。
見事に顎にヒット!
血を吐き、凶は宙に舞い、再び数メートル先の路面に叩きつけられた。
しかし、凶もまた魔人であった。口からあふれた血を拭うと、全身を襲う痛みをものともせず、ゆらりと立ち上がり――疾駆!
無言で身構える妖。
凶がニヤリと笑う。
刹那、伯爵の姿がかき消されるように、妖の目の前から消失した。
「――!?」
声もなく立ち尽くす玲花。
それに対して、妖は眼を閉じて不動。
一瞬、彼の背後に闇の閃き。
何かが風を切る音。
妖が、突然首を右へ傾ける。
転瞬、妖の白い頬を切り裂き、空気を灼いて鋭い左手刀が突き出された。
「チィッ」
妖は右手でその手刀を掴むと、身体をくるりと回転させつつ、左拳で凶の頬を殴りつける。
肉が肉を打つ音がして、凶は吹っ飛んだ。が、空中で身体を回転させて着地する。
唇から流れる血を、凶は苦汁と感じて舐め取った。
「ぶいっ」
見守る玲花に、妖がVサインを送る。
「すごい、すごい」
玲花は、まるで子供のように無邪気に手を叩いた。照れ隠しに頭を掻く妖の頬の傷は、すでにない。
その光景を見て、凶の心に悔しさの闇が満ちあふれた。
何故だ。何故、勝てんのだ…伯爵である…この俺が…あの男に…。
「くそ!」
短く吐き捨て、凶は再び地を蹴った。
インバネスを大きく翻して右手が振り上げられたとき、そこに暗黒が凝集して一振りの剣を創り上げた。
「死ねぇ!」
妖気を巻いて振り下ろされる暗黒の剣。
妖は逃げようともせず、右手をスラックスの尻ポケットに入れた。そして光るものを掌に戻っていく。それは、長さが五センチほどの手裏剣であった。
ぎぃん!?
異常な衝撃波が、彼等の身体を打ちのめす。
妖が手にした手裏剣で闇色の刃を受け止めたのである。凶の体重とスピードの乗った必殺の魔剣を、片手で!
衝撃波は、その際生じた魔力と魔力の爆発である。
双方、飛び離れて相手の出方を待った。
そのとき、妖が、
「ちょっとタイムな」
ぬけぬけと言って、胸に手を当てる。その手に程なく光が集まり、ある程度の大きさになると、妖はその光をぽいっと投げ捨てた。
金属が触れあうような音が連続し、玲花のそばにそれが忽然と転がった。〝美槌〟技術局が開発した、厚さ二ミリの特殊金属を使用した甲冑の試作型である。複雑に組み合わされた極薄の装甲は、与えられた衝撃の九〇パーセントを霧消させてしまう。そういう理論である。
それが、光の正体だと知って玲花は愕然となった。
妖は、こんなものを身につけて戦っていたのか。
「恵に言われて着けてみたけど、ちょっと重いよ。それに動きにくい」
というのが妖の正直な感想である。これを聞いたときの恵の表情が、玲花の眼に浮かぶ。
重いといっても、五〇〇グラムも無い筈だ。結局、妖にとってこういうものは必要ないのかも知れない。
「悪いけど、本部へ転送っといてくれる?」
「あ、うん」
と返事する玲花から〝夜魅〟を受け取ると、妖は再び凶の前に戻っていった。
鈴のように澄んだ美しい鞘鳴りが生じ、妖に仕える魔剣――暗黒を司どる剣――が抜き放たれた。
〝夜魅〟という名の剣が、闇をしろしめす玄武門を守護するというのは、単なる偶然なのだろうか。何かが必ずその符合の合致の裏にはある筈だ、と玲花は妖が魔剣を引き抜くたびに考えてしまう。
だが、いつも答えは見つからず、思考は果てのない迷路に迷い込んでしまうのだった。
玲花がいつもの思考を中断したのは、そのとき、妖が勢いよく魔剣を一颯するのを見たからだ。
深呼吸を一度だけして、右八双に魔剣を構え、妖が疾る!
「――!?」
凶はこのとき驚愕を隠しきれなかった。
眼前の美貌の若者の姿がかすんだと知った刹那、彼は全身に叩きつけてくる風を感じていた。
そして、自分の首が切り裂かれ、多量の血があふれて、ざんっと大地を叩くのを見た。
まさに、一瞬の出来事だった。
妖が地を蹴ったと思ったときには、すでに凶の喉を剣で切り裂き、彼の背後に走り抜けていたのである。
文字通り、疾風の如く駆け抜けていたのだ。しかし、その背に凶の笑い声が弾けたのは、数秒後のことであった。
「ク、ク、ク。どうした、俺はまだ生きているぞ」
まだ、喉からは血がドクドクと流れ出ている。凶が呼吸するたびに、血がドッとあふれ出す。そして、流出した大量の血は、凶の足許にどす黒い血溜まりをつくり上げていた。
普通の刃物で傷つけられたのなら、血が噴き出す前に皮膚が再生する。しかし、吸血鬼の再生能力を以てしても、傷口は未だにふさがらない。やはり、傷つけたのが魔剣だったからだろうか。
確かに、手強い…。
そう認めざるを得なかった。
ニッと凶が笑ったとき、ようやく首の傷がふさがり始めた。
「クク、この程度か、貴様の魔力とやらも?」
首についた血を拭う。完全に傷口が消え去っていた。
「何か勘違いをしているようだな、凶」
「――!?」
妖が鼻で笑っている。
「玲花たちは、剣に秘められた力を自分たちの能力で活性化している。しかし、俺は違う。俺の場合、剣は単なる魔力の媒介物に過ぎないのさ。だから、他人が使っても剣は何の力も発揮しない。玲花たちの剣と違ってな。そして今、俺はほとんど魔力を使わずに斬った。まぁ、そういうわけだ」
妖が言い終わったとき、伯爵の怒りは頂点に達していた。
馬鹿にしやがったのだ!
伯爵である、この俺を!
ぶち殺してくれる!
「おのれぇ…どこまでもコケにしやがって!」
咆哮を上げて、伯爵は勝負に出た。
そのとき、玲花には凶が妖の剣の前に倒れる光景が見えた。何故かわからない。ただ一瞬、閃光のように脳裡を走ったのである。
妖が魔剣を構えた瞬間、月光にも似た一箭の光。
そして、それはそのまま死を呼ぶ斬光となった。
刹那、肉と骨を断ち切る嫌な音。これだけは、何度聞いても慣れない。
そのとき、凶は大地に転がった自分の左腕を見た。
絶叫。
思い出したように奔騰する血。
茫然と、凶はその場に両膝をついた。
馬鹿な…こんな馬鹿な…。
やられるのか…俺が…。
まだか…まだ、〝アレ〟は起こらないのか…。
侯爵様…まだなのですか…。
凶の脳裡を、思考が滅茶苦茶に走り回っている。あまりの絶望のためだ。
今を…今さえ生き残れたなら…俺は……。
「そして、これが俺の魔力だ」
凶は、その声で我に返った。そして、妖が血刀で指しているものを見た。
驚愕と恐怖に、魔人伯爵は眼を見開いた。
それは、凶自身の左腕であった。いや、左腕だったものだ。今、その腕にじわじわと広がりつつあるものは、暗黒。
すでに、左腕の細胞は、暗黒そのものに蝕まれつつあった。
「暗黒が、喰っているのか…」
呻くように言った。喉が、カラカラに乾いている。全身を戦慄が走り抜け、背中を冷たいものが滑り落ちた。
また、ここでも暗黒だった。
暗黒とは、すなわち闇。
夜魅。
玄武。
妖にだけ仕える魔剣。
そして、妖。
一体、何でつながっているのだろうか。
そこまで考えて、玲花は凶の左肩の血の流出が絶えていることに気づいた。無論、妖もだ。
今、凄まじい魔力が、左肩に集中していた。
それが血の流出を止めたのだ。
再生が始まる。
皮膚の裂傷や指の欠損などであれば、再生は容易だ。しかし、腕一本ともなれば、さすがにそうはいかないようだ。
異様な音ともに肩口から赤黒いものが飛び出し、瞬時にして増殖した細胞が新たな腕を創り上げた。
そのときだ。
〝時間だ。戻れ、凶!〟
白み始めた空に魔界侯爵の声が響き渡ったとき、凶は心の底から命拾いしたと感じた。
態勢を立て直さねば…。
もの凄い疲労感の襲う身体を、まるで他人の物のように感じつつ、凶は剣を杖にして立ち上がった。
「勝負はお預けだな、凶」
という妖の声に、凶は思わず微笑した。
妖の言う通りだった。
決着は、まだついていない…。
凶の背中から闇が噴き上がり、翼となった。
巨大な蝙蝠の翼を羽ばたかせ、凶は天空に舞い上がる。凶の姿が、消えゆく夜陰にまぎれ、薄れ始めたとき彼は妖にこう告げた。
「もうじき、おもしろいものが始まる。それに生き残れたならば、妖、もう一度戦おう」
と。
どういう意味か。
妖が思ったとき、遥か彼方でもの凄いレベルの妖気が凝縮し、一瞬後、ビッグ・バンにも似た大爆発を起こした。
網膜を灼きつくすかの如き閃光の次に、灼熱の爆風。
無音の、そして無色の静かな爆発。
何かが迫ってくる。
何も見えない、しかし、何かが…。
ああ、圧倒的なものが、ビルや家屋――地上にあるあらゆるものを猛悪な爆風で薙ぎ倒し、砕き、塵と変えていく…。
悪夢の始まり、平安の終わり。
この地に棲む人間の文明の全てを凄まじい勢いで消滅させつつ、刹那、その不可視の圧力は凄まじい速度で広がり始めた!
死人男爵の振るう鞭は、表面に刻み込まれた魔文字の妖力によって、触れるもの全てを切り裂くことが出来た。
今、獅天の左肩は浅くではあるが傷つけられ、血をドクドクとあふれ出させている。
「ぐうう…」
肩に生じた灼熱が獅天の動きを封じ、呻き声を上げさせている。
「どうだ。虫ケラがいくらあがいたところで、我等の足許にも及ばぬことを思い知っただろう」
ファレスは嘲笑を上げて、車の上からふわりと舞い降りた。
音すら立てない。
「虫ケラ…だと…!」
獅天の眼が怒りの炎となって死人男爵に向けられる。
肩の傷は、すでに光炎の能力によって痛みと熱を消しつつあるが、完治には依然遠い。
「虫ケラが虫ケラだと呼ばれて、何故怒るのだ?」
「……」
「貴様等なぞ、この星を汚すだけの、どうにもならぬ存在ではないか」
「い、言わせておけば…」
獅天の右手が、再び魔剣を力強く握りしめた。その瞬間、ズキッと痛みが走って、獅天は声にならぬ叫びを上げた。
が、その痛みをこらえて、獅天は立ち上がった。
光炎が、声もなく獅天から離れる。
そうせざるを得ないものが、獅天の全身から放出されていたのである。
全身を襲う痛みに耐えながら、獅天が魔剣〝風牙〟を構える。そして、構えたときには、咆哮を上げ魔人目がけて地を蹴っていた。
「うおおお!」
そのときの彼の相貌は、その名の如くまさに獅子そのものであった。
もの凄い速さで剣が繰り出される。残像さえも残すスピードのため、数十もの刃が男爵に襲いかかっているように見えた。
それを最小限の動作で躱すファレスは、正直、意外な感想を獅天に抱いていた。
「――ぬぅ!?」
その瞬間、ファレスは驚愕に相貌を歪ませ、大きく後方に跳んでいた。
あわてて、そこに手を当てる。
右頬に鋭い傷が疾り、そこから血が流れ出している。
手で血を拭い、それを信じられないものを見る眼つきで見つめる。
そして、改めて自分に傷を負わせた男を見やった。
獅天は、間合いを取って魔剣を構えていた。
「くく。今のお前のような顔つきをな、日本では『鳩が豆鉄砲を喰らったような』顔って言うんだよ。――覚えておきな」
今度は獅天が笑う番だった。
「それから、もう一つ教えてやろう。虫ケラを甘く見ない方がいいぜ」
「まったくだ。まさか虫ケラに噛みつかれようとはな。――以後気をつけよう」
しかし、ファレスもまた嗤っていた。
彼にとって獅天の攻撃は、所詮「噛みつかれた」程度なのか。
「そんなこと言ってると、噛みつかれただけじゃ済まなくなるぜ」
「ほほう? では、どうなると言うのだ?」
「貴様の内臓、引きずり出してやるんだよ!」
刹那、剣風を巻き起こして風牙が吠えた。
もし獅天の相手が魔界貴族でなかったら、この一薙ぎで上半身を吹き飛ばされていただろう。そんな猛烈な斬撃を、ファレスはやはり、ヒラリと身を翻して躱していた。
「やれやれ、人間とは何と単純な生き物なのか。私を傷つけられたからと言って、もう勝った気でいるのだからな」
「何だと!?」
思わず、獅天の攻撃が中断する。
「内臓を引きずり出すだと? 喰わすだと?」
いや、そこまでは言ってない。
「――それこそ、舐めてもらっては困るなぁ!」
ファレスの右手が、何かを投げるように横に振られた。
「――!?」
視界の隅で光炎の巨体が影のように動いたと認識した瞬間、獅天は思いきり突き飛ばされていた。
何をしやがる、と地面に転がりざま光炎に怒鳴ろうとしたとき、二人の間の空間を何か丸いものが通り過ぎ、獅天らの背後にあった塀に当たって弾けた。
「――!?」
「なにっ!?」
驚愕に、二人が眼を見開く。
突如、その「丸いもの」が弾けた塀が、強酸か何かをかけられたかのように腐蝕し、見る見るうちに溶解し、崩れ落ちたのである!
茫然とそれを見つめる二人の耳に、ファレスのかんに障る笑い声が届く。
「ククク。どうだね。いくら物わかりの悪い君たちでも、これで思い知ったろう? いくらでも、簡単に殺せるというわけだ。それでも、来るというのかね」
「…………」
獅天と光炎は、無言であった。
いい気になっていた自分に対する情けなさと怒り。そして、歴然たる力の差を認めなければならないという屈辱。
そう、今の獅天たちの能力では、ファレスの頬に傷を付けられたのを僥倖と言うほか無かったのである。
「――恐ろしいか? 安心しろ、殺しはしない。私は、貴様等に止めを刺さずに戻る」
「――!?」
「意外そうな表情をするな。そういう表情をなんというか知っているか? 鳩が豆鉄砲を食らったような、というらしいぞ」
死人男爵がゲラゲラと嘲笑う。
「貴様等は、今から迫り来る死の恐怖と屈辱とにまみれて死んでもらうのさ。わかるか、その意味が? 貴様等なぞ、私が止めを刺すまでもないということだ」
「な、何だと!?」
屈辱の言葉を吐かれ、思わず殴りかかろうと身体を起こした獅天の目の前で、死人男爵は氷のような笑みを浮かべながら姿を消していった。
その瞬間だった。
朝日が最初の光の一片をこの地上に投げかけたとき、アレが起こったのである。
このとき獅天と光炎は、迫り来る圧倒的な力の前にその身を縛られ、身動きもできぬまま現実的な〝死〟を予感していた。




