ショート・グッドバイ
急転直下。
僕の手からは紋章が消え失せ、カジェロはリースレットさんを攫ってダンジョンへと消えた。
「研究者としては忸怩たる思いだけれど、キミの手の傷、そしてカレの十字傷――今更ながら分かったよ。
人形術式、ヒトであろうと神であろうとその意思を塗り潰して操り人形にする外法。どうやらそいつを仕込まれていたらしい」
青息吐息で床の上にへたり込むと、シーラさんはそうまくしたてた。
「アルフくん、左手を貸してくれ。早く、今すぐにだ」
「は、はい――」
いつにない剣幕に押し切られ、僕は左手を伸ばす。
シーラさんはそれを掴むと、グイ、と引っ張って。
「っ……!」
「シ、シ、シーラさんっ!?」
ふよん、と。
柔らかくて暖かくて、けれど弾力があって。
ええと。
僕の掌は、シーラさんの左胸に、思いっきり押し付けられていた。
あれ。
濡れて、る……?
「実はカジェロにズドンとやられてね。応急処置はしたけれど、気を抜くとこの通りなんだ」
まさか。
息が荒いのも。
顔が青色を通り越して、やけに白いのも。
単に全速力で走ってきたから疲れたわけじゃなく。
重傷を負っているからで。
「冗談、ですよね……」
それを裏付けるように、僕の左掌は真っ赤な血で染まっていく。
「シーラ、さん……?」
「大丈夫さ。ボクは不老不死だからね。今はちょっと低空飛行になってるだけだよ」
それが強がりなのか真実なのか、人間のボクには分からない。
「実は隠していたけれどさ、ボクもカジェロと同じなんだよ。荒ぶる神々の一柱だったモノさ。
いま、血液を通してキミの左手に神性を授けた。そいつで何発か殴ってやれば、カジェロもきっと目を覚ますだろうさ。……っ!」
二度、三度と咳き込むシーラさん。
その口元から、血が滴り落ちる。
「わかりました、わかりましたから、もう喋らないでください。早く施療院に――」
「無駄だよ。ボクは人間じゃないんだから、さ。……そんな泣きそうな顔をするなよ。ちょっと眠ればすぐに元通りだよ、このくらい……」
そう語る間にもエプロンドレスには赤黒い染みが広がっていく。さらには床にまでも。
必死で回復魔法を注ぎ込むけれど、傷は一向に塞がってくれない。
「おいおい……キミは冒険者だろう……?
きちんと取捨選択を、するんだ。ここで魔力の無駄使いをしちゃ、いけない」
その時のシーラさんは、今までに見たことのないような表情だった。
朝日に溶けて消える粉雪のような。
風に揺れる枯れ葉のような。
まるで、次の瞬間には息絶えてしまいそうで。
崩れ落ちるその身体を、僕は思わず抱き止めていた。
「泣くなよ、なあ、泣くんじゃないさ、アルフレッド・ヘイスティン。
――|運命はもうカードを混ぜたんだ《Fate shuffles the cards.》。|もう勝負は始まっている《and we play.》。
無事にリースレットを連れて帰ってきて、ボクが嫉妬するくらいにイチャついてくれよ、なあ」
泣いている? 僕が?
言われて気付く。頬が熱い。顎のラインからポタポタと水滴が落ちている。シーラさんの首元へと。
「熱いじゃないか、アルフレッド。ははっ、嬉しいね。
今この瞬間だけはキミを独占している。一生の思い出だよ」
「そんな、縁起でもないこと、言わないで、ください」
喉が震えて、うまく言葉が出ない。
そこに。
「センパイ、担架に乗せてください! 早く!」
大慌てで駆けこんでくる、シルキィさんと研究所員たち。
「ここなら精霊への治療もある程度は可能です、急いでください!」
促されるままシーラさんの身体を抱き上げ、担架へ。
想像以上に軽いのは、女の子だからなのか。
……血肉を失い過ぎているからか。
「それから、これ! 持っていってください!」
投げ渡されたのは、拳大の黒い立方体。
「センパイの三式魔導拳銃ですけど、あれ、未完成品です!
改良モジュールを見つけたんで持っていってください! 本体に当てれば自動で改修が行われますから!」
「……分かったよ、ありがとう」
僕は涙を拭う。
左手はもう血に濡れていない。僕の身体に溶け込むように消えていた。
「ちょっと行ってくる。シルキィさん、シーラさんのことをどうかお願います」
「承知しました、センパイ。このシルキィ・マーガレットにまるっとお任せくださいませ、別に倒してしまっても構わないんでしょう?」
いや、倒しちゃダメですよ。シーラさんを助けてあげてください。
というかシーラさん、施療院はいいんですか。デデス先生も心配してますよ。
「クラウス氏の計画をしっちゃかめっちゃかにする方法を調べて、ついでにシーラさんを完全復活させたら戻りますねっ!」
「今夜は帰らないんですね、わかります」
そんな軽口を交わしながら、僕は研究所を出る。
湿っぽい出撃よりはよっぽどいい。
「……急に、冷え込んだかな」
すでに太陽は沈んでいた。
凍りつくような寒さの夜。
空は雲に閉ざされ、月の影すら見えやしない。
「行こう」
けれど知っての通り、現在ダンジョンは封鎖されている。
たしかランクBやらCやらが見張りを務めているはずだ。
強行突破はちょっと面倒くさい。魔力をムダ使いしたくない。
だったらどうする?
簡単だ。
誰の眼も届かない場所から入ればいい。
そんな場所があるのだろうか?
ある。
ゼノンが教えてくれた、秘密の出入り口。
第008号下水道。
僕はそこに向かう。
飛翔に次ぐ飛翔、疾走に次ぐ失踪。
昼間ならいざ知らず、夜は闇がすべてを隠してくれる。
南区から中央区を経由して、北区と境目となる壕の中へ。
北区と中央区を繋ぐ橋の影に隠れて、ひとつのトンネルが小さく顔を覗かせている。
僕は湿っぽい臭気に顔をしかめつつ穴ぐらを進み、やがて、その先で。
「……よお、やっぱり来たか」
スマイルズ先輩。
そして。
「待ってたわよぉ、ボクぅ」
ミュウさん。
思いがけない組み合わせに出会うことになる。
二人とも全身の筋肉に力を漲らせ、巨大なハルバートを構えていた。
まるで門を守護する、一対の仁王像のように。




