椿の赤が、憎々しい。
レイアウトが決定し、しばらく。あとは工事がメインとなる。クライアントである薬師さんと直接話をする頻度は、レイアウト設計の時よりも随分と減っていた。
極めて順調に事が進んでいるというのに、私の気分は晴れない。
仕事面において、手を抜くようなことはしていない。それは断言できる。自分の仕事には誇りを持っているし、プライドがある。何があろうと、その時に自分が可能な範囲で、全力を出し切っている。
だからこそ、今、私の心を覆う厚い雲は、あくまで私の個人的感情に他ならなかった。
繰り返し、繰り返し、まるで呪いのように見る夢。いつも忘れていたソレを、今はしっかり記憶している。
それがどういう意味を持つのか。
私は――“椿”は、“柊様”を慕っていた。
願望夢? だけれども、夢は彼と会う前から見ていた。偶然の一致にしては、全てができすぎている。
あるいは、夢に引っ張られて、私は彼に惹かれているとでもいうのか。
夢の中では着実に時が進んでいた。
簪を贈られ、“柊様”の結婚が決まり、彼と別れ、そして――そして?
身震いが起こる。その先を、思い出したくないと思った。いや、思い出すも何も、それはあくまで夢の中のできごとであり、私のものではない。思い出す、という表現は、あまりにも――。
『思い出したら、教えてあげます』
不意に、初対面の際に掛けられた薬師さんの言葉が蘇った。
“思い出したら”、と彼は言った。……何を?
「――待鳥さん!」
「っ、ぁ、はい!」
突然意識を引き戻され、動揺しながら返事をした。ガタリと椅子が動く音に、自分で驚く。相手も困惑した顔をしていた。同僚だ。二つ下の後輩である梅見月。片手には受話器。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん。ごめん。電話?」
「はい。YSK工房の榎田さんからです」
折り返しますか、という問い掛けに、すぐさま、出る、と答える。
受話器を取り、ボタンをひとつ。保留になっていた回線を繋げる。
「お待たせしました、待鳥です」
出る直前に、考えても仕方の無いことは全て捨て置いた。今集中するべきなのは、そこではない。
内容は、ちょうど薬師さんの現場の進捗に関してだった。
年度末が近付いている時期だ。施工業者が多忙を極めており、多少の遅れが出ているとのことだった。
予想はしていたとはいえ、参る。一応、こちらが先行して手配を掛けていたはずなのだが。
電話を切ってから、工程表を引っ張り出す。薬師さんのものだけではない。それ以外のものも、全て。何をどこに配置すれば、上手く事が運ぶか。まるでパズルの答えを探るように、動かしていく。
しばらく睨めっこをして、納得のいく形を見つけ出す。各所に手配をし直し、ようやく一息吐いた。
仕事をしている間は、余計なことを考えなくて済む。
「……ちょっと出掛けてくるね」
「はーい」
一日の予定は自分で決めるこの会社では、外に出るも中に籠るも自由だ。サボっていようが文句を言われることはほとんどない。無論、“やることをやっていれば”。
事務所を出てから、さてどうしようか、と考える。作るべき資料はまだあるけれど、今はスイッチが入らない。昼過ぎに来た遅れの連絡について、頭に浮かべた。
――今日は、受け持っている現場の様子を見に行ってみようか。
そうと決まれば、行動は早かった。
薬師さんの現場を最後に回したのは、自分の中で、何かの意識が働いてのことだったのか。
「……椿」
完成した花壇には、既にそれが植えられていた。
冬の寒さの中でも微かに咲いている。春の字を持っているというのに。
『あの花を見ていると、春が冬に続くものなんだってことが、よくわかる』
柔らかい声が頭に蘇る。言ったのは誰で、それをいつ聞いたのか。
少なくとも――
「ああ、もう咲いているんだね。あの花を見ていると、春が冬に続くものなんだってことが、よくわかる」
いつの間にか近くに立っていた薬師さんは、驚いて動きを止める私に頓着せずに、つらつらと言葉を重ねていく。
「『木編に春と書くクセして、冬にも咲いてみせるんだから不思議だよね』」
二重に聞こえる声は、誰のものなのか。
「……『春が待つ方へ、導くためかもしれませんね』」
私が口にしているのは、私の言葉なのか、それとも“椿”のものなのか。
貴方が今、目を細めて見つめる私は、“私”?
貴方の視線に戸惑い、だというのに“私”を見ない嫉妬に近い感情すら抱くこの心は、本当に私のものなのか。
泣きたくなってくる。
私は確かに、自分の意思でここに来たはずなのに、まるで否定されているみたいだ。
「少しだけ待っていてもらえますか」
薬師さんはそう言い残して、足早にその場を後にする。私は、まるで夢の中に揺蕩っているように、どこか朦朧とした意識でそこに残った。
椿の赤が、憎々しい。自分の名も、また同様に。
「お待たせしました」
恭しく、それでいて戯けた口調。
差し出されたのは、温かいココアの缶だった。反射的に受け取る。冷えて真っ赤になった指先に染み込むように、熱が移ってくる。
「あ……ありがとうございます」
「どーいたしまして」彼は、ちらっと私の指先に目をやる。「とても冷たそうだったので。少しでもあったまると良いんだけど」
カッと頰が熱くなる。私は夢の話に囚われているだけだったけれど、目の前にいるこの人は、しっかり周りが見えている。その差は大きいように感じられた。
「ところで、待鳥さんは何故こちらに?」
「現場の状況を実際に確認しようと」
正直に答えると、「真面目ですね」と目を細められる。照れ隠しのように「仕事ですから」と顔を伏せる。
「僕はサボりです」
堂々と胸を張る薬師さんに唖然とし、思わずフッと噴き出す。こちらを盗み見てにやにやしている薬師さんに気付き――「んんっ」――口元に手を当て、空咳をして誤魔化した。
「薬師さん、あの店の店長をしているんじゃないんですか? サボっていたら叱られますよ」
「あー、うん。よく叱られます」
眉尻を下げて、へにゃりと笑う。
「ほら!……でも、実は私も、サボっているかも、です」
「あれ、じゃあお揃いですね」
お互いに視線を絡め、くすくすと笑う。
――ずっと前から、こうやって話していたような気もした。
「てんちょー!」
背後から声がした。肩越しに振り向くと、薬師さんの店で受付をしている女性が、ぱたぱたと駆け寄ってきていた。
「もう! なんで勝手にお店からいなくなっちゃうんですか!」
「木船さんもいなくなってるじゃないですか」
薬師さんが茶化すと、「誰のせいだと!」と目くじらを立てている。素直な反応は、初めて会った時から変わらない。それがとても羨ましかった。私はあの頃から、ずっと素直になれずにいるから。
「――待鳥さんにまで迷惑掛けて〜!」
「迷惑じゃないって……ねえ?」
「言わせるのは卑怯ですよ!」
ぽんぽんと飛び交う言葉に、親密さを感じ取る。完成されたそこに入り込む余地は無いように思えた。
痛い、と思う。
この距離感を、私は知っている。
言えない。何も動けない。……違う。本当は、言えるし、動ける。私が、言わなくて、動かないだけだ。前から、そう。その後悔が身体を蝕む。だけど――
は、と誰にも気付かれないように息を吐く。
「迷惑とは思っていませんよ。むしろ良い気晴らしになりました。ありがとうございます」
にこりと笑う。作った微笑み。恐縮する彼女は、可愛らしい。私は、違う。
「それでは私はそろそろ失礼します」
腰を折って一礼すると、背を向ける。
――近寄る勇気は、私には無かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日、夢は見なかった。