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少年の戦いぶりは、凄まじいものを見る側に感じさせた。
群がり迫ってくる無数の死人どもを、手にした棍棒で次から次へと叩き潰し、屠っていく。その穏やかな顔だちからは到底想像もつかぬ、まさに鬼神の如き戦闘能力であった。
少年は、建て売り住宅の玄関を背にしていた。そこに二人の女が身を震わせて蹲っている。どうやら彼女たちを守ろうとしているらしい。
棍棒には、一体どのようなパワーが潜在しているのか。それに少しでも触れた死人は、電撃に出もやられてような強烈な痺れを感じ、やがてその部分から崩壊していく。
ファレスがここへ来てから何体目かの死人が倒されたとき、唐突に死人どもが攻撃の手を止めた。
これ以上、無意味な攻撃を加えていても若者を倒せまい、そう悟った死人男爵の心が、死人どもに伝わったのであろう。
死人どもは攻撃の手法を変更した。腐った指を鉤状に曲げ、ジリジリと少年を囲む輪を狭め始めたのである。
輪が狭まるにつれ、もの凄い腐臭が辺りに立ちこめ、その濃度を増していく。少年の守っていた二人の女は、死人軍団の不気味さと腐臭とで、いつの間にか気を失っていた。あまりの恐怖で、嘔吐する暇もなかったようだ。
少年は唇を歪めて微笑した。
彼女たちに代表される常人たちの、あまりの不甲斐なさ、弱さを笑ったのである。
少年の眼が一瞬死人たちからそれた隙に、ざっと奴等が動いた。
奇声を上げ、ある者は少年に、ある者はその背後の女たちに向かって――
「チィッ」
しかし、少年の反応は想像以上に素早かった。先ず女たちに向かった三体の死人目がけて、手にした棍棒を猛烈な勢いで放った。
異様な音がした。
どのような方向に棍棒が疾ったのか、それはあまりの速さのため、ファレスの眼にも映らなかった。ただ閃光だけである。
バラバラに走った筈の三体の死人は、ことごとく頸部を横から射抜かれ、近くの家の壁に串刺しになっていた。三体一緒に、である。
声帯を棍棒によって圧し潰されたため、声も出せずにただもがいている。
少年は死人がそうなるのも見届けずに、棍棒を放った刹那くるりと向きを変えると、自分に襲いかかってくる死人どもを睨みつけた。
鋭い呼気を放ち、地を蹴る。
所詮、人間であることを停止した死人が、彼に勝てる筈がなかった。
棍棒がなくとも、若者の強さは減じなかった。どうやらこれまで相当の修行を積んできたらしい。
如何な、人間という法則を越えた動き(アクション)の出来る死人どもでさえも、彼は赤子扱いしていた。
繰り出す拳は死人の胸や腹を貫き、下顎を砕いた。逞しい脚から放たれる蹴りは容易に膝を潰し、手刀は深々と腹腔をえぐった。
血は一滴も流れ出なかった。死人兵となったとき、血は最後の一滴まで枯渇し、血管にはその代わりとして蛆が這い回っているのだ。
死人を殺していく少年の腕や脚は、今や潰れた蛆の体液や死人の腐汁にまみれていた。
たちまち、凄まじい臭いが辺りに漂い始め、鼻がおかしくなる。
再び死人どもは後退して、少年と間合いを取った。もはや、自分たちではどうにもならぬということが判明したからである。
少年は激しく肩を上下させながら、まだ警戒を解いていなかった。辺りに鋭い視線を飛ばしつつ、壁に突き刺さった得物を取りに行く。
まだ、三体の死人がジタバタともがいていた。死ぬに死ねないのである。
少年はその姿を見て、思わず苦笑した。あの戦いぶりからは一転して、子供っぽい笑い方だった。
少年にしては大きな手が棍棒の端を握る。と、死人がもがくのをピタリと止めた。
ぶらん、と力なく手足を下に垂らす。それが音もなく崩れ落ちたのは次の瞬間だった。
その光景を影で見ていたファレスは、脳裡に閃くものがあった。
少年の能力は確かに死人を浄化できる。しかし、あの棍棒を持たねば、その力も十分に発揮できないのではないだろうか――。
そう思った理由に、死人の崩壊速度の違いがある。棍棒を持って倒した死人は、コンマ何秒――ほんの一瞬で崩れ去る。しかし、先程のように拳や蹴りでしとめた奴等は、死ぬのに二秒ほどかかっていた。
ということは、棍棒の中に秘められた霊力が問題になってくる。それ自体では何ら効力を生み出すことはなくても、少年の能力が加わることで、凄まじい威力を発揮する。
つまり、少年自身の能力はそれほどでもないということになるな。
そう結論づけると、死人男爵はニヤリと笑って、気配を断つのを止めた。
その瞬間、もの凄い妖気が彼の全身から陽炎のように立ち上る。周りの景色が歪んで見えた。全ての物質、いや魂さえも腐敗させるのではないかと思わせるほどの、それは闇の波動であった。
壁から棍棒を引き抜き、死人の残滓を払い落とし、腕やジーンズに付着した汚液を拭っていた若者は、その妖気を背に感じ、全身を凍らせてしまった。
「何だ、この妖気は――!?」
愕然として、少年は振り向いた。
死人を操る魔界貴族〝男爵〟が、闇色の笑みを唇に乗せて、そこにいた。
少年は、全身の血が引いていくのを感じた。
勝てない。
本能的にそう思った。
彼、いや彼等『八天部』に星が下した任務は、獅天と光炎の京都到着までの、いわばつなぎであった。つまり、京都の街にあふれる死人と吸血鬼の群れを相当すること、そして魔界貴族に出会ったときは時間稼ぎをすること、であった。少年は、その程度のことなら易々と出来ると思っていた。現に、死人どもは簡単に浄化できた。しかし――
眼前にただ佇むだけの魔界貴族の眼を見ているだけで、脚が震えてきた。
寒い。暗い。恐ろしい。逃げたい。逃げ出したい。
ああ、死ぬのか。俺は殺されるのか…。
様々な思いが、頭の中で交錯し始めている。
もはや逃げることは出来ない。
蛇に睨まれた蛙なのだ。
あとは、やがて訪れる〝死〟を待つだけ…。
魔界貴族の圧倒的な魔力に勝てる者はいるのだろうか…。恐らく、獅天でも光炎でも無理なのではないか。
少年は思った。
いるとしたら、あの人だけかも知れない。
「ククク。少しはやると思っていたが、もうこのザマだ。やはり、この程度なら、人間は滅びるに限る。こんな精神的に弱い生物が万物の霊長、地球の覇者とは笑わせる。――地球を統べるのは、何も人間でなくていいのだからな」
「…ど…どういうことだ…?」
震える声で、少年が問う。
「ほう、口がきけるのか。これは、少しは楽しめるかな?――貴様、名は何という?」
「み、〝美槌〟八天部の一人、義親」
「義親、か。俺の名はファレス。さっきの答えが知りたければ、俺と戦って勝つがいい!」
言い放つと同時に、ファレスは掌を義親に向けて突き出した。その中心から渦を巻いて放たれた妖気を腹に食らって、義親の大きな身体は死人の群れの中へ吹き飛んでいった。
――
その光景を、美槌の八導師たちは〝石版の間〟という部屋に集まって霊視していた。石版の間というのは、美槌の本部がある亜空間に存在する部屋の一つである。部屋は十畳ほどの石室で、部屋の中央部に厚さ五センチの石版が一枚浮遊している。その石版に四天王や八天部の行動が記録され、同時にその部屋にいる霊能者の脳裡に映像が結ばれるのである。
「やはり、妖の言う通りなのかも知れぬ」
一人の老人が、溜め息まじりに呟いた。
白ヒゲをたくわえた禿頭の老人〝天〟である。
八天部の戦いぶりを〝視〟ていたのだが、それがどうもいただけないのだ。
その思いは、他の七人も同様である。
すでに八天部は全員京都に入った。そして死人と吸血鬼の掃討作戦を開始している。だが、敵の数が圧倒的に多く、八天部はかなりの苦戦を強いられていた。
八天部とは、四天王に次ぐ強力な超能力の持ち主たちで、五人の少年と三人の少女たちで構成される。
彼等の訓練は、四天王によって行われ、少年たちはそれぞれの師の技と術を身につけていくのだ。だが、所詮は若く、四天王よりも能力が劣ることが八天部たちを苦しめていた。
死人や吸血鬼なら、二人いれば何とかその場所の進軍は食い止められる。しかし、魔界貴族に対抗するほどの能力はない。それは、義親の場合を見てもらえればわかるだろう。
「――獅天と光炎はまだ来ないのか」
技術部門を担当をする恵が、星の方に苛立ちの眼を向ける。彼は主に対妖魔用の甲冑や武器などを研究し、製造している。今は、如何に薄くて軽く、頑丈な鎧が出来るかに知恵を絞っている最中だ。その実験中の鎧を妖に着てもらいたいため、彼を最前線から退けた星に怒りを覚えているらしい。
「やはり、妖を外すべきではなかったな」
先刻、石版から伝わってきた映像を霊視したところ、獅天たちの仕事はもう少しかかりそうだった。彼等は、青森のある村に出現した食人鬼を調伏しているのだ。
京都における魔界侯爵たちの降臨と食人鬼の出現の時期が異なっていたので、大した関連性はないと思われていた。しかし、闇の中で何か巨大な魔が蠢動を開始していると思うと、全く関係がないとは言い難い。
「――しかし、ああでもしないと、他の者たちにしめしがつきません」
「しめし、だと?――そんなものは、この際どうでも良かったのではないか、星よ」
恵は、きつい口調で言い返した。
「妖の魔力が、残り三人の能力をあわせた以上に強いことは知っておろう。その妖でさえ天魔降臨を阻止できなかったというのに、八天部で時間を稼ぎ、獅天たちで何とかなるとでも思っているのか」
「し、しかし――」
さすがの星も、恵の剣幕には次の言葉を言いよどんでしまった。
「お前は、何故に妖をそこまで憎むのだ? 我等も愚かであった。まさか憎悪のあまり、お前が後先考えずに妖を任務より外すとはな。そこまでするとは思わなかったから、四天王・八天部の指揮権を、全てお前に委ねたというのに…」
星は、もはや声もなくうなだれていた。
何とか、この事態を切り抜けねば…。
「確かに、妖の失態は我等も認めよう。だが、事態は悪化する一方じゃ。――星よ、お前が妖を毒と思うならそれでも良い。それなら、毒をもって毒を制せばよいのではないか?」
そう言葉を受け継いだのは、荘という老人であった。言葉は穏やかだが、彼も星を避難していることにかわりはなかった。
このままでは、妖を四天王から外せなくなるばかりか、星自身の八導師としての立場も危うくなってしまう。
浅慮すぎたのか、という思いがある。
悔しかった。何とか事態を打開したかった。
星が悔しさのあまり拳を握ったとき、
「獅天、光炎の両名、霊道に突入しました」
と告げる女の声がした。星と同年代の美しい女性で、希という。
それを聞いた途端、星の顔に明るさが戻った。
これで獅天たちが侯爵たちを斃せば、妖を四天王から外すことが出来る!
星は嬉々として、石版が直接脳に伝えてくるイメージを映像化した。ちょうど、二人の男が京都のある家の屋根に降り立ったところだった。
「頼むぞ、獅天、光炎」
星はすがるような気持ちで呟いた。
そのとき、冬という名の老婆が顔を上げ、ニッと笑った。
そして、特に星に向かって、
「妖と玲花のこと、わしに任せてくれぬか?」
と言った。
「な――」
星は絶句して、
「何ですと!?」
老婆の放った言葉は、星の怜悧な顔を驚愕に染めるのに、十分な効果を発揮した。
「妖と玲花の指揮権を、私から奪うとおっしゃるのですか!?」
「何を言っておる。お主は妖を四天王から外したいと思っておるのじゃろ?――その手伝いをしてやろうというのじゃ」
「で、では、何故、玲花まで」
図星を突かれた星は、どもりながらも必死で応戦した。
「当然じゃろう?――玲花も、いや玲花こそ天魔降臨を阻むことが出来なかったのじゃからな。――違うか、星よ」
冬はあくまでも穏やかな表情を崩そうとせず、玲花ひいきの星を追いつめていった。
組織の長たる存在が一人であったならば、その者の命令は絶対である。しかし、秘密結社〝美槌〟の場合、八人いる。たとえ戦闘員の指揮権が一人に委ねられていようとも、その者の私利私欲などによる独断専行が許されないのである。
「妖を四天王から外すなら、玲花とて同じ。本来なら抹殺されてもしかるべきじゃが、二人の――特に妖の魔力を失うのは、組織にとって大損害じゃ。だからといって、下手な処分で組織全体や、または妖と玲花を敵にまわしたくもない。そうじゃろう、皆の衆」
冬の問いかけに、周囲で同意する気配が起こった。その数、六。
そして、星自身もそれには同意せざるを得なかった。つまり、全員だ。
その通りなのだ。
「――故に、わしが二人の面倒を見てやろうというのじゃ。不満かえ?」
星がクッと唇を噛みしめるのを見て、冬はにんまりと笑った。勝利を確信したのだ。
「――わかりました。従いましょう」
悔しさあふれる、星の言葉であった。
「さて、問題は義親じゃな」
冬は、溜め息まじりにそう言った。
八天部の一人である義親は、星の命令通り、獅天・光炎が到着するまでの間、死人や吸血鬼の掃討にかかっていたのだが、運悪く死人男爵が少年の前に立ちはだかり、義親を滅多打ちにしたのである。
容赦のない攻撃はその後数分間に渡って続き、義親の意識はすでになく、ただ、死人男爵ファレスのサンドバックと化していた。
巧みなブロウとキックで、失神した少年は倒れることが出来ぬまま、全身から血を流しているのである。
速やかに策を講じねば、美槌は戦力の一つを失うことになろう。
脳裡に映し出される映像を見て、八導師たちは肝を冷やしてしまった。
特に星の場合は、それがひどかった。
妖の言葉通りになりつつある。それが強迫観念となって、星の心を締めつけているのだ。
憎いあの男の言葉など…!
そう思ってはいるのだが、身体の反応は正直であった。映像からあふれ出てくる死人男爵の妖気は、星の脚をガタガタと振るわせていた。
あの眼、あの声、死人男爵の存在全てが、人間を心の底から寒からしめるのだった。
だが、地上界に降臨した魔人は三人いる。しかも残りの二人は、ファレスよりも格が遥かに上だ。
無理だ。八天部では勝てない。いや、もしかしたら獅天たちでさえも…。
その考えを、星は首を振って追い払った。
これは、これだけは認めるわけにはいかない。認めてしまったら最後、自分は負け犬になってしまう。
追いつめられ、全身から脂汗を流す星を救ったのは、先程もその美しい声で彼を助けた女性、希であった。
「ご安心下さい。義親の許へはすでに紀羅を向かわせました」
「おお。そうか、紀羅を」
石室の中に、安堵の溜め息が満ちる。
星は、半ば不満はあったが、とりあえず希に感謝した。ただし、心の中でである。
紀羅という暗号名を持つ少年は、その師の教えのせいもあろうが、八天部でも一・二位を争うほどの技術の持ち主である。
八天部は、それぞれ四天王の一人に師事している。光炎に三人、獅天に二人、玲花に二人、そして妖に一人である。これは妖が遅れて〝美槌〟に参入したからで、他意はない。
紀羅の八天部の中でのライバルは、光炎の弟子の端呂である。ちなみに、義親も光炎の弟子であり、紀羅の師とは妖である。
そこが、星を不満にさせていた。だが、それを口にすれば、四天王と八天部を動かすには器量の小さい男として、自分が逆に外されかねない。それは、何としても避けたかった。
星にも、ある野望があったからだ。
そのとき、強烈な膝蹴りが義親の腹に吸い込まれるのが見えた。
星たちが思わず眼をつぶる。
そのショックで覚醒した義親はその場に蹲ると、恥も外聞もなく胃の内容物を路上に吐き散らし始めた。
死人男爵ファレスは、足許でのたうちまわる虫ケラを、冷笑を浮かべて見下ろしていた。
その脚がかすみ、義親の腹を打つ。
少年は「げっ」と呻くと、身体を小刻みに震わせ始めた。生体エネルギーが、ファレスに向かって流れていくのがわかる。
吸い取られているのだ!
猛烈な寒さが、義親を包み込んでいた。
これは妖気が熱を奪っているのではなく、生体エネルギーの減少による、身体の深奥からの冷却だ。
義親は、朦朧とする意識の隅で、自分の名を呼ぶ声を聞いた気がした。
力を振り絞り、暗黒の穴の中に落ちかけていた〝自分〟を引きずり上げる。
顔を上げ、眼を開くと、一人の少年がファレスと対峙しているのが見えた。
陽に灼けた、眼の大きな美少年だ。
美貌には、何処かいたずらっ子のような笑みが浮かんでいる。
手にした日本刀を右八双に構えた少年の名を、紀羅という。
「大丈夫か?」
紀羅は、特徴ある関西弁で言った。しかも、全くファレスに隙を見せることもなく。
「き、紀羅か…。お前、持ち場はどうしたんだ?」
義親が、弱々しい声で訊く。
「安心せえ。死人と吸血鬼を合わせて二百ほど倒したったわ」
「そうか…やっぱり、お前は強いな…」
義親は薄く笑ったようだ。そして、安心したのか、そのまま気を失ってしまった。
紀羅は視線を魔人に戻した。その足許から、仲間の姿が消えていく。
八導師のうちの誰かが、危険を冒しながらも、美槌本部へ強制的に召還したのだろう。
紀羅にしてみれば、義親がいない方が好都合だった。思う存分戦えるのだから。
紀羅が、興奮しているのか、唇の端を舐めた。
「小僧、先程の言葉、真実か?」
狼狽しながら、ファレスが問う。
紀羅が、義親と違って、全く恐怖を抱いていないことに気づいたのだ。
「そうや。俺は強いで」
「それじゃない。その前だ。我が配下の死人と、凶様の吸血鬼を殺したという――」
「ああ、あの話か、ほんまや」
わざとらしく手を打って言ったあと、紀羅はニッと笑った。
このとき、紀羅は内心動揺していた。死人男爵の声が脳裡に直接響き渡るのである。つまり、魔人との会話は言葉を介して行うのではなく、テレパシーのようなもので意思を疎通させているのだ。そして魔人たちは、人間の言葉ではなく脳から直接、話している内容を〝視〟ているのである。だから、今の場合も、男爵は紀羅の関西弁からではなく、少年の記憶から言葉の内容が真実であることを読み取ったのだった。
「――なるほど、死人を殺した一人目の男とは、お前だったのか」
ファレスは、憎々しげに言った。
こんな小僧に、やられたというのか。
だが、そう思いながらも紀羅を強いと感じている。
そう実感したため、魔力を使うことを決意したのである。
ファレスは、精神を集中し始めた。
確かに、この少年は強いのだろう。だが、強いといっても無論、我等「魔王の眷属」の足許にも及びはしない。
しかし、少なくとも義親とかいう小僧よりは楽しませてくれそうだ。
そう思うのは、紀羅が恐怖していないからだ。
怯えないのは、それなりの理由があるのだ。
そしてむしろその逆で、紀羅は戦いに何かを期待しているように思えるのだった。
「いくぞ、小僧!」
ファレスが、指を鉤状に曲げた両手を紀羅に向けて思い切り突き出した。刹那、紀羅の両側に立っていた電柱の根本に亀裂が走る!
倒れてくる!?
電線がちぎれ、火花を散らしながら蛇のように踊る。
二本の電柱は、×字状に重なって、紀羅の真上に覆い被さっていった。
大地を揺らす程の轟音が、無人の街に谺する。
「チィッ」
舌打ちしたのは、しかし、ファレスの方であった。
もうもうと立ち上る砂埃の向こうから、彼の懐に向けて小さな旋風が舞ったのである。
素早く防御の体勢を取る。
「小僧と違うわい!」
そう喚いて、紀羅は手にした刀をファレスの腹めがけて薙ぎ払った。
暗黒の空を焦がさんとする炎の舌は、今も尚その気勢を上げていたが、いつの間にかサイレンの音は途絶えていた。
炎を消し、人々を安全な場所に誘導する立場にある人間たちが、その目的を変更してしまったためであろう。
すなわち、殺人と吸血に。
すでに時刻は午前二時近くになっていた。
安田圭一は、辺りに視線を飛ばしながら、家へ向かって走っていた。
あまりの恐怖と怒りのため、何処をどう走ってきたのか、全くわからなかった。そのため、自分の行動範囲の内側に戻るのに、かなりの時間がかかってしまったのだ。
しかし、もう大丈夫だ。
何故かそう思った。
依然として脚が恐怖でガタガタと震えているが、首から提げた十字架を握っていれば、不思議と安心できたのである。
十字架に宿った神秘の力のせいだろうか。
と、彼等しいことを思ってみた。
玲花が、いや、中野恵子が別れ際に、
「これ、きみにあげるわ」
と言って、首にかけてくれたものだ。
「これは…?」
「たぶん…これからきみにいくつもの災いが降りかかると思うわ。だから、お守りを渡しておくね」
圭一はしばし十字架を見つめていたが、やがて、
「先生たちは、何者なんです?」
と問うた。
この質問に、中野恵子は少し困ったふうに微笑んでいた。
結局、答えはなかった。
それはそれで構わない。ただ一つ、確信したことがある。
何かが起こる――。
そして、先生の言葉通り、その「何か」が自分に災いをもたらすであろうことも。
何せ、敵には優子を殺した女がいるのだ。
自分を見逃す筈がなかった。
あの女は、優子を殺害する光景を見せつけ、自分を嘲弄するために、わざわざ学校まで連れていったのだと思う。
これも、やはり確信に近い。
「父さん…母さん…」
自然に、足は速くなっていく。
心の中に、不安がどす黒い闇となって広がっていく。
圭一は、突然あることに気がついて足を止めた。
異質な空気。それが妖気なのだと、圭一にはわかる筈もない。
だが、全身の毛が総毛立つほどの嫌な空気だということはわかる。
ここに来るまでの間、確かに何処を走ってきたのかわからないが、たった一匹の妖魔に出会うこともなかった!
街中に、あれほどの妖魔があふれかえっているというのに!
背中を、冷たいものが流れ落ちる。
これを奇蹟とは笑えなかった。何故なら――
いる!
圭一は直感した。
何故なら、今、彼の周りに奴等が潜んでいるからだ。気配を断ち、ここまで圭一とともにやってきた奴等。そして眼には見えない場所に隠れ、獲物の到着を待ち構えていた奴等。
ああ、こっちを見ているのがわかる。
遊ばれていたということか。
一度恐怖を抱くと、自然に呼吸が乱れてしまう。今、圭一の不規則な呼吸音だけが静寂の中に残っていた。
それに重なるように、何かが聞こえる。
その数、数十。
奴等の、血に飢えた息づかい。
ヒヒヒ。
カカカ。
遠くで、そしてすぐ近くで笑い声がする。
人間のものではない、まさに悪魔のような声だ。
圭一の脚は、すでに動かなくなっていた。
恐ろしいまでの、暗黒たる静けさ。
見えない恐怖の縄が、圭一をその場に縛する。
ザ。
風もないのに、すぐそばの家の庭木が梢を鳴らした。
青ざめ、動けない圭一の頭上を黒い影が飛び、彼の背後に音もなく降り立った。
冷や汗を顔中に貼りつかせて、首をゆっくりと、軋んだ音が聞こえそうなほどゆっくりと背後に振り向かせる。
その勇気。
「やあ」
そこに立つ太った影が、にこやかに言った。
「うわあああ!?」
声が奔流となって、口を衝いて出た。
圭一の背後には、彼がよく行くレンタルビデオ屋の店長が立っていた。太った店長の顔には、トレードマークの人の良い笑みのかわりに、血に飢えた狂気の笑みがあった。そして、めくれ上がった唇の隙間から覗くのは、牙――乱杭歯であった。
吸血鬼だ!?
相手の正体に気づいた圭一は、よろめいて二、三歩退いた。
その背中に、今度は双つの柔らかいものが当たる。
再び、背筋を戦慄が疾り抜けた。
失礼、と言う前に、圭一は背後の影を眼にした。
ビデオ屋の隣の本屋に勤める美人のお姉さんだ、と看破し得たが、もはや声は出なかった。彼女もまた吸血鬼であった。
正確に言えば、彼等は首筋に吸血斑を持つ、犠牲者だった。
それでも、恐怖は変わりない。
歯の根が合わず、ガチガチと鳴っている。
終わりだ――
心の中で運命を呪った。そのとき、もの凄い奇声を上げて、奴等が飛びかかってきた!
血腥い呼気が辺りを漂い、圭一は思わず吐きそうになった。
圭一は、自分がわけのわからない悲鳴を上げていることに気づいていない。
それは、恐怖の悲鳴だった。
何も考えられずに、ただむやみやたらに手足を振っている。そのたびに、咬みつきそこなった吸血鬼の牙が、
かつん、かつん
と音を鳴らす。
血走った眼眸を圭一に向ける。
「ヒィ――」
泣きそうな、引き吊った声を上げる圭一の身体を、吸血鬼の一人が羽交い締めにした。
「ギヒヒヒ。血、血だぁ!」
圭一の知らない若い男の吸血鬼が牙を剥いて、襲いかかってきた。
圭一は一瞬、死を覚悟した。
その瞬間、蒼い閃光が、少年を襲う狂気の群れに突き刺さった。
聞くに耐えぬ悲鳴を上げて、吸血鬼たちが吹き飛ばされていく。
まるで、蒼い光に押しのけられているように思える不可思議な光景であった。しかし、それは事実だった。そして、吸血の使徒をはねのける蒼く、聖なる光は、圭一の首にかけられた十字架から放たれていた。
吸血鬼の眼を射た光は、凶眼を焼き潰し、身体を燃やした。
耳を塞ぎたくなるような絶叫を上げ、道路でのたうちまわる元知り合いたちに背を向け、彼は駆け出した。
もう遅いかも知れない。
そんな予感を振り払うかのように、圭一は一心に走った。




