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吸血鬼の群れを火と風とで一掃した獅天と光炎の二人は、静かな街を、ある男の家に向かって走っていた。
夜明けが近い。それを奴等も感じているのか、時間が経つにつれて、闇の住人の姿が街角から消え始めた。だが、依然として暗闇に光る眼と、死の息づかい、抑え切れぬ妖気は感じ取れる。
そして街中には、無数の蠅が飛び回る音と腐敗臭だけが残された。
ときおり、まだ辺りを彷徨する死人どもに出会った。例えば、内臓を喰われ、穴のあいた腹に血を溜めて歩く男。あるいは、首が皮一枚で胴とつながり、頭をぶらぶらと後ろに垂らして歩く女。あるいは、顔面を縦横にナイフで切り刻まれた少年…。
獅天たちは、そんな哀しい人々に出会うたびに、彼等「呪われた魂」に真の死を与えていった。
そうしなければ、全身に蠅や蛆をたからせ、腐臭と病原菌を撒き散らせながら、彼等はうろつき続けることになる。
それは、新たな地獄であり、数日を経ずしてこの街は腐り果てることを意味する。
そうさせぬために、獅天たちは出来る限り多くの死人どもを浄化しようとしているのだ。
すでに八天部には新しい命令が下っている。これ以上、被害地域を広げぬために、八角陣結界を張れというのである。これで、当面被害の拡大は免れるだろうと思われた。だから、あとは結界内に奇跡的に生き残った人々を救わねばならない。
すでに何人かの生存者を発見し、ある所に結界を張って待機させてある。その人々を救うのは、しかし、獅天たちの役目ではなかった。
霊道を使えばあっという間に全員をこの地獄から救出することが出来るのだが、残念ながら、普通の人間に霊道を抜けることは出来ない。足を踏み入れたが最後、よくて発狂、下手をすれば霊道を抜ける際に分子変換されて、ただの石ころになってしまうことさえあるのだ。
そのために、二人は彼等を救う術を持つ人間のもとへ向かっているのだった。
中道茂京都府知事。彼は悪どい政治家では確かになかったが、生への執着心が人一倍強く、実は密かに核シェルターをこの街の何処かに建造させていたのである。
その情報を得ていた〝美槌〟は、生存者をひとまずそこへ収容してもらおうとしているのである。
地獄と化した街を抜け、隣町の知事の屋敷へ到着した二人を待っていたのは、何人かの人間――使用人たちであろう――の無惨な死体であった。
刀か何かでバッサリとやられている。しかし、死人兵となっていないところを見ると、どうやら人間が殺したらしい。
死体の中に、彼等の探し求める知事の姿はなかった。どうやらすでにシェルターに向かっているようだ。
光炎はある死体のそばに跪くと、恐怖と怨念に、カッと見開かれたその眼を、ごつい手で閉じさせてやった。
その瞬間、光炎の脳裡にその死体の見た光景がまざまざと蘇ってきた。
一緒に連れていってくれ、と泣きせがむ使用人たちを、秘書が手にした日本刀で一刀のもとに斬り捨てていく。
その顔は血に狂い、酔い痴れていた。
何ということを…。
歯がみする思いで顔を上げたとき、光炎は人々の叫び声を聞いた。
ついで、ガスにでも引火したのか、ボンッという音ともに家の屋根が吹き飛び、火の手が上がる。
隣の街の惨状を知ったのか、誰かが死人兵にでも殺されたのか。
すでに、この街にも狂乱の渦は迫りつつあった。
一瞬で一つの街を壊滅させた災いが、この街の人々の頭上に舞い降り始めたのだ。
次の瞬間には訪れるかも知れぬ死から何とか逃れようと、人々は正気を失い、凄まじい狂乱状態に陥っていた。
人間すべてが力をあわせなければ、やがて来る〝審きの日〟を乗り越えることは出来ないという。それなのに、人間は自らの首を絞める行為をやめようとはしない。
ハルマゲドンは、近づきつつあるのだ。
その言葉の持つ悪の波動に踊らされてはいけないのだ。
二人は、知事の乗る車を追った。
彼等には、車の居場所を感知することが出来た。しかし、知事がシェルターに入る前に追いつかなければならない。
時間がなかった。
二人の心を焦りが占めていた。
何かが起こる。
そして、その〝何か〟とは、人々に災いをもたらす暗黒の波動を放っているのだ。
じきに陽が昇る。もう、空が白くなりつつあった。
「ま、松本君、もっと速く走れんのかね」
後部座席の知事が、落ち着きをなくした眼で辺りを見回しながら言った。
短い足が、みっともないくらいに震えている。
必死に虚勢を張っているのだが、どうもうまく恐怖心を隠しきれずにいる。
葉巻に火をつけるのに六度も失敗したのがいい証拠だ。
シェルターへは、まだあと十分はかかる。それまで、果たして無事にいられるだろうか。
松本が彼にもたらした情報――悪魔の復活と無数の化物の跳梁。
知事は普段から松本の持つ能力を信用していたから、その恐怖から逃れようと必死なのだ。しかし、そこに更なる恐怖が加わった。
狂気に走った住民たちの暴動である。
悪魔の手にかかって死ぬのも、暴動に巻き込まれるのもゴメンだった。
何とか落ち着こうと、葉巻を吸うが、煙を大量に吸い込みすぎて、思わずむせてしまう。
いつ何時、伝説の生物に襲われ、殺されるかわからぬ恐怖が、知事の小さな心臓を締めつける。
奴等は、そう、あの化物どもは、一体なんだというのだ。
人が見る悪夢か、SF小説にしか存在しないと思われていたゾンビーや吸血鬼が、本当にいたなんて…。
まさかこのような事態に陥ろうとは、神ならぬ身にわかる筈もなく、シェルターは未完成のままだった。とは言っても、彼の大切な友人たちの家へのびる予定の地下通路が完成していないだけで、今でも充分に機能する。いや、機能してもらわねば困るのだ。そこに集まるのは政治家であり、資本家たちなのだから。
焦燥にかられ、半分も吸っていない葉巻を灰皿で押し潰したとき、いきなり車が急停車した。
シートベルトをしていなかった知事の脂肪体が、前部座席めがけてつんのめる。
小心者の彼は、この急停車の原因を化物の襲撃と勘違いしてしまい、悲鳴を上げて太った身体を何とか小さくして蹲ってしまった。
心臓の音がドキドキとやかましく鳴っている。その音を聞かれはしまいかと、知事は冷や汗を流した。
秘書である松本が、車を降りる音がする。
「おい! 何だ、お前たちは!」
松本の怒声が爆発する。と、ようやく知事は落ち着きを取り戻し、シートの陰から顔を出した。相手が人間であることがわかったからだ。
顔じゅうに光る冷や汗をハンカチで拭い、知事はフロントガラスの向こう側に眼をやった。
車から少し離れたところに、二つの影がある。
大きい影と小さな影だ。
夜明けが近いとはいえ、影の顔までははっきりとわからない。
松本は、自分の問いかけが無視されたことを知って腹を立てた。突然車の進行を遮るように立ちはだかったばかりか、人の言うことを聞いていないことが感じられたからだ。
死にたくないからイラ立っているところに、そんなことをされれば怒るのも当然である。
二つの影は、依然として沈黙を守っていた。だから、松本は彼等を無視していくことに決めた。
「――偉くなったものだな。俺たちのことを〝お前たち〟呼ばわりするとはな」
そんな嘲笑と侮蔑を含んだ声が聞こえたのは、松本が影に背を向け、憤然と車のドアを開けようとしたときだった。
声は、小柄な影が発したものだった。
「何だと、貴様等――」
怒りが頂点に達したのか、松本は怒鳴りつけてやろうと振り返り、拳を振り上げた。だが、彼はそのままの姿で凍りつくことになる。
影が発した声に聞き覚えがあったのだ。
畏怖と狼狽の表情を浮かべ、松本は、まさかと呻いた。
「お、おい、どうしたんだ、松本くん」
そこへ、知事の気の弱そうな声がかかる。
車の窓から太った身を乗り出すようにして、彼等の方を心配そうに見つめていた。
この場合、彼が心配していたのは松本の生命ではなく、彼自身の生命と今後の生活に他ならなかったが。
「も、申し訳ありません、すぐに…」
「頼むよ。妻や子供が待っているんだから」
言い残し、知事は車の中に顔を引っ込めた。
溜息をつき、松本が影の方に向き直る。
相変わらず、二つの影は不動でそこにいた。
「まさか…獅天と光炎…?」
それは、疑問と言うよりも、確認に近かった。
返事はなかった。しかし、それが松本に確信させた。
「やはり――」
心の中で呟き、松本はうなだれてしまう。すると、新たな疑問が湧き上がってきた。
なぜ、わかったのか?
だが、それを発する前に、獅天が口を開いた。
「あれが、中道知事(六六歳)か。なるほど、なかなか低俗な輩じゃないか。――全く、対して民意を反映してねえのに、よくもまぁ、三期も続いてきたもんだ」
獅天の痛烈な言葉に声もない松本であったが、そこにさらに光炎が言葉を進呈した。
「住民たちのおかげですよ。彼等の多くは、投票にいかないことが自分たちの意見の具現だと信じていますからね」
「誰に投票しても同じ、というやつか。俺なら、自分の意見として白紙投票してくるね。――ま、それはともかく」
獅天は咳払いを一つして、
「その知事に〝美槌〟の一人がついていたとはな。――今回のシェルターの建設、貴様の予知のおかげか、松本」
「…………」
獅天の言う通りだった。
松本の能力は「予知」である。いつもなら近い将来起こる出来事を詳細に識ることが出来るのに、今回だけはただ「暗黒が迫ってくる」としかわからなかった。何度やっても同じだった。それだけに、何か自分の能力の領域を遥かに越えた「何か」が起きるのではないかと考えるようになった。
そこで松本は、早速知事の心を揺さぶりにかかった。
人一倍生への執着心の強い知事は、松本の予想通りに動いた。松本のもう一つの能力である〝催眠暗示〟を使うまでもなかった。
予算をうまく絞り出した知事と松本は、建設会社の社長を巻き込んで、すぐにシェルターの工事に取りかかった。
それが、二年ほど前の話である。無論、このことは〝美槌〟には伝えていない。そして松本は、この一件で〝美槌〟が何も言って来なかったので、自分の行動が露見していないと思っていたのである。
そして工事終了後、松本は彼の能力で、シェルター造成に当たっていた現場の人間たちの記憶を無くすつもりでいた。
しかし、シェルター工事は未だ完成せず、記憶操作を実行する前に予知の時は到来してしまったのである。
「な、何故、このことを組織が…」
一語一語、噛みしめるように松本が言う。
なかなか松本が戻ってこないので心配になった知事が、再び車の窓から身を乗り出し、彼等の方を見ている。
「愚問ですね、松本。いくら能力が弱くても、あなたは〝美槌〟の一員。我々が、あなたのやっていることに全く気づかなかったと、本気で思っているのですか?」
松本は唇を噛んで、心の中で悔しがった。
不安はあったのだ。
バレはしないかと、いつも恐れていたのだ。
「何であれ、上手くいかない可能性があれば、それは上手くいかない、か」
悔しいが、松本は自分の発したその言葉を認めざるを得なかった。
「やあ、中道知事」
いつの間にか獅天が、身を乗り出して事の成り行きを見守っていた知事の目の前に移動していた。そして、その手は知事の襟首を締め上げて離さない。
「てめえ一人だけ助かろうなんざ、全く人間のクズだな」
獅天の腕が閃き、知事の左頬が鳴った。
平手打ちを喰らわせておいてドアを開けると、彼は知事を車内から引きずり下ろした。
「わ、わしは一人だけ助かろうなどと思っとらんぞ! 他に議員や大手企業の幹部やその家族もいるぞ!」
知事は引きずられて咳き込みながらも、真顔でそう言い返した。
その言葉に怒りを通りこして呆れてしまった獅天が、今度は拳で左頬を殴りつけ、その場に荒っぽく知事を放り出した。
「話になんねえや。頭の中身から腐ってやがるぜ。よくもまぁ、これで悪どいって言われなかったな。あんた、よほど上手くやってたんだな」
と毒舌を吐くと、獅天は魔剣を拾い上げ、光炎の隣に戻った。
「松本の能力のおかげでしょう。彼の能力も馬鹿には出来ませんね」
「ああ。――で、どうする?」
「そうですね。シェルターは、彼等の大切な人たちでもういっぱいでしょうね」
「だろうな。じゃあ、生存者はこっちで何とかするしかないか。ったく、とんだ無駄骨だったぜ」
獅天が、皮肉っぽく肩をすくめてみせる。
「あ、あの…私たちは……」
恐る恐る、松本が獅天に声をかけてくる。
見ると、知事はすでに車内に戻り、松本の足もまた車の方を向いていた。
「うるせえ! さっさとどこかへ消えちまえ!」
たまりかねて獅天が怒鳴ると、松本は待ってましたとばかりに車へ駆け戻り、エンジンをかけた。途端、もの凄い勢いで車が発車する。
「――とにかく、生存者は八導師に任せて、八角陣結界の外に出してもらうしかないな」
「ええ」
光炎が溜息まじりに頷いたとき、右の方からもの凄い音が聞こえてきた。
知事らを乗せた車が走り去った方角だ。しかも聞こえてくる音は、高速回転するタイヤが、その表面をアスファルトにこすりつけている音だ。
何事か生じたらしい。
顔を見合わせると、二人はそっちに向かって地を蹴った。
車は、すぐに見つかった。
別に何ともない道路上で立ち往生している。運転席で、必死の形相で松本がアクセルを吹かせているが、車は一向に前に進まない。
前部バンパーが見えない壁に接触し、車が前に進まない――そんな奇怪な光景を、獅天らは目の当たりにした。
そして、同時に凄絶な妖気をも感じた。
気温が五度ほど低下したのではないか、と思えるほどの冷気が、そこから噴出している。そことは、つまり、車の前方である。
ちょうど、車の進行を遮る不可視の壁の所から、冷たい冷気が流れてきていた。
運転席の松本は、もはや正常な判断が出来ないでいるらしい。
松本よ、お前は何も感じないのか。
車内の松本を一瞥して、獅天は嘆息した。
生き残ることしか考えていない暴徒と化した松本の姿を見たからである。
突然、車が後退した。
松本がギヤをバックに切り替えたのだが、どうやら後ろには下がれるらしい。
獅天は、全身をあきらめて別の道を行くのかと思った。しかし、そうではなかった。
十メートルほどバックしたかと思うと、次の瞬間、もの凄い音を立てて突進してきたのである。まさに猪突猛進であった。
しかしその猛進も、例の〝見えない壁〟の地点で突如停止してしまう。その唐突さは、勢いで後輪が宙に浮いてしまうほどのものだった。
またもタイヤが路面をこすり、ゴムの灼ける嫌な臭いが鼻をつく。
無駄な抵抗とようやく悟ったのか、車を停めると、松本はドアを開けた。
「お、おい、松本…」
獅天が声をかけたのも気づいていないようだった。
彼は血走った眼で前方を見据え、ずんずん進んでいく。
そして妖気の噴出源まで来た瞬間だった。
一瞬、松本の身体がビクンと震えた。
何が起こったのか、獅天たちからは松本の背中しか見えないのでわからない。
背中を向けたまま、松本は動かない。
まさか――
獅天と光炎の背筋を、氷のようなものが滑り落ちる。
「ぐひゅ」
その異様な声のような音のようなものは、すぐそばから聞こえた。
車の中に残った知事の放ったものだ。
二人は同時に車内に眼をやった。
「な――!?」
信じられない光景がそこにあった。
後部座席に座っていた中道知事の太い首が、半ばまで、何者かによってえぐり取られていたのである!
真っ赤な傷口からとめどなく鮮血を噴出させ、すでに中道知事は息絶えていた。
車は、奔騰する血で真紅に染め上げられている。凄まじい血臭が辺りに漂い始めた。
そのとき獅天は、松本の身体がゆらりと動くのを眼の隅で捉えた。
松本がゆっくりと振り返る。
「うわあ!?」
そんな声が獅天の口から上がるのも無理はなかった。
松本の下顎が喉の皮もろとも引き裂かれ、みぞおち辺りでぶらぶらとしているのを見たからだ。
いや、それだけではない。松本が嗤っているのだ。上顎だけになった口を歪めて、壮絶な笑みを浮かべているのだった。
赤黒い傷口、上顎の歯が血に染まり、前半分の喉の皮が消失した傷口から、血が滝のように流れ落ちていた。
血がスーツを汚し、彼の足許に血溜まりをつくっていく。
「ふひゅう…ふひゅう…」
と空気の洩れるような音を放ちながら、松本はふらりふらり、と歩いてきた。
すでにショック症状を起こして死んでいる筈だ。なのに、何故動くのか。
答えは、一つ。
「獅天、こっちもですよ」
光炎の言いたいことは、すぐにわかった。
死体と化した知事が、太った身体を血に染めて、車から降り立ったのである。
そして二人は見た。
車の屋根の上に、いつの間にか黒い影があるのを。
二人の視線に気づいたのか、その黒い影は程なく姿形を変え始め、黒いスーツを着た一人の男となった。
「お気に召したかね、私の贈り物は」
唇に薄笑いを浮かべて、死人男爵ファレスはそう言った。
「気に召すか、だと?」
獅天の拳が怒りに震えているのが、光炎にはわかった。
今、自分たちの眼前に佇む男こそ、街中にあふれかえる死人どもを造り出した魔人であることは、すでに承知している。
その全身から冷気のように流れ出す妖気を感じれば、すぐに〝男爵〟とわかる。
「――ふざけやがって」
その気持ちは、光炎も同じであった。
だから、彼にしては珍しく、獅天よりも先に魔剣〝紅蓮〟を鞘から抜いていたのである。
青竜刀の巨大な刃が月光を受けて輝く。
ファレスが嘲笑めいた笑みを見せた直後、動死体と化した松本が跳躍した。
化鳥のような啼き声が、松本の口から迸っている。魔人の魔力を分け与えられたのか、鋭く伸びた爪で獅天の肉を引き裂こうというのだろうか。
眼は、血肉への欲望に赤く変色している。
ゾンビーと獅天の身体が重なる一瞬前、獅天の腰間から銀色の光が噴き上がった。
耳をふさぎたくなるような切断音と絶叫とが辺りに谺する。
獅天が鞘走らせた魔剣〝風牙〟が、一刀のもとに元仲間であった松本の胴を断ち切っていた。
上半身と下半身が別々になって獅天の両脇に落下する。
顔はまだ、もの凄い絶叫の痕跡を深々と留めていた。しかも、二つに断たれてなお、松本は生きていた。必死でその場から逃れようと這いずる上半身の背に、広刃の剣が突き立てられる。
次の瞬間、断末魔の絶叫を上げる間もなく、松本の上半身は塵と崩れ去った。
魔剣の起こす超振動が分子間の結合を解いたためである。
下半身の呪いも解いてやろうと獅天がそちらを向いたとき、彼の顔が引き吊った。
光炎も、すでにそれには気づいていた。
いつの間に移動したのか、中道知事が松本の下半身をむさぼり喰っているのだ。
何ということを…!
二人は、声にならぬ怒りを全身から放った。
この男は、生かしてはおけない!
人間の誇りと生命の尊厳を奪い去り、畜生以下に落とすことに喜びを感じるのが、この男だ!
大魔王サタンの復活を阻止する〝美槌〟の一員の前に、獅天と光炎は人間であった。
松本の下半身を塵に変えた獅天の口から、戦闘の開始を告げる咆哮が上がった。そして、車の上に立つ〝男爵〟目がけて地を蹴った。
ファレスの右手には、そのとき暗黒色の鞭があった。
八天部の一人、紀羅を翻弄した鞭だ。
その紀羅だが、ファレスが突如湧き起こった蒼い光に眼を奪われていたわずかな隙に、魔人の前から姿を消していた。
かなわぬと見て三十六計逃げるにしかず、と消え去ったのだろうとファレスは思った。
「しゃあないやん。あいつ、強いねんもん」
とは、後に紀羅が妖に語った感想である。
ともかく、岩をも砕く鞭のパワーを存分に見せつけられなかったファレスは、今、愚かにも立ち向かってくる男たちを血祭りに上げるつもりだった。
「貴様等の内臓を引きずり出して、喰わしてもらおう」
ファレスは、人間に近い顔をしているため、ゾンビーどもとはまた違った迫力を有していた。
もっとも、ゾンビーは知能がないので、ただ喚くだけだったが。
死人男爵の右手が動き、空気が鳴ったのは、その直後だった。
獅天がファレスに向かって跳躍すると同時に、光炎も動いていた。青竜刀を水平に構え、死肉を暗い続ける中道知事へ向かって走った。
ファレス目がけて超振動波を放つ。
全てのものを分断する不可視の刃だ。
だがそれを、ファレスはまるで眼に見えているかのように躱した。
瞬間、ファレスが立っていた自動車が真っ二つに裂ける。
もう一撃!
獅天が再び剣を振るおうとしたとき、一瞬速くファレスの鞭が唸った。
一方、喰うことに専念していて反応が遅れた知事が顔を上げたとき、すでに光炎の巨体は目の前にあった。
噛みちぎろうとしていた肉を離す間もなく、知事の首は宙に舞っていた。その首も、突然炎に包まれ、一瞬にして灰と化した。
それは、知事の胴体とて同じであった。
これで、ようやく完全な死を二人は迎えることが出来たのだった。
「ぐうっ!?」
獅天の口から呻き声が上がり、愕然と光炎は相棒を振り返った。
獅天が肩を押さえ、激痛に苦しみながら道路に落下する。
「獅天!?」
愕然となって光炎が走り寄る。
光炎が獅天を抱き起こそうとしたとき、耳に届いた声があった。
「くく。人間ふぜいが…」
霊道を抜け出たとき、先ず、妖は首を傾げた。今自分たちのいる地点が、彼の予定していた目的地から遠く離れた住宅地だったからだ。
人の気配はない。そればかりか、夜の住人たちのそれすら、減少しているのがわかる。
夜明けが近い――理由はそれだけではない。
何かが起こる。
それも、近いうちに。
「しかし――」
今まで、八導師が開いた霊道が、狙いを外したことはなかった。必ず、それを抜けようとする者の意識を読んで、その場かもしくはその近辺に移動できるのだ。
だが、今回はそうはならず、二、三キロほど目的地から離れている。
何故だ?
少しして、冬からの連絡が妖の頭の中に直接届いた。
どうやら、この辺りの妖気レベルが急速に上昇していることが原因であるらしい。獅天らが京都に入ったときの十倍は濃くなっているというのだ。
そのため、妖気が霊道に干渉し、道がねじ曲げられたのではないか、というのが八導師の見解である。
妖はその答えに納得して、このことを玲花に伝えた。
「――で、何処へ行きたかったの?」
という玲花の問いに、妖は彼女が通っていた高校の名前を挙げた。
「どうして?」
「牢に入っているときにね、不知火を放ったんだ。俺の使い魔は亜空間を抜け、正確に奴等の本拠地を突きとめたのさ。調べてみればわかると思うが、一番妖気レベルが高い地点は、恐らくそこだろう」
妖が言うと、〝その通りぢゃ〟という冬の声が二人の脳裡に響いた。
「な、言った通りだろう?」
とウインクする妖を、玲花は改めて凄いと感じていた。
それから程なく、その場に新たな気配が出現したとき、二人は気温が急に低下するのを感じた。
魔人か――
二人の前方で、漆黒の闇が揺れている。
その闇から放出される妖気が、凄まじいうねりとなって吹きつけてくる。
その闇の正体を知ったとき、妖さえも驚愕を隠しきれなかった。
夜明け近い街の中に、まさかこの男が姿を現そうとは――!?
揺れる闇に、白い美貌が乗っている。
魔人伯爵〝凶〟がそこにいた。




