序 章
一九四五年、フランス――
コニャックの原料になるブドウの生産地の一つである、コニャック市にほど近いプテット・シャンパーニュ地区は、その年、地獄を迎えようとしていた。
ここ数日、嵐が続いていた。
轟然と雷鳴が大地を揺るがし、稲妻が龍の如く空を駆け巡っている。風は樹々の葉を落とさんとする勢いで吹き狂い、雨はもの凄い音で扉を叩いていた。
このような嵐は、ここ数年間、いや、この地に人々が住むようになって以来一度もないことだった。だから人々は、何かの凶兆か呪いだと騒ぎ立て、固く戸を閉ざし、家の中に閉じこもってしまっていた。
懸命に育てたサンテミリオン種のワイン用のブドウが風雨に落とされようとも、もはや嘆く者はなかった。
生命があれば、ブドウなんてものはまた作れる。嵐が過ぎ去るまで、凝っとしていればいい。いつか、嵐もおさまるさ。
そう信じて、人々は神に祈った。
自然の災いを前にして、人々は神に祈るほか何も出来なかったのである。
だが、そんな人々の願いも虚しく、むしろ彼等のその行為を嘲笑うかのように、嵐はおさまるどころか、弱まる気配すら見せなかったのである。
人々に恐慌が生じるのも時間の問題だった。嵐は暴力的に荒れ続け、一週間もコニャック地方に居座り続けたのである。
そんな或る夜――
いつものように早々と全ての屋敷から灯火が消えた。それを見計らうように、一つの影が通りに姿を現した。吹き荒れる暴風に逆らうようにして、その小柄な影が歩き始める。
雨ですぐに衣服がびしょ濡れになったが、影は引き返そうともしない。
その右手は、一挺のライフルを握りしめていた。影は、休日は山へ入って鳥や獣を追いかけまわすのを趣味とする六〇歳前後の老人であった。銃の腕前は大したもので、そういう方面の人々の間では、顔と名はわりと知れ渡っている方であった。
その彼が、今頃何処へ行こうというのか。食糧や寝袋を持っていないところから見ても、ハンティングではなさそうだ。
それならば、何故ライフルを持っているのだろうか。すでに二発の散弾は装填されているようだし、ポケットに突っ込んだ左手は、その中で何発かの弾丸を握っているようだ。
そして、老人の眼は、異様なほどギラギラと光っていた。
何か、異常な執念が、老人を衝き動かしているように思えた。狩りで獲物を追いつめたときでさえ、これほどの眼光は宿りはしないだろうと思える、そんな眼だった。
老人は、何かをしきりに呟きながら、目的地を目指していた。雨に濡れて身体が冷えても、全く気にはならなかった。
程なくして、老人の鋭い眼眸がそれを捉えた。
暴風と闇の中にひっそりと佇む、古い屋敷の影。
昔、この辺りの領主であったものが住んでいた屋敷である。しかし、それも九〇年ほど前の話で、領主一家が無理心中を起こして以来、この屋敷には誰一人として入らず、近づこうともしなかった。皆、気味悪がっているのだ。噂によれば、毎夜、自殺した領主たちの幽霊が、怨嗟の声を上げながら場内を彷徨っているというが、いったい誰が見たのだろう。
それはともかく、その屋敷に、今、明かりがついていた。
奇妙な明かりだ。ランプの火などではない。
もっと薄く、冷たい色が、壊れかけた雨戸の隙間から洩れている。
亀裂の入った壁に貼りついていたツタが、猛威を振るう風のためにちぎれ、宙に揺れている。
老人は眼を光らせ、屋敷に足を向けた。その口は、依然として何か同じ言葉を繰り返して呟き続けている。何と呟いているのか、嵐の巻き起こす轟音のために聞き取れないが、呪詛にも似た言葉であるのは、その表情から窺い知れる。
目的の屋敷が目前に迫ったとき、ふと老人は足を止めた。
ライフルの把手を握る手に力が入る。
彼の右手の方角から、獣の臭いが吹きつけて来たのだ。雨にもかき消されることなく、その強烈な獣臭は老人の鼻をついた。
右側に鋭い視線を飛ばした瞬間、視界の中を漆黒の颶風が躍った。
三条の銀光が宙を裂いて疾る!
爪だ。
鋭利で巨大な爪が、老人の頭をもの凄い勢いで薙ぎ払った。手応えはなし。何故なら、老人はその場から姿を消していたからだ。爪が横殴りに襲う寸前、老人とは思えぬ身のこなしで後ろへ跳び、それを避けたのだった。
老人の眼前に立つ黒い影が、そのとき低い唸り声を発した。
虚空に、黄金色の輝きが二つ――時折り明滅を繰り返しながら、凝っと老人の方を見つめている。あれは、眼ではないのか。
そして、その下で燃える赤い炎。それは、血腥い息を放つ口腔だ。
狼だ。
そう老人は直感し、その直後、馬鹿なと愕然となった。
身長が二メートル以上もある狼だと!?
熊ではない。長年山に入っているから、唸り声と獣臭で狼だとわかる。だが、それを受け容れるには理性が邪魔をした。
信じられないまま、老人はライフルを構えていた。長い銃身が暴風に揺れもせず、眼前の巨大な狼を狙っている。
信じられるものか。狼男だと!?
そんなものが、いるわけがない。
だが、もしそうだとするならば、あの男は本当のことを言っていたことになる。
奴が老人の孫娘をさらっていったあと、大胆にも再び老人の前に姿を現し、こう告げたのだ。
「お孫さんを助けたければ、街外れにある屋敷まで来るといい。素晴らしいものを見せて上げますよ。――そうそう、銀の武器を忘れずにね。そうでないと、僕の所まで来れませんよ」
奴は、ずっと冷たい笑みを浮かべていた。
奴の言葉が何を意味しているのか、老人にはわからなかった。しかし、その言葉の裏に潜む何かを感じ、彼は男の言葉通りに、知り合いに銀の弾丸を造らせて持って来たのだ。
しかし、残念なことに、老人の手にする二連のライフルには、まだ銀の弾丸は装填されていない。
まさか、本当に魔獣〝人狼〟がいるなどと思ってもいなかったし、よしんばいたとしても、これほど早くに遭遇するとは思いもよらなかったからだ。
無駄弾は、出来るなら使いたくなかった。
しかし、致し方なかった。少しでも怯んで、弾を装填し直す隙を見せてくれることを祈って、老人は引き金を引き絞った。
ライフルがオレンジ色の爆光を噴き、轟音は嵐に吸い込まれた。
案の定、目の前の人狼と思しき影はビクともせず、老人に向かってさらに足を踏み出したのである。
驚いたことに、足音一つ聞こえて来ない。
もう一度、無駄と知りつつ引き金を引いた。
無数の散弾が、人狼の黄金色に輝く眼の直前で弾けたとき、人狼に一瞬の隙が生じた。
思わず、眼を押さえたのである。
今だ――!
素早く、老人は空になった薬夾をライフルから弾き出し、銀の弾丸を込めた。
一瞬、その作業のために視界を下げた。その瞬間、今度は人狼の巨体が幻のように揺らめいた。
しまった!?
心の中で叫ぶ老人の背後に、小さな竜巻が生じた。それが、人狼の高速移動の際に生じたなどと誰が知ろう。
人狼は、耳まで裂けた口を笑いに歪め、強烈なブロウを老人の背に向けて放った。
今度は、人狼が愕然とする番であった。
「――!?」
老人の姿が掻き消えたのである。
人狼は、血の気が引くのを感じた。
魔獣のブロウを躱した老人が、大地を背にして、ライフルで狙点を定めていたのだ。
老人が嗤った。
倒せるという満腔の自信を込めて、彼はライフルの鉄爪を引いていた。
一発目は人狼の眉間に吸い込まれ、後頭部から脳漿を噴出させた。
そして二発目。
心臓を噴き飛ばされ、全ての機能を停止した人狼は膝をつき、ついで地響きを立ててぶっ倒れた。
雨に濡れそぼる路上に、人狼の血が黒々と広がっていく。
老人は顔に飛び散った血を拭い去り、ライフルを杖にして立ち上がった。
全身に魔獣の血を浴びていた。もの凄い、吐き気を催す臭いがする。
だがそれに構うことなく、老人は鋭い眼眸を洋館の方に向けていた。
その、不可思議な灯火の洩れる窓へ――
「待っていろよ…ランバート。必ず…殺してやる…からな…」
呪詛の言葉が、地を這うような声で老人の口から紡ぎ出された。
ランバートの待つ屋敷の門の前に立ち、先の尖った鉄柵風の、サビついた門に手を伸ばす。
細く、シワのよった老人の腕は、しかし、力強く鉄扉を握りしめていた。
そして今、地獄へと通じる門を老人はゆっくりと押し開けたのである。
その部屋の明かりは、やはりランプの火などではなかった。少し大きめの燭台では、ロウソクのかわりに、ヒヨスやヘンルーダ、トリカブトといった毒草が磁石の粉に混ぜられて焚かれているのだった。
そして埃のたまった床には、今、大きな魔法円が描かれてあった。六芒星を描いたそれは悪魔を呼び出すためのものであったが、これほど大きな魔法円を必要とする悪魔とは、一体どのような存在なのか。
その魔法円の中央に、寝巻姿の少女が仰向けに寝かされていた。何か麻酔薬でもかがされたのか、これほど寒い部屋にいても、少女に起きる気配はなかった。
そう、この部屋は何故か恐ろしく寒かったのだ。
火が燃えているにもかかわらず、その炎が温度を吸収しているかのように、一向に室温は上がらなかった。
どうやら、零度近くにまで下がっているらしい。それは、男の吐く息が白く凝結していることからもわかる。
男は黒いマントを身にまとって、魔法円の傍らに佇んでいた。
マントから覗く右手には、細身の剣が握られていた。切っ先に、少し土埃が付着していることから、この剣で、床いっぱいの魔法円を描いたのだろう。
今や〝儀式〟を行うための準備は、全て整っていた。〝彼等〟が好物とする毒草の香、〝彼等〟と会話を交わすための魔力回廊を開く魔法円。そして生贄。
若者は、狂ったような笑みを浮かべた。
冷たく輝くその双眸は、依然、同年代の少女に注がれたままだ。
若者は今年二五歳になる。少女は五つ年下で、彼の妻だ。
いや、妻であった女だ。
もともと、こうする予定で結婚したのだ。
魔法円の傍らに佇みながら、彼は両腕を組んだ。そして、嬉しそうに呟く。
「くく、あの爺さん。どうやらアルゴールを倒したようだな」
アルゴールとは、どうやら例の人狼の名前であるらしい。
そして若者は、あの老爺の到着を心待ちにしているのだ。自分の愛する孫娘が、あの方の供物となる光景を、その眼で観てもらうために。
魔法円の中心で眠り続ける少女の両親は、彼女が幼い頃に病気で死んでおり、祖父である老人が、彼女を引き取って育ててきたのである。
少女は手塩にかけて育てられ、優しく気だてのいい美女となった。
老人の自慢の孫娘だ。
そういった事情があるだけに、老人は彼女を両親以上に愛していた。
それが五年前――
彼等の街に流れ着いた若者に、彼女は恋をしてしまった。
思えば、それが始まりだったのだ。
過ぎ去った時間を脳裡に思い浮かべながら、老人は階段を上っていた。
一歩階を上るたびに、古くなった木製の階段がギシギシと悲鳴を上げる。その音も、老人の心をより一層不快なものにしていた。
階段を上りきり、明かりのついた部屋のある二階についた。目的の部屋は、向かって右にのびる廊下の、一番端にある。
老人が一歩足を踏み出すたびに、古い木の廊下がきしみ、血が点々と落ちた。
人狼を倒したときに衣服に付着した大量の血潮が、まだ乾ききらずに滴り落ちているのである。
この屋敷に住んでいた領主というのは、それほど金を持っていたわけではなかったようである。というのは、頑丈な石で造られてあるのは外側だけで、内装のほとんどは木造だったからだ。しかも、階段の手すりや扉の彫刻、細工に金をかけておらず、手すりに関してはすり減りすぎていて、何が彫られていたのかわからないほどだ。別の何かに金をかけていたのだろうか、それとも、泥棒に入られて金目のものを根こそぎ盗まれたのだろうか。
ともかく、老人はその木の廊下を一歩一歩確かめるように歩き続けた。
その顔に、冷たい風が当たっている。
風が吹いているのを感じたのは、ちょうど廊下を目的の部屋に向けて歩き始めたときだった。
屋敷の内部に風が吹いている!?
正面の壁に穴でもあれば、別に不思議なことではないが、残念ながらそうではない。
突き当たりの壁は、多少漆喰が崩れてはいるが、穴などなかった。
「――!?」
老人の眼が、ふっと動いた。
壁の右側、つまり、例の部屋の方向へ。
その部屋の扉と床との間のわずかな隙間から、不可思議な明かりが洩れている。ドライアイスのような煙とともに。
風はどうやら、そこから吹いてきているようだ。
「…殺してやるぞ…ランバート…必ず…」
部屋に近づくほど気温は下がっていき、老人の呪いの呟きは白い息となった。
この、凍えそうな厳寒の中にあってなお、老人の身体ばかりか心の内奥までも、熱く燃えさかっていたのである。
何と恐ろしき執念、凄まじき怒りよ。
老人が部屋の前に立ったとき、扉を通り抜けて、今まで以上の冷気がうねるように吹きつけて来た。
待っていた……。
そう言っていた。
その凄まじい冷気を浴びたために、老人の衣服から滴っていた人狼の血が、瞬く間に凍りついてしまった。
何かの拍子で凍った血が廊下に落ちて、カシャンと澄んだ音を立てて砕けた。
老人が、軍手をはめた左手をドアノブに伸ばした途端、手も触れていないのに、扉はゆっくりと内側へ開き始めた。
ライフルを握る右手に、知らず力がこもる。
「ようこそ、我が岳父よ」
男、ランバートは魔法円の傍らに立ったまま、人なつっこい笑みを浮かべて老人を迎えた。
先刻とは別人かと見間違えるほどの変貌ぶりである。あの狂ったような笑み、冷たい眼光が、今は彼の顔からは欠落していた。
「その…」
老人は、ライフルの鈍色の二つの銃口を、数メートル離れたところに立つ若者に向けた。
すでに、彼の孫娘が二人の中間にいることに気づいている。そのあどけない寝顔を見たとき、老人のランバートを殺害するという決意は一層強くなった。
「――その笑みだ」
老人は吐き捨てるように言った。
「その笑みに、わしらは騙された。五年前、わしらの村にふらっと現れた貴様は、その笑みと声で村の人間を惑わせ、わしの大事な孫までも奪っていった…。返せ! セレナを返せ!」
しかし、ランバートは老人の言葉を聞き流し、嗤っているだけだった。
「――わしは、お前たちの結婚には反対だった。確かに、お前はよく働く男だ。ブドウの収穫からワインの醸造まで。村の若い衆以上に上手くやった。いや、やって見せた。だがな、いくらセレナがお前を好いていようとも、素性の知れぬ男に孫はやれんのでな。裏に回って、何かとんでもないことをやっておってはかなわんからな」
老人が話し終える頃にはランバートの顔に人のいい笑みはなく、無表情に近かった。そして、声もトーンが低くなってきていた。
「それで、人を雇って私を調べさせたというわけですか」
「ほう、気づいとったか。それなら話は早い」
「――それで、何かわかりましたか?」
ランバートの顔や声がますます無表情、無機質なものになっていく。
「おお。なかなか建設的な事実がわかったぞ。お前が、ここに来るまでに六人も人間を殺しとるという事実がな! この殺人鬼が!」
老人が、もの凄い剣幕でランバートを睨みつけたとき、
「殺人鬼だと? はっ、とんでもない」
ランバートは全く意外だというように、老人の言葉を笑い飛ばした。
「彼女たちは、偉大な目的のために死んでもらっただけですよ」
それが当然だという口振りで、ランバートはあっさりと言ってのけた。
「何? 目的だと?」
「そうです。彼女たちは、その目的のための、いわば布石なのですよ」
ランバートの相貌に、あの邪悪な気配が甦りつつあった。これこそが、彼の本性なのだ。
「も、目的とは何だ?」
そう問う老人の声は震えていた。いや、全身までも。問わずとも予想がつく。ランバートの狂気、そして、この部屋に描かれし邪悪なる陰謀。それは――
「魔族の復活」
ランバートは、ぽつりと呟くように言った。
「遥かな昔、神により封じられた魔を、この世に降臨させる、彼女たちは、そのための高貴なる犠牲なのですよ」
嬉々とした表情で、ランバートは話し続ける。それを聞く老人は狂気と現実の間に立ち、ただ声もなく震えるばかり。
「一六世紀の予言者が言った〝そのとき〟までに、俺は布石を敷き終わらなければならないのだ」
「…〝そのとき〟…?」
「わかるだろう? 聖書、ヨハネの黙示録、また『諸世紀』その他の預言が指し示す〝そのとき〟さ」
ランバートは、言い終えたとき老人の顔色が変わるのを見て、満足そうに笑みを浮かべた。
「気がついたようだな。神の復活は、聖骸布がすでに預言している通りだ」
聖骸布。イエス・キリストの遺体を包んだとされるリンネル地は、現在、トリノにあるサン・ジョバンニ大聖堂の祭壇上、鉄格子の奥の銀製の棺内部に安置されている。
その聖骸布に、キリストの姿が写っているのである。それを最初に発見したのは、セコンド・ピアという男であった。聖骸布の写真を世界で初めて製作するように依頼されていた彼は、撮影した写真の現像に早速とりかかった。そして、赤いライトのもと照らされた写真には、まさしくイエスの姿が生き生きと浮かび上がっていたのである。
それが、一八九八年のことである。
眼は閉じられ、眠っているような穏やかな顔つき、口許はゆったりとし、口と顎にヒゲをたくわえていた。
また、一九三一年の一般公開中に、ジョセップ・エンリエが撮影したが、結果は「同じ」であった。膝を抱えた男の姿が、陰画フィルムに写し出されていたのである。
「――奴は今、聖骸布の中で眠り、その秋を待っているのだ。あの影が動き出し、この世に〝光の御子〟が復活するまでに、戦いの準備をせねばならん。それが俺の使命だ」
「馬鹿な! キリスト様の復活を阻止したくば、布を処分すればいいだろう!」
「残念だが、それは出来ない。不可能なのだよ。奴の周りには、強力な神々の加護があるのでね」
だから、悪魔を復活させるのだ、とランバートは心の中で呟いた。
「――使命だと言ったな」
老人が、ライフルを構えなおして訊く。
「ああ、言った」
「どういう事だ、それは」
何がおかしいのか、ランバートは、くっくと笑い、そして告げた。
「――教えてやろう。偉大なる魔界の住人は、かつて愚かな神々との戦いに破れ、地の底深くに封印された。その封印は、七大天使の力によって為され、解く術はないとされてきた」
「――」
「だが、実際はあったのだ。長年の研究の末、俺はついにその開封の鍵を見出した。この世で最も素晴らしい黄金律の肉体を持った人間こそが、神々の封印を解くことが出来るのだ」
「そ、それで…六人も殺したというのか…」
老人の声の震えは、今度はあまりの怒りのためであった。
「その通り」
それを知ってか知らずか、ランバートは勝ち誇ったように微笑さえ浮かべて言う。
「俺は、この世に生を享け、一七歳になったときそのことを悟った。――天啓を受けたのだ」
そのときランバートは遠い眼つきをして、血に染まった過去を思い出していた。
己が使命を自覚した彼は、自分が素晴らしい魔力と知識を得たことに気づいた。
例えば、人狼のような低級妖魔を召喚し、使役することが、そのときから可能になった。
また、それ以下の意志を持たぬ魔を呼び出すこともできた。
そして、彼の頭脳と眼は、人間を見つける能力を与えられた。悪魔復活の鍵となる霊的要素を帯びた血を宿す、黄金律の人間を。
最初の人間は、彼のすぐそばにいた。
人間のものではない能力を見出した彼を最も恐れ、非難し、殺そうとまでした女――母親だ。
ランバートの父親は、彼が物心つく前に事故死している。それだけに、今まで手塩にかけて育て、愛してきた自分の息子が、突如人間以外の何かに変わったとなれば、それも無理のないことだった。
ある晩、彼女は外出先から帰ってきた彼めがけ、狂気のままナイフを突き出したのである。
そのときに出来た切り傷は、今もなお、彼の左手首に残っている。
だが、死んだのは母親だった。
飛びかかってきた女――そう、すでに母親などではなかったのだ――に向けて、ランバートは魔力を放ったのだ。
壊れろ!
狂った女の肉体は、一瞬後、無惨な肉片へと文字通り破壊された。
バラバラになって飛び散る人間の身体…。
こうも簡単に、人が殺せるのか。
歓喜のため立ち尽くす彼の手首を、そのときナイフを握ったままの女の手だけがかすめ、彼の手首から血が噴き上がった。
カッと音を立てて、手首つきのナイフが床に突き立つ。床に溜まった女の血肉と、ランバートの血とが混じり合う。
と、もの凄い勢いで、血が床に吸収され始めたのだ!
まるで、何者かが床の下にいて、血と肉を貪っているような異様な、地獄めいた光景だった。
女がナイフを突き出すのをランバートが見た瞬間に、魔力回廊は開かれていたのだった。
「これで、一人め…」
その呟きは、しかし悲哀ではなく、喜びに満ちていたという…。
そして、今回で七人め。つまり最後だ。
この娘に会うまで、三年もの時を要している。だから、セレナに出会ったときは、どんなに喜んだことか。しかも抱いてみると、彼女が今までの人間の中で、最も素晴らしい体つきをしていることがわかった。
今夜、儀式に成功すれば、神によって遥かな昔に施された封印は解け、魔界貴族と呼ばれる上級悪魔の召喚も困難なものでなくなるのだ。
「人間のくせに、悪魔の味方をするというのか、お前は!」
激昂する老人を鼻で嗤い、
「そうだよ。俺は愚かな神など認めはしない。人間を支配し、人間に知恵を与えるのを恐れた神。蛇によって知恵を得た人間を楽園から追放し、蛇を愚者とした神を、どうして認めることが出来るのだ? 神こそが、まさに愚かな存在ではないか」
「こ、この悪魔め!」
怒号とともに、老人のライフルが火を噴いた。
無数の散弾が広がる!
驚愕は、しかし、次の瞬間老人に訪れた。
ランバートの身体を撃ち抜き、肉塊に変える筈の散弾は、ただの一発も身体をかすめることさえなく、ランバートの手前の空間で急速に速度を失い、バラバラと床に散らばったのである。
「な――!?」
絶句する老人に、ランバートは声をかける。
「話は終わりだ。黙って観ていてもらおうか、この世が地獄と化す様をな!」
ランバートの右手が閃き、銀光が疾る!
瞬間、老人は血を吐いて後方へ吹き飛ばされていた。
老人の胸には肺を貫いてレイピアが突き刺さっており、それが、そのまま壁に深々とめり込んだとき、老人の身体は壁に磔になった。
もう一度、老人は大量に血を吐いた。
剣が肺を射抜き、あふれた血が気管へ入ったためである。
その胸から剣が消え、老人は糸の切れた操り人形のように床に落下した。
ランバートの右手に、血まみれの剣が戻る。
老人は苦しそうに息を喘がせ、ランバートをただ仰ぎ見ているだけだった。
「もう少し生きていろよ。素晴らしいものを見せてやるからな」
そう宣言して、ランバートは魔法円の中央に立った。眠り続ける美女の肢体を見下ろし、ニヤッと笑う。
漆黒のマントを翻し、ランバートはレイピアを高々とかかげた。
そして、呪文の詠唱が始まる。
「我が四囲に五芒星、炎を上げたり…。
光柱に六芒星、輝きたり」
気温が急激に下がった。
吐息はより白くなり、流れ出た血は、一瞬にして凍りついた。
「…やめろ…」
老人が胸を押さえ、呻きながら言う。そして言い終えたとき、また血を吐いた。
その血もすぐに凍って、カシャンと乾いた音を立てて床に散った。
呪文の詠唱は、聞いたこともない言語で続けられた。
何を言っているのか、まるで見当もつかない。ただ、恐ろしく邪悪な気配が、その呪文の効果によって強められていることだけは、老人にも感じられた。
上がってくる…。
その感覚を、老人は、そのような言葉でとらえていた。
やがて、床に描かれた魔法円が、ボウッと赤く輝きだした。それとともに、眠る少女の肢体を包み込むかのように、視界に朱色の紗がかけられた。
赤い色をした妖霧が、突然この部屋に発生したのである。
「…くっ」
虚ろな瞳で儀式を見ていた老人の眼に、鋭い眼光が戻ったのは、まさにこの瞬間である。
老人の右手が、そばに落ちたライフルに伸びた。肺を貫かれてなお、老人は立ち上がった。その凄まじい執念の向こう側に、人智を越えた何かの存在を見た。
「――我が呪に応え、我に従い、我が前にその姿、その力を具現せしめよ!」
ランバートが天にかざした右手の中で、逆手に握り直されたレイピアが赤光を反射して光る。
「強大にして偉大なる悪魔王の眷族、魔界貴族よ」
ランバートがそう呼びかけた瞬間、少女セレナの肢体が、下からの強風にあおられて、宙に浮かび上がった。彼女の身体を、〝向こう側〟から来る妖しい風が押し上げているのだ。
寝巻の裾が、妖風を浴びて大きく翻った。
眩しいまでに白い少女の脚が、太腿まで露になる。
空中に浮かぶ少女に、起きる気配は全くない。やはり何らかの薬品を嗅がされているのであろう。
「我が名はランバート。盟約に従い、ここに最後の供物を捧げる! 全ての封印が解かれし瞬間、我が前に姿を現し、言葉を交わしたまえ!――さあ、朱の宴だ!」
ランバートの相貌が、悪魔の如き笑みに歪む。彼は今、満腔の自信を持って、少女の胸に剣を突き立てた。
否、その筈であった。
それがまさか、一人の老人によって阻止されようとは!?
一発の銃声が、室内に轟いていた。
レイピアが娘の胸に疾った刹那のことだ。
老人が最後の力を振り絞ってライフルの引き金を引いたのだとランバートが知ったのは、無数の散弾の餌食となった瞬間だった。
信じられなかった。もはや老人の抵抗はないものと思い、完全に油断していた。その油断が、全ての計画を御破算にしてしまったのだ。
レイピアの刃は砕かれ、全身から血をあふれ出させて、ランバートは床に頽れた。
薄れゆく視力で、彼は老人を見た。
壁にもたれかかって孫娘を見る老人の眼に、もはや光はない。だが、口許に浮かぶ満足そうな笑みは何だろう。
そうランバートは漠然と思い、そして気づいた。
老人は、自分の使命を全うし、永遠の眠りについたのだ、と。
ランバートによる〝解封の儀〟を阻止するために、老人は生きていたのだ。
肺をやられた老人に、もはやライフルの反動に耐えられるだけの力は残っていなかったようだ。ライフルが老人の手から滑り落ち、続いて老人も床に倒れた。
「…こんな…馬鹿な…」
ランバートが床で呻く。
全身に散弾を浴び、内蔵や骨をズタズタにされながら、彼はまだ生きていた。もの凄い生命力と賞賛すべきかどうか。
彼は起き上がろうとして、床に手をついた。が、流れ出た血で手が滑り、起き上がることが出来ない。
呻吟する彼の脳裡に声が閃いたのは、それからしばらくしてからだった。
″ランバートよ……″
そのとき彼は、部屋に妖気が充満するのを感じた。
その証拠に、室内の妖霧が異様な凝集を開始する。
地獄から響くような〝声〟の放つ妖気に反応して、霧に含有されていた妖魔が、次第に実体化し始めたのである。
いつの間にか、部屋は、いびつで醜悪な形状をした妖魔で一杯になっていた。
人狼などの低級妖魔よりも、さらに下に位置する悪霊・死霊どもが主であった。
″どうした…ランバート…″
ギャアギャアと騒がしい低級霊の声に混じって、低く威厳のある声が叫ぶ。
″魔界貴族第二位、侯爵フェノメネウスの名をもって、汝に問う。『儀式』はどうなったのか…″
フェノメネウス!
魔界侯爵だと!?
にわかに、ランバートの精神を、悔しさが満たした。七大天使の施した封印の内、六つまで解けたために、魔族の地上復活は実現できなかったが、〝回廊〟を通しての会話は可能になっていたらしい。
しかも、侯爵の称号を持つほどの大悪魔が、テレパシーを使って話しかけて来たのだ。
なのに、俺は、もはや生命が尽きようとしている――
「侯爵様。我が、今生での、使命は達成されず…。なれど…魂は、永遠に不滅…。必ず、輪廻転生し、最後の…ミカエルの封印…解いて…みせます…」
そう言い残して、ランバートも死んだ。彼は大学で仏教を学んだ際に〝輪廻転生〟という言葉を知ったが、その概念はそれ以前から「知って」いたのである。魂は永遠のもので、幾度となく人間は生まれ変わるのだということを。
ランバートの生命の炎が絶えたことを知ってか、従容と室内の妖気が薄れ始めた。それとともに奇怪な低級霊の姿も薄くなっていく。
嵐は過ぎ去った。果たして、この地方の人々にとって何日ぶりの朝日だろうか。朝焼けの空の下、新鮮な気持ちで人々は活気づき始めた。
程なくして、ようやく薬品の効果が切れたのか、少女の眼蓋がピクッと震えた。それからの覚醒は、急速だった。
深く沈んでいた意識が一気に水面にまで浮上し、セレナはがばっと上体を起こした。
何故、自分がこんな所にいるのか理解できず、きょろきょろと辺りを見まわした。
「――!?」
と、彼女の口から声にならない叫び声が迸った。凄絶な死に様の夫と祖父の姿を見つけたのである。
自分が、どうしてこんな場所にいるのか。
何故、二人が死んでいるのか。
何があったのか。
わけもわからぬまま、セレナは先ず夫であるランバートの死体に近づいていった。
祖父の反対を押し切ってまで結婚した二人だった。無論、少女は今でもランバートを愛している。だからこそ、先に近づいたのだ。
しかし、俯せになって死んでいるランバートを抱き起こした途端、その愛が脆くも崩れ去るのを感じた。
若者の相貌が、紛れもなく悪魔そのものと化していたのである!
実際にはそうではないのだが、何故かセレナの眼にはそう見えてしまうのである。
「ヒ――!?」
死体を放り出し、セレナは壁際の祖父の遺体に取りすがった。
ガチガチと、彼女の歯が鳴っている。
あまりの恐怖のため、歯の根が合わないでいるのだ。下手をすれば、錯乱してしまうかも知れなかった。
自分がいつの間にか失禁してしまっているのにも気づかず、やがて、彼女は老人の死体に頬をうずめ、大声で泣き出した。泣き喚いていた。
失禁することで極度の緊張状態がゆるみ、全てが現実感を伴って、彼女に襲いかかって来たのだろう。
かよわい少女、これで天涯孤独になってしまったセレナは、声が枯れて出なくなっても、老人のそばを離れようとせず、ずっと泣き続けていた…。