いっそ最初から、決定的に突き放して欲しかった。
瞼を持ち上げ、真っ先に目に入るのが天井だ。しばらくぼうっと眺める。
夢を見ていた。いつもの夢、だ。
何故だか、内容を憶えている。いつもと違う。普通の夢とは違う。
夢は、忘れてしまうことが正常である。細部までしっかり記憶に残る夢は、異常だ。反面、その異常を受け入れ、記憶の欠片を必死に抱き締める自分もいた。
なくしてなるものか、と。
“なくす”も何も、たかが夢なのに。
フラフラと立ち上がり、水を飲む。常温の水が、今は冷たく感じる。嚥下すると、水が喉を通り、胃へと流れていくことがわかった。
視線は、仕事用のバッグへと移る。
あの中には私の受け持つ仕事の概要資料が収まっている。――薬師さんのソレも。
あの日。初回の打合せの日。
彼は、なぞなぞのような発言に翻弄される以外は、物分かりの良い――要はとても“やりやすい”顧客だった。
貸店舗は既に決定済み。インテリア家具は既に目を付けたメーカーがあるようだった。他メーカーのカタログも取り寄せ、壁材・床材の検討込みで、現地に足を運び、案を詰める。
デザイン畑の人間でもなかなか無の空間からイメージ決めていくことが難しいのだが、彼の中では既にある程度固まっているらしい。そのためだろう、いくつかのパターンをこちらから提案していくというよりは、足りない情報・知識を補完していくアドバイザーとしての役割が強い。
本当に、お世辞を抜きにして、ここまで上質な顧客はいない。
だというのに、私は彼の前に出ることに対し、どこか苦手意識を抱いているようだった。
彼の発言は、ひとつひとつが私を揺さぶる。仕事は仕事と割り切り、なんとか平常心を保ち、進めることができているが、いつかヘマをやらかしそうで、不安が募る。
「――待鳥さん!」
おーい、と遠くから声がした。見れば、まだ中身が無い店舗の前に、薬師さんが片手を上げて立っていた。その辺りを歩く女性が色めき立っている。彼は有名人だ。そうでなくても人の目を引く容貌をしている。
自然、背筋が真っ直ぐに伸びた。この人の前でだらしのないことはできない。より正確に言うのなら、“この人を見ている女性の前で”、となるのか。そこまで考え、はたと我に返る。
何を考えているのだろう。今は仕事の時間だというのに。
自分を叱咤し、唇をきゅうと引き締める。彼の前では、どうも笑顔を作ることができない。
「すみません、お待たせしたようで。先に見ていてくださって良かったのに」
「僕が一人で? それじゃ意味が無いでしょう」
戯けた調子で言っているが、それは本心だろう。彼の中でイメージは決まっている。だから単体で中に入ったところで、意味は無いのだ。
他愛の無い挨拶をし、店舗に足を踏み入れる。
背後から、「ね、あれって美容師の……」「そういえば、ここに新しくオープンするって」と彼の噂をする声が聞こえたが、彼は特に気にしていない様子だった。
「こっちの壁は、アクセントを入れようと思っているんです。派手な柄モノより、優しい色合いの緑が軸になっているもの良いかな。ワンポイントで春らしいピンクを入れても良いかもしれない」
「可愛い感じになりますね」
ターゲットは二十代、三十代の女性だったか。頭に情報を浮かべながら、続けた。
「リーフ調でアクセントとなる壁紙を、いくつかピックアップしておきますね」
手帳を取り出し、次回までの宿題として書き込む。
「それと、この面をアクセントにすると、椅子の位置は少し調整した方が良いかもしれません」
「そこが悩みどころなんだ」薬師さんは生真面目な顔を作る。「初めにレイアウトした時は、もう少し奥行きが広いと思っていたからなぁ」
物の無い部屋は、実際に物を置いた時よりも広く見えるものだ。
「いくつか案を用意しましょう。次回の打合せの日程ですが、ご都合がよろしいのは?」
「そうだな……来週の月曜はどうだろう。できれば午後だと助かるんだけど」
「では午後一時で」
任された事に、歓喜を覚える自分は、やはり少しおかしい気がする。これが、デザイナーとしての矜持から来るものじゃないか、と疑うには、私は経験数が多過ぎた。違う、とすぐに否定できてしまう。
店舗の前では、既に先行して工事が始まっている。花壇を作る為だ。
今は剥き出しのコンクリートが見えている状態のそこを、薬師さんは窓越しに眺めた。
「あそこの花壇にはね、椿を植えようと思って」
「……道路から見た時に足元の辺りが隠れて、良いかと」
あまりにも開放的過ぎると、逆に近寄り難い印象を与える。
「そうだね。そうじゃなくても、椿は僕にとって思い入れのある大事なものだから」
椿、とその名を口にする時に、彼は何故か私を見る。いや、同じ名前を持っているからだろう、それでつい視線を向けてしまうのだ。あるいはただの気のせい。そうでなければ……なんだというの?
ビジネスライクな担当に向けるにしては過ぎた熱を灯す瞳の意味を、私は、知りたいのか、知りたくないのか。
事務所に戻り、一息吐く。
「お疲れさん」
部長がとことこと、コーヒーを持って近寄ってくる。とことこ。可愛らしい表現だけれど、ぽんぽこお腹を持つ部長には、妙に似合っていた。
「ありがとうございます」
恐縮しながら、口をつける。
「薬師さんの方はどうかな」
「特に大きな問題は」
そうか、と返事があった。満足気な顔で頷く。
「薬師さんがかなり楽ができるお客様なので」
「きみが相手だからかもしれないけどね」
動揺を隠せず、マグカップを机に置いた。これまでの報告で、進捗具合や費用に関することは逐一知らせていたが、あの不可思議な発言の数々に関しては、黙っていたのに。まるで見透かしたような含みを持たせた表情に、部長を凝視した。目を白黒させる私に、「実はね」と前置きした部長が答えを明かす。
「最初にうちに打診があった時にね、条件があったんだよ」まんまるく短い指が、ついと私を示した。「“待鳥さんが担当になること”。――それさえ叶えられたら、後は良い、と」
「……何それ。聞いてないですよ!」
「言ってないからね」
ぽんぽんとお腹を叩きながら、部長は笑う。
「悪い子にも見えなかったし、いいかなぁ、と」
そういう問題ではない、と言いたい。確かに部長の目は有能だけれど、絶対的というわけではないのだ。良い人そうに見えて実は、なんて、そう珍しい話でもない。私の不満を受け止めながら、ふむふむ、と部長はしきりに頷く。
「まあ不思議ではあったけどね。待鳥さんの腕は確かで、お客さんの間でも評判が良いけど、業界で特別有名って訳でも無いし。さて、彼はどこからきみの名前を知ったのかな、と」
「なら……!」
「でも、悪い子には見えなかったし」
部長は、同じ言葉を繰り返した。この狸ジジイ、などとは口が裂けても声には出せないので、仕方なく心の中で罵る。
「コーヒー、ご馳走様でした!」
「はい、お粗末様でした」
空になったマグカップを手に、乱暴に立ち上がる。にこにこ顏の部長は、若い部下の憤りなどものともしていないように見えた。
給湯室でマグカップを洗いながら、考える。
薬師さんは、私のことを知っていた。美容院での出会いは偶然ではなく、必然だった。知っていて、私を指名した。
どこかで、知り合っているはずの相手ということだ。
無意識に、髪を弄った。
そこに手掛かりがあるように思えて。
……実際は、何も思い当たることなんてないくせに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
――そして今日も、夢を見る。
寒い冬の日だった。
今日はめでたい日だ。当主様は笑った。
息子の婚約が整った、と。
相手は、お得意様のお嬢様。大事に大事に育てられた、可愛らしく気品のある一人娘。あの御方の愛娘だ、幸せにしてやれ。当主様は彼にそう言った。
次男である彼は、婿養子に入る。
この家から、出て行く。永遠に。
それが、良いことなのか、悪いことなのか。
別の人と仲睦まじく手を繋ぐ彼を、見なくて済むと喜べばよいのか。その立場には決してなれないことを、もう戯れにも触れることができないことを、泣けばよいのか。
――否。
使用人たるもの、心から祝福することが正解だ。
何を、わかりきったことを。
わかりきっているのに、わりきれない。
からんころんと、音が鳴る。私を縛り付けるように。
嗚呼、何故、この簪を、貴方は私に贈ったりなどしたのですか。一緒にいることもできないのに。そのことを、一番知っていたはずなのに。
忘れたいのに、忘れられない。
苦しくて、苦しくて。こんな気持ち、捨ててしまいたいのに。甘い音が私を支配する。
嗚呼、なんて残酷。
それならば、最初から甘い顔など見せないで欲しかった。
いっそ最初から、決定的に突き放して欲しかった。
期待の一切を、初めから持てないように。
簪を贈った貴方のことを、私は一生許したりしないでしょう。許せないのに、手放すことができない、このような物。
からんころんと、音が鳴る。
私をがんじがらめにする、鎖のようだ。
その日、貴方は私を、そっと裏庭に呼びつけた。
「貴方が近付いてくるのがよくわかっていい」
近寄る私に、貴方は結婚が決まる前と何も変わらず、そう言った。いや、きっと、簪を贈ったあの日には、既に結婚は決まったことだったはずだ。彼の中では、変わらない日々の延長だ。
多くの言葉を、重ねたりはしなかった。
その手をそっと触れ合わせることも、しなかった。
「抱き締めてもいい?」
貴方はそう訊ねて、私は首を横に振った。
哀しげに、しかし納得したように、あるいは全てを諦めたように微笑んだ貴方は、何かに抵抗するかのように、簪を挿した私の髪を、一房だけ手に持つと、そっと口付けた。
「幸せになって」
淡く微笑む貴方は、私に背を向けて去って行く。泣いて縋ることをしなかった私は、強かったのか、弱かったのか。
貴方は知らなかったんでしょう。自分の言葉がまるで鎖のように、私を縛り付けることになるなんて。
それとも知っていたの? だとしたら、なんて残酷な人だろうか。
その手で、別の誰かの頬を撫で、
その唇で、別の誰かの熱に触れ、
その微笑みを、別の誰かに向けるくせに。
もう二度と、私に与えるものなんて一つも無いと言って、最後にそんな言葉を残して去るだなんて。
やめて、やめて。言い訳が聞きたいわけじゃないの。愛を囁いて欲しいわけでもない。
せめて嫌いだと突き放してくれたら良かったのに。決定的に嫌な人になってくれたら良かったのに。
お願いだから、私の中に居座ったりしないで。
地獄に落とされるよりも、それは辛いことなのに。
憎みたい背中が視界から外れ、ようやく身体から力が抜けた。崩れ落ちた視界が、不自然に歪む。ああ、零れ落ちた涙が、救いようもなく冷たければ良かったのに。
傍らに、花が咲いていた。たったの一輪だけ。赤に染めた私の名を冠する花は、彼を祝福しているようにも、ひどく憎んでいるようにも見えた。
その後は、表向きには平穏に、なんの問題も無く過ぎて行った。
準備は滞りなく進んだ。
当日、屋敷を出た彼が馬車に乗り込む姿を、私は意図的に見なかった。買い出しに出掛けていた見られなかったのだ、という言い訳を拵えた。
会わずに終わる、そのはずだったのに。
道の端を歩く私の横を、彼が乗る馬車が通り抜けた。
からんころんと、音が鳴る。馬が立てる音で掻き消えたって仕方がないはずの音色を、彼は的確に拾って、馬車から顔を覗かせた。
「――椿!」
それは、あってはならないことだった。
「僕は、」
彼の言葉の続きを、聞き取ることはできなかった。
「柊様……」
私の小さな声だって、彼の耳には届かなかっただろう。
馬車は離れていく。すぐに豆粒のように小さくなった。
けれどあんなにも速いというのに、想いを断ち切る力は無いようだった。
いっそのこと、引き千切っていってくれたら良かったのに。
風に揺られた簪が、からんころんと、音を鳴らす。
忘れることは許さないと、そう言うように。
――貴方の未来を知ったのは、それから少し経ってからのことだった。