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漆黒の魔道人  作者: 神月裕二
第3章 圭一、そして地獄へ
13/24

4

 妖は、灰色の壁に背中を預け、眼を閉じていた。まるで瞑想しているかのように、静かに呼吸を繰り返しているだけだ。

 ただし脚は結跏趺坐ではなく、ただの胡座(あぐら)だ。

 ここへ来てからずっと、妖はこの姿勢を保っている。無論、眠っているのではない。

 このとき妖は、天魔復活の舞台となった高校へ急ぐ途中で出会った不思議な老婆のこと、そしてその言葉のことを思い出していたのである。

 ――

 玲花が優子と対峙する少し前、空がまだ、不穏な気配をはらんで陰鬱としていた頃、妖は玲花の部屋に戻ろうと街を駆け抜けていた。

 何かが起ころうとしている――

 それがびりびりと静電気のように伝わってきて、全身の毛を逆立たせる感覚に陥っていた。

 そんな妖が不意に足を止めたのは、その者の放つ不可思議な気配のせいだった。

「占い師――?」

 妖は形のいい眉をひそめ、眼をやった。

 老婆は、薄暗い路地にいた。

 空は嵐の近きを感じさせて恐ろしいほど暗かったが、その老婆の周りの空間はそれよりもさらに暗く、異次元の夜を思わせた。

 深い海の色のローブを身にまとう老婆は、頭巾を深々とおろし、枯れ枝のような両の手で小さなテーブルの上の水晶玉を支え、凝っと覗き込んでいるのだった。

 そのしわだらけの顔は、確かに百歳を越える老婆のものに思えたが、頭巾の奥で光る眼は鋭い光を放ち、その年齢を感じさせなかった。

 そして、水晶玉の置かれたテーブルにはクロスが敷かれていたが、その模様までは、暗くてはっきりとはわからなかった。しかし、今から思えば、金糸で〝セフィロトの樹〟が刺繍されていたように思える。

「見える――」

 不意に、(しわが)れた声で老婆が呟いた。

(ふる)き世界の終わりが見える」

「――!?」

「歴史が終わり、新たな時代が始まろうとしている――」

 老婆は、妖の存在に気づいているのか、まるで誰かに聞かせるかのように話し続けた。

「神と悪魔の降臨。反キリストの出現。巨大な十字架――消滅する大陸、人々の叫び」

「どういうことだ?」

 ついに、妖は老婆に予言の意味を問いただした。

 あまりにも不気味な内容だったからだ。

 いや、それ以上に、老婆自身に興味が湧いたからかも知れない。

 何者なのか?

 老婆は妖の顔を見て声を上げた。

「おお、見えるぞ。お主、人類の運命を導き、そして見定めるものよ。全てに始まり(アルパ)終わり(オメガ)があるように、歴史にも終わりがある。その終わりの時代が、いま始まろうとしている」

「運命を導き、見定める、だと? ――終わりの時代?」

「そうじゃ。全ては動き出した。もはや誰にも止められはしない」

「悪魔復活のことなら、俺が止めてみせるさ」

 だが、阻止できなかった。

 妖は自分の言葉を思い出して、思わず薄笑いを浮かべた。

「そうではない。もっと大きな歯車じゃ。眼に見えぬ運命という名の歯車が、ついに、いやもっと以前から動き出しておったのかも知れぬが、ついに音を立てて回り始めた」

「…………」

 何を言おうとしているのか――

 その内容には、いま思い出すだに、背中を疾り抜けるものがある。

「古き龍の目覚め。天より降り注ぐいくつもの災い。人々を導く〝反キリスト〟――その者はすでにこの地上に存在し、行動を開始しようとしている」

 老婆はそう言った。

『ヨハネの黙示録』によれば、世界の終わりには〝反キリスト〟という存在が現れて、世界統一政府、世界統一宗教をつくり、人類を破局に導くのだと云う。そして、古き龍――すなわちサタンの全ての能力を受け継いで出現する〝獣〟こそ、この反キリストだと云われている。

 黙示録。

 ハルマゲドンか――

 妖はそのことに思い当たり、はっと息を呑んだ。

 老婆の謎の言葉は、もはや預言そのものであった。

 何かが、この次元を遙かに超越した存在が、老婆の口を借りて妖に未来を告げに来た。そんな風にさえ感じられるのだった。

「〝反キリスト〟は、人類を破局に導く存在だと聞くが、本当なのか?」

 反キリストのことを考えると、思い出される不気味な四行の詩がある。


  逃げよ、逃げよ、すべてのジュネーブから。

  黄金のサトゥルスは鉄に変わるだろう。

  巨大な光の反対のものが全てを絶滅させる。

  その前に、大いなる空が前兆を示すだろう。

          (『諸世紀』第四章四四歌)


 恐らく、〝巨大な光の反対のもの〟が反キリストなのだろう。だが、老婆は言った。

「わからぬ。反キリストはイエスの偽者なのか、それとも別の宿命を背負った者なのか。そも、神は正義なのか――」

 と。

「わかるのは、大いなる裁きが下る『審判の日』の年、四つの生き物から放たれた巨大な十字架がこの星を囲むということだけじゃ」

 四つの生き物だと?

 その言葉を思い出した途端、妖の背中に冷たいものが走った。

 そのフレーズを、黙示録第四章に見出すことが出来るからだ。


 〝第一の生き物は獅子のようだった。

  第二の生き物は牡牛のようだった。

  第三の生き物は人の顔、

  第四の生き物は飛ぶ鷲のようだった〟


 そして、そのそれぞれが占星学では、獅子座、牡牛座、人象星座に属する水瓶座、古代には飛ぶ鷲にたとえられる蠍座に相当するのだが、これら四つの星座と関係する惑星を囲むほどの巨大な十字架とは――

「グランド・クロスか!?」

 妖はその符合に愕然となった。

 ホロ・スコープによる物事の吉凶を占う場合、惑星と惑星の角度が大切なポイントになる。六〇度や一二〇度はよい角度とされるが、九〇度や一八〇度は逆に悪い意味を持つ角度と言われている。

 そしてグランド・クロスとは、太陽系の惑星が文字通り十字形を形成する現象のことで、この形にはスクェアと呼ばれる九〇度が四つ、オポジションと呼ばれる一八〇度が二つ、そしてコンジャンクションと呼ばれる〇度が四つ出来ることになる。

 これらから導き出される答え――そう、最悪の形なのだ。実は、これまでにも四つの惑星で構成されるグランド・クロスは歴史上、何度か起こっている。そして、そのたびに冷害による飢饉やコレラなど疫病が大流行しているのだ。

 そして『審判の日』の年、太陽系の全ての惑星が十字形に並ぶ最大のグランド・クロスが起こるといわれている。

 もしそれが本当に起こったとき、この世界をどのような災厄が訪れるのか、その規模は誰にも予想できないと言う。

 この老婆は、それを預言しているというのか。

「行くがよい、運命の子よ」

 老婆はさらに妖に告げた。

「大いなる運命(さだめ)が、お前を待っているぞ」

 何が、待っているというのか。

 妖が老婆のその言葉に戦慄したとき、彼の背後でカッと閃光が疾った。

 愕然と振り向く妖の眼に、暗雲の中でその身を踊らせる光の龍の姿が見えた。

 稲妻か?

 その真下。妖は、そこに凄まじい妖気の集中を感じた。

 あそこは、確か、玲花の勤めている高校だな。

 始まり…か。

 薄く笑って、妖が老婆を振り向いたとき、そこに占い師の姿はなかった。姿だけではない。初めからそこに誰も存在しなかったかのように、ただ微かに妖気を含んだ風だけが吹き抜けていた。

 これが、妖とその老婆の出会いの全貌である。

 今となっては、老婆の正体を確かめるすべはない。実体としてそこにいたのか否かさえ、判然としない。それこそ、超高次元の存在が、何かの啓示を与えるために姿を現したのかもしれない。いずれにしても、その預言通り、運命の歯車は大きく動き始めたのである。

「――!?」

 そのとき、遥か彼方で扉のようなものが開く音がした。しかし、もしかしたら幻聴であったのかも知れぬ。ここは、そう錯覚させる空間であり、またそう思わせる音でもあった。

 しかし、その音から何かを感じ取ったのか、妖は切れ長の眼はスッと開けた。

 辺りをゆっくりと見回す。

 窓も何もない灰色の壁が、妖の三方を取り囲み、もう一方の壁は、鉄格子が嵌め込まれていた。

 そして、妖の右脇にはパイプベッドと簡易便所が設置されている。

 一見すると普通の牢だが、そうではないことは明白である。一部屋一部屋を特殊な結界が包み込んでいるのだ。そして、この牢も、他の〝美槌〟の部屋と同様に、亜空間に島の如く浮遊しているのだった。

 妖は、牢を包む結界が、自分の魔力(ちから)の前では無に等しいものであることを知っていた。

 牢を抜け出ることは容易(たやす)い。だが、彼はそれをやらないだけなのだ。何故なら、すぐに牢を出られるだろうことが予想できたからだ。

 八天部の少年たちは無論のこと、獅天と光炎の能力を持ってしても、魔界侯爵を斃すことなど到底不可能だ。

 となれば、必ず自分に出番がまわってくる。

 必ず奴を闇に帰すことが出来るとは限らない。しかし、他の者たちの手に負えぬのなら、妖を出すしかないのである。

 いつの間にか、妖の双眸は見開かれ、正面を向いて静止していた。

 そこに立つ四つの人影を見つめているのだ。

 人影の中央に立つのは、八導師の一人、女性最年長の〝冬〟である。

 シワだらけの顔には、人の良さそうな笑みが浮かんでいた。

 その隣には、〝美槌〟の科学局を統率する〝恵〟が立っていた。

 二人の導師の後ろに声もなく佇立しているのは、冬や恵の手足となって動く、四天王や八天部とは違った意味での部下たちだ。

「妖、お主たちの処分が決まったぞ」

 老婆は笑みをたたえたまま言った。

「死刑かい? いいのかな? もったいない人材を無くすことになるぜ。でも、ま、いいか。どうせ、みんな死ぬんだからな。――そんなわけで、死刑なら楽に死ねるのがいいな。銃殺はやめてね、あれは痛そうだ。階段を上がりきって、パタンってのも嫌だな、死に様が汚いからね。電気椅子もギロチンも趣味じゃないなぁ」

「では、砂漠に放り出して餓死させるとか、生きたままハゲタカに喰わせるとか」

 と妖の後を継いで茶化したのは恵だ。

「それで、俺が死ぬと思うかい? ま、それは置いといて、だ。――出してくれるんだろ?」

「自信満々のようじゃな」

「満々も何も、獅天たちだけじゃ保たないからね」

「お前の言う通りだよ。星も愚かな決定をしたものじゃ」

「まあまあ、あんまりあいつを責めてやるなよ」

 妖が手をヒラヒラさせて、ぬけぬけと言う。

 意地悪く笑う美麗の妖人に、冬は決定した処分を伝えた。

「妖、玲花の二人には組織を抜けてもらうことになった」

 思わず、妖が口笛を吹く。

「構わないよ。――しかし、俺たちなしで妖魔どもに勝てるのか? 闇の奥深くにある歯車は、ハルマゲドン目指して動き始めている。邪悪な意志が、明確な思考を持って胎動を開始したんだ。これから、山ほど妖魔がこの地上に来襲するだろうな」

「最後まで話を聞け。抜けてはもらうが、獅天、光炎や八天部ではどうにもならぬときは、わしが、お前たちを召還する。良いな」

「いいでしょう」

「住むところは、わしが世話してやる。それから、わかっていようが、魔剣は魔道門の守りのために動かせぬのでな、必要なときは取りに来い」

「あいよ」

 妖は、スラックスの尻についた埃を払いながら立ち上がった。

「魔界侯爵――倒せるか?」

「わからん。やるだけやるまでさ」

「ふむ――」

「で、玲花には、もう話したのか?」

「いや、これからじゃ」

「じゃあ、俺もついていこう」

 そう言うと、妖はいともあっさりと結界と鉄格子を通り抜けた。冬が、解除の呪文を唱える暇もなかった程だ。

 冬たちは、目の前であるがなしかの笑みを浮かべる若者を見て、しばしの間声を失っていた。

 そして、改めて思ったのである。

 この男の名は、妖――あやかしなのだ、と。

「その前に、服が汚れたから着替えさせて欲しいんだけどなぁ」

 という妖に、何やら恵が耳打ちをする。

 それに頷くと、後で行くと冬に告げて、二人は姿を消した。恵が妖を自分の研究室へ連れていくために霊道を開いたのだろう。

 やれやれ、と肩をすくめた冬は、二人の無言の部下を連れて、牢の前を右から左へ延びる廊下を左側へ歩き始めた。

 少し離れた牢にいる玲花のもとへ向かったのである。


 冬が玲花のいる牢を覗いたとき、彼女はベッドの上で膝を抱え、美しい顔を伏せていた。動かない。

 自分の無力さを悔やんでいるのだ。

 こんな能力が、一体なんだというのか。

 何一つ出来なかったではないか。

 恐ろしくて、足がすくんで…。

 何故、自分はこんなにも弱いのか。

 これで、よくも妖のパートナーといえる。

 玲花は、知らぬ間に涙を流していた。

 今にも恐怖に流され、負けてしまいそうになる。あのときの光景――侯爵の眼を思い出しただけで、身体中が震える。

 身体を、ただただ冷たい風が吹き抜けていく。

「玲花よ」

 身体の中が虚無に支配された玲花に、冬の呼びかけは聞こえないのも当然だった。

 冬はしばらくの間、様子を見るにことにした。

 よっこいせ、と牢の前に座り込む。

 それから数分後、妖が玲花の牢の前に姿を現した。恵はおらず、彼一人だ。

「何だ…?」

 牢の前に座り込む老婆と、相変わらず無言で立ち尽くす二人の男を見て、妖は形のよい眉をひそめた。

 そして、牢の内側に眼をやったとき、妖は事情を全て悟った。そして、自分の出番だと思った。

 妖は冬に結界を解かせ、鍵を開けさせると、一人で牢の中に足を踏み入れた。

「玲花」

 肩に手を添え、優しく声をかける。

 と、身体の震えが止まり、玲花は顔を上げた。

 泣き顔もまた美しかった。

 玲花は涙で曇る瞳で、声の主を見つめた。

 新しい服に着替えた妖が微笑している。

 着替えたと言っても、相変わらず白色のシャツに黒のスラックスであるが。

「妖…」

 小さな声で言い、玲花は涙を手で拭った。

「行くよ」

 短く、それだけ言って、妖は背を向けた。

「でも…」

 何かを言いよどむ玲花に、冬は妖に話したのとほぼ同じ内容を語った。

「――どうしたんだ、玲花?」

 それでもなお立ち上がろうとしない玲花に、妖は声をかけた。何故そうしているのか、わかっていないようである。

「――行っても、あなたの足手まといになるだけ。もう、あなたに迷惑をかけたくないの」

「何を言い出すんだ、玲花。俺が一度でもそんな素振りを見せたことがあるか!?」

 妖は、玲花の言い方にムカッときたのか、彼には珍しく感情のこもった声を出した。

 玲花は首を横に振る。だが――

「ううん。でも…私は、弱いから…」

「何をわけのわからんことを言ってるんだ。――忘れたのか、玲花」

「え?」

 妖が急に静かな口調になったので、玲花は驚いて顔を妖に向けた。

「邪悪なる(もの)〝ベヒモス〟を四人で封じ込めた後、お前が俺に言った言葉を」


「俺とコンビを組みたいだって?」

「うん、もう決めたの。あなたにずっとついていくって」

「残念だけど、俺はコンビを組む気はないよ」

「どうして?」

「簡単さ。誰も、俺についてくることなんて出来はしないからさ」

「大丈夫。必ずついて行くわ」

「さて、どうかな? そう簡単には行かないと思うよ。俺は一人でやってる方が性に合ってるんでね」

「やってみなくちゃわからないでしょ。――ま、みてて。いつだって、あなたの背中を追いかけて行くから」

「いいだろう。見失うなよ」


「眼をそらすな、玲花。お前は自分で言ったことを、もう覆すというのか?」

 妖は、顔をそむけたままの玲花の肩を掴み、激しく揺すった。

「俺が何故、お前とのコンビを承知したのかわかるか? あのときのお前の言葉に心を揺さぶられたからだ。そして今まで、お前は俺に一生懸命ついてきてくれた。俺が無茶をしても文句一つ言わずにだ。――もう、走るのをやめるのか?」

 妖が、不意に哀しそうな声を出した。

 ビクンとなって、玲花が妖の顔を見つめ直す。

「あれから三年――まだ走り始めたばかりじゃないか。お前が初めてだった。ずっとついてきてくれたのは。俺が今まで一人だったのは、人を愛することが、自分を弱くすると思っていたからだ。俺は生まれてから今までの記憶もなく、親もいない。だから、ずっと一人で育ってきた。その俺の前にお前が現れ、一緒にいてくれると言う。

 そして俺は知った。人を愛すると言うことは、自分を弱くもするし、また強くもするということを。自由に動けなくなるという弱さもあるが、それ以上に、守るべき者を守り抜くという使命を帯びて、人は強くなれるんだ。

 コンビを解消するなんていわないでくれ、玲花。俺にはお前が必要なんだ。お前は俺が愛した初めての女だ。――俺を一人にしないでくれ」

 いつの間にか、妖は玲花を抱きしめるような姿勢になっていた。

 人を愛した人間の弱さ脆さを、妖はあえて玲花の前にさらけ出しているのだ。

 しばらくの沈黙の後、玲花は泣きながらこう言い、妖を強く抱きしめた。

「ごめんなさい、妖。――行きましょう、一緒に」

 玲花の言葉に、妖は身体を離し、頷いた。

「ああ」

 微笑んで、玲花の手を引いて立たせてやる。

 立ち上がるとき、玲花はクスッと笑って、

「でも安心した。あなたにも弱い一面があったのね」

「そりゃそうだ」

「――でも、嬉しかったわ。私を、愛してくれていて」

 妖は照れているのかそっぽを向くと、ボリボリと頭をかいた。

 そして、牢の外で待つ冬に向けて言った。

「かわいい元部下たちだろ?」

「ふふ。思わず聞き惚れてしまったわい」

「よせやい。――それより、戦況はどうなっている?」

 妖は玲花の肩に手をかけて、牢から出てきた。

「うむ。まあまあじゃな」

「本当かよ。まあいいや。星に伝えてくれ。八天部を戦線から退かせて、八角陣結界を布陣しろ、と」

「よかろう。もちろん、わしの名でじゃな」

「ああ。それと、自衛隊は封じてあるだろうな」

「無論ぢゃ。これ以上死人は出せんよ」

「その通りだ」

 微笑する妖と玲花の前に、冬が連れていた無言の部下たちが立った。

 手に、剣を一振りずつ携えている。

 二人は、彼等からそれぞれ自分の剣を受け取った。

 妖は、優美な曲線を描く日本刀。その名を〝夜魅〟という。

 玲花は細身の(レイピア)で、名を〝月影〟。

 これに獅天の広刃の剣〝風牙〟と光炎の青竜刀〝紅蓮〟を加えて四魔剣という。

 魔剣とは、亜空間に存在する四つの扉〝魔道門〟を守護する剣のことで、門の開放を阻んでいる、彼等四天王に仕える強力な霊剣をこう称しているのだ。

 また〝魔道門〟とは、〝美槌〟結成以前から亜空間に存在した扉で、その向こう側には魔物の世界が広がっているという。

 無数の低級妖魔を初めとして、今までどれくらいの悪魔が、各々の扉をくぐって地上に呪いと災いを振りまいたことだろう。

 それに業を煮やした組織の先人たちは、門を閉鎖し、守護することの出来る霊力を秘めたものを探した。

 長い年月を費やして後、北側の玄武門を守護するもの意外は発見することが出来た。

 奇しくも、それら三つは形こそ違ったが、強大なパワーを秘めた剣だったのである。

 先人たちは、その霊力に畏怖すら抱いた。

 全ての物質を焼き尽くすほどの業火を放ち、万物を溶解させ、あらゆるもの――大地さえも切り裂いた三振りの剣を、神剣ではなく魔剣と呼ぶようになったのも当然であろう。

 それからまた、二百年近くが過ぎたが、最後の魔剣の在処は(よう)としてわからなかった。それが、彼等の眼前に現れたのは、つい最近のことである。

 三年ほど前に、一人の若者の手によって〝美槌〟にもたらされたのだった。

 若者の名を、妖と言う。

「頼んだぞ、妖」

「ああ」

 そう返答した妖に、冬は声を落として、

「先程言ったこと、真か?」

 と問うた。

「邪悪なる存在の胎動のことか?」

「うむ」

「冗談さ、と言いたいところだが、残念ながら。――時は、動き出しているよ」

「そうか――」

 溜め息をつく老婆の肩を妖が叩くと、冬は妖と玲花を霊道に導いてやった。、

 二人の姿が眼前から消失する。

 そのとき冬は、誰にも聞こえないように呟いていた。

「そうか。ついに動き始めたか。いよいよ〝秋〟が急接近を開始するのか…。この世が暗黒と化すか――全ては妖、お主の魔力にかかっとるのじゃぞ」


 息を弾ませ、肩を激しく上下させながら、ようやく安田圭一は自分の家の前に到着した。

 辺りに潜む恐怖の源を避けながら走って来たために、家に戻るのが予想以上に遅くなってしまった。

 圭一は、自分の家に近づくにつれ、今まで抱いていた不安感が、より大きなものに育っていくのを感じていた。

 もう、ダメかも知れない…。

 そんな思いのまま、圭一は玄関の前に立った。

 おかしい――。

 それが、最初に浮かんだ言葉だった。

 彼の家の窓から、明るい光が洩れているのである。

 微かだが、人の声も聞こえて来る。

「なんだ?」

 圭一の感じた違和感は、当然のことだった。

 辺りを見回してみると、それが良くわかる。

 いつもの通り、いつもの家並み、しかし、今は暗黒の静寂が屋根の上にそっと舞い降りている。

 それなのに、圭一の家の明るさはどうだ。まるでいつもと同じではないか。

 そしてこの場合、「いつもと同じ」なのは、果たして異常か尋常か。

 だが、圭一は現実を認めなかった。

 地上に現出した地獄――これを夢だと思いたかったのだ。

 常に現実と悪夢との間で戦い続けている妖たちとは異なり、圭一はいきなり悪夢世界に叩き落とされた普通の高校生だ。

 右も左もわからない彼が、暖かい光に惑わされ、それに救いを求めたとしても無理のないことだった。

 だから、圭一は衝動に駆られて、玄関のドアを開けていた。

「父さん、母さん!」

 足を踏み入れた途端、彼は叫んでいた。

 いてほしかった。

 生きていてほしかった。

 こんな時間に帰ってきたことを叱って欲しかった。そして――

 そして、夢だと言ってほしかった。

 それまで聞こえていた男と女の笑い声が途絶え、テレビの音――恐らくビデオでも見ているのだろう――だけが残った。あとは静寂。

 圭一はその静けさがたまらなくて、眼を知らぬ間に閉じていた。

 居間の戸が開き、そしてスリッパの音。

 こっちに駆けてくる!

「どこへ行ってたの、圭一? こんな遅くまで」

 ちょっと怒ったような口調だったが、まさしく、それは圭一の母親の声だったし、眼を開けて見た彼の両親の容姿も、本物だった。

「朝帰りは身体によくないなぁ。もう四時だぞ」

 茶化すように父親が言う。

 四時。もうそんな時間か。もうじき日の出だな。奴等はどうするのだろう。

 そこまで自然に思考が流れて、圭一は我に返った。

 一体、何を考えているんだ、俺は。

 吸血鬼なんか、化物なんか…。

「――あ、そうだ! 母さん、優子は、優子は戻ってる?」

 思わず母親の手を握る圭一であったが、母親はその途端顔面蒼白になって、圭一の手を振り払った。

「こ、この子は、何を言ってるの!? あの御方を呼び捨てにするなんて!?」

「え――!?」

「殺されるわよ」

 必死の形相で母親が告げる。

 それは、圭一にとって、幻想から現実に引き戻す衝撃的な一言であった。

「母さん――」

 茫然となる圭一は、このとき初めて先程握った母親の手の異常なまでの冷たさに気づいた。

 背中を、戦慄が疾り抜ける。

 冷たい――冷たすぎる手。

 鳥肌が立つのがわかる。

「まさか――」

 愕然と両親の顔を見たとき、圭一は身体の震えが止まらなくなった。

 目の前にいるのは、もはや両親でも人間でもないのだ!

 黄金(きん)色の()、血に飢えた表情(かお)、冷たい身体、そして口から覗く牙…。

 これが、そう、これが決して逃れ得ない現実の姿なのだ。

 敵に優子がいるのだ。

 いや、優子こそ自分の敵なのだ。

 必ず何らかの呪いと災いを、この家にもたらすに決まっているではないか!

 そのとき、母親が突如圭一の右の手首を握ってきた。

 思わず顔が苦痛に歪んでしまう。それほどに強く、きつく握りしめて来る。

 必死で逃げようともがく圭一の首を、犠牲者となって父親が締めつける。

「ふふ。両親に殺されるなんて、よく聞く話でしょ。――さあ、さっさと死んじゃいなさいよ」

 ぼやけ、暗くなりつつある視界で、圭一は声の主を探した。

 いた。

 ジーンズ姿の優子が、二階へ続く階段に腰を下ろし、小悪魔のような微笑みを浮かべている。

 圭一が彼女の姿に気づくと、優子は立ち上がり、鼻歌混じりに階段を下り始めた。

 このとき、圭一はあることに気づいた。

 待てよ。「あの御方」だって?

 元両親だったものが、優子のことをそう呼んでいたことに気づいたのだ。

 この言葉、この状況から導き出される解答は、ただ一つしかなかった。

 優子は、吸血の姫と化した…。

 その通りだった。

 美貌はますますその美しさを増し、妖しい笑みさえもたたえて、吸血姫は圭一のすぐそばにまでやってきた。

 三人の吐く血腥(ちなまぐさ)い息に、思わず吐きそうになる。

 優子はこのとき、手に裁断ばさみを持っていた。

 それを、圭一の眼球に突き立てようというのか。

 それとも、喉を掻き切って、あふれ出る熱い血を全身に浴びようというのか。

 だが、そのどちらでもなかった。

 優子は、もう一人の彼女が自慢にしていた長く、美しい髪を、そのはさみでばっさりと切ったのである。

 切り落とした髪の毛を圭一の眼前にかざし、ボーイッシュな髪型になった優子が、クスッと笑った。

 魔的な、媚薬を含んだ笑みであった。

 優子は手を振って、圭一の両親に下がるように命じた。

 二人はそれに不平を唱えることなく、従順に主の背後にひかえる。

 完全に、圭一の両親は優子の奴隷となっていた。

「圭一さん、あなただけは殺してあげるわ。――わかる? 死んで、あなたは私のものになるのよ」

 そう言うと、優子は手にした髪の束を空中に放り上げた。

 一瞬、圭一の眼がそれを追う。

 その刹那、まるで磁石に引かれる鉄線のように、髪の束が空中で急角度に向きを変え、瞬時のうちに圭一の首に巻きついた!

「ぐええ!?」

 首ばかり締められて、俺って不幸と思いながら、圭一は必死にもがいた。しかし、もがけばもがくほど、髪は鋼鉄の硬さをもって首を締めつけてくる。

 視野狭窄を起こして暗くなった視界に、ぼんやりと優子の姿が映った。

 ふと、圭一は思った。

 何故だろう。何故、この()は、こんなにも人間を憎めるのだろうか。

 だが、その答えを見つけることは、今は出来なかった。

 何度か、意識がふっと遠のいた。

 普通の人間が、暗黒の波動に魅入られた者に勝てる筈がない…。

 圭一は、このとき、半ば死を受け容れ始めていた。

 このまま死んでもいいとも思った。

 もし何とか助かったとしても、両親はおろか辺り全ての人間が人間でなくなった今、毎日を恐怖で身を震わせながら生きて行くしかないのだ。

 命を救ってくれるという十字架も、今はその青い輝きを放たない。それは、圭一が生きる意思を失っている所為なのだが、彼はそのことに気づいていない。

 優子――

 そのときである。

 圭一が突然、カッと両眼を見開いた!

 双眸はみずみずしい生気にあふれ、再び彼の肉体に活力が蘇ってきた。

 死ぬわけにはいかない!

 そうさ、死んじゃ、何にもならないじゃないか。

 俺には、やることがあったんだ!

 圭一の指が、首に巻きついた髪にかかる。

 呼吸を妨げようとする〝縄〟をもぎ取ろうというのである。

 優子が、思わず一歩退いていた。

 圭一の全身から放たれる激しく熱いエネルギーを感じ、圧倒されたからである。

 圭一は、心の中で念じていた。

 十字架よ。俺を、呪いと災いから守ってくれるというのなら、力を貸してくれ。

 優子の敵を討つために!

「うわあああ!」

 大量の汗を滴らせながら、圭一は絶叫した。

「馬鹿な!?」

 思わず、優子が愕然と声を上げる。

 魔力を込められ、鉄線以上の高度を得た筈の髪の束が、ぶちぶちと音を立てて引きちぎられたのである!

 人間の、少年の力で!

 そして、圭一の胸で揺れる十字架が、再び蒼い光を放った。

 街の中で、吸血鬼の群れを退けた光は、今度は、主を守ろうと圭一の前に立ちはだかった『両親』の身を灼いた。

 正視できぬ光に眼を閉じた圭一は、その闇の向こう――光の中に耳にしたくない絶叫を聞いた。

 それが、全身を灼かれ、蒸発する両親のものだと知ったのは、光が消えてからのことだった。

 光が終息したとき、玄関には肩で息をする圭一がいるだけだった。力なく背をドアに預ける彼の眼から、涙があふれていた。

 彼の足許の床には、二ヶ所の焼け焦げた跡がある。一瞬でこの地上から消え去った両親がいた場所だ。まだ、ぶすぶすと音を立てている。

 そこに漂う異臭が、圭一に激しい吐き気を催させた。

 ――俺がやったのだ。殺したのだ、親を!

 だが、吸血鬼をなった以上、殺すしか…。

 両親の優しく、厳しかった顔が脳裡を駆け巡り、圭一は耐えきれずその場に屈み込んで吐いた。

 何も吐くものがなくなったとき、圭一は優子の存在を思い出した。

 ここにはいない。光が放たれたとき、その向こう側で、彼女の舌打ちが聞こえ、気配が消えた。

 逃げた、と言うよりも、再戦のために一時身を退いた、と言うべきだろう。

 あの女が生きているうちは、終わりはしない。

 圭一は、そう思った。

 何が終わらないのか。

 自分の戦いが、である。

 この地獄が、である。

 圭一は、このとき、自分の意志で戦いに身を投じたのだ。

 圭一は家を出た。

 優子は何処に消えたのか。

 それはわからない。しかし、必ず突きとめてやる。

 何処までも追ってやる。

 涙を振り払い、圭一は走り出した。

 先ず、教会へ――

 あそこにいけば聖水が手に入るし、杭の材料もたくさんある。

 今度こそ、必ずしとめてみせる。

 夜明けも近い古都の街――地獄街を、圭一は近くの教会を目指して駆け抜けていった。

 また一人、死ぬまで戦い続けねばならない〝阿修羅地獄〟に迷い込んだ男がここにいた。

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