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序章


 後宮にある一室。薄暗い部屋の広大なベッドで手を組み、安らかな眠りについた女性――かあ様の頬を撫でる。触れた手から伝わる温度は……あまりに冷たい。


「いや……っ!」

 

 信じたくない。

 信じたくない。

 ガクガクと震えながら、恐る恐る母様の左胸へと耳を置いた。


「……っ!」


 なにも……なにも聞こえないよ……っ…。

 強く、強く唇を噛み締める。

 ――もう帰っては来ない。


「私を置いていかないで……っ……!!」


 大粒の涙がボロボロと零れていく。

 これから、私はどうやって生きていけばいいのだろう。

 私を唯一愛した母様は不治の病で亡くなってしまった。国王である父様は、低い出自から妾妃になった母様を寵愛してはいたけれど、私は一度も会ってはいない。父様の心を独占している母様を疎ましく思っていた、正妃である御方が許さなかったのだ。

 母様ばかりに気をかけただけでなく、その子である私を可愛がるとは、我慢の限界を超えた侮辱。自分の王子である、王の後継者を軽んじることは許さないと、絶対に父様を私には近づけなかった。

 父様は正妃の方の言葉を受け入れてしまった。母様だけを寵愛した自覚が、父様にはあったのだ。

 父様の存在を恋しがる私に、母様はその説明とともに言った。


 『ごめんなさい。私は貴女の国王様を深く愛してしまったの。だから……どうしても言えなかった。私以外の女性を愛してあげてとは。私の贖罪を貴女に押し付けている私を許して。そして、正妃様を許してあげて。彼女は私と同じ、国王様を深く愛してしまっただけ』


 悲哀に満ちた瞳をして、母様は私の頭をそっと撫でてくれた。その日から、私は父様を恋しがることをやめた。母様が、あまりに悲しい表情をしていたからだ。

 母様が私の傍にいる。その事実だけで十分だった。

 父様の知らぬところで母様を虐げる正妃の方から私を守り、父様の分まで愛情を注いでくれた。そんな心優しい母様を私も守れるようになりたくて、必死に勉強して、母様のような立派な女性を目指した。

 だけど……っ……。


「もう少しで……もう少しで私七歳だよ……? 誕生日を祝ってくれるって母様言ったのに……っ…」


 嘘つきと、口走りそうになった言葉をぐっと飲み込む。

 母様も苦しくて仕方がなかった筈なのに、それでも一度も私に嘘をつくことのなかった母様にその言葉だけは言いたくない。白雪のように儚く、それでいて美しく、澄んだ泉のように一切の汚れのない、清廉な心を持つ母様には似合わない。

 ああ……だけど……。

 ――母様がいなければ、私は生きてはいけない。

 父様は、後継となる皇子を生んだ正妃の方の言いなりだ。私を庇護してくれる存在にはなりえない。私は殺されてしまう。正妃の方に。

 すれ違うたびに、正妃の方に射殺されんばかりの苛烈な瞳で睨まれた。

 ”殺してやる”と。

 幼い私でさえ分かってしまうほど、燃えるような激情の念を感じた。


「母様……っ…!」


 ――母様のいる場所へ行きたい。

 弱い私は、母様のいないところでは生きてはいけない。

 母様がいたから世界はいつだって温かく輝いていて。

 冷たい寂しさも、温かい嬉しさに変わる。

 私には……母様以外、なにもない。

 それなら……。

 どうせ望まれてはいないのなら、私がいなくなったところで誰も悲しみはしない。

 その思いが、私の身体を動かした。それだけしかなかった。

 ベッドから降りると、すぐ横にあるチェストの二段あるうちの上段の引き出しを開ける。そこには、母様が護身用にと保管していた短刀が収められていた。

 豪華な宝石があしらわれたそれを、私は震える両手で丁重に取り出した。


「…っ……」


 短刀はずしりと重く、鞘から伝わるひやりと冷たい温度にごくりと唾を飲んだ。生まれて初めて握る短刀に、身体の震えが止まらない。

 恐ろしいと思う感情はあるのに、苦しみや悲しみからも解放され、母様の元へ行けると思えば安堵する自分もいた。


 「……っ……!!」


 私は勢いよく鞘を抜いて、床に投げ捨てた。鞘が絨毯に転がる音がする。

 だけど私は鞘には目もくれず、目の前のものに釘付けになる。現れた刃は、薄暗い部屋の中で鋭利な光を放っている。

 これが、私を母様の元へ連れて行ってくれる。

 途端、何かに取り憑かれたように頭の芯がぼうっとした。


「母様……」


 ぐぐっと強く柄を握り、持ち上げて刃を自分の首へと突きつける。

 ああ……。

 伝わってくる刃の冷気を冷たいとは思えど、恐怖は感じない。私の頭を占めるのはただ一人。母様だけだ。

 ちらりと、ベッドで安らかに眠る母様へと視線をやった。

母様は怒らない。ただ、悲しみに満ちた表情を浮かべ、揺れる瞳で私を見つめるのだろう。


「……っ…」


 一瞬、躊躇う。

 でも……。

 寂しい。怖い。一人は嫌。

 ぎゅっと目を瞑り、私は勢いよく首を切ろうとした――その時だった。


「何をしているッ!!」


「あ……っ!」


 焦燥を混じえた鋭い怒声とともに、両手をひとまとめに掴まれた。その衝撃で、両手から短刀が滑り落ちる。

 はっと瞼を開け、愕然と後ろに視線をやる。そこには――恐ろしく怖い顔をした男性がいた。今まで見たことがないくらい、まるで神様を見ているかのようにその人は美しく、それゆえに憤る姿はあまりに恐ろしい。

 ビクッと身が竦む。怯えに満ちた瞳を向けると、その人ははっとしたような顔になる。その人の美しい赤い瞳が、感情の矛先を見失ったように、戸惑いに揺れる。

 私の両手を拘束する力が弱まった。


「ご、ごめんなさい……」


 私は咄嗟に謝っていた。

 ピクリと、その人の形のよい眉が動いた。


「何故、謝る……? そなたは己のしようとしたことを悔いているわけではないのだろう……」


 一気に憔悴したような声に、ズキリと罪悪感に胸が痛んだ。

 先程まで、”死”は私を救う光だった。なのに、この人を見ていると酷く胸が痛み、涙がこみ上げてくる。後悔さえ感じてきていた。


「わ、私……母様のところに行きたかったんです……私は一人で……生きていても、正妃様に殺されてしまうんです……怖い……怖いよ……っ、母様……!」


 泣きじゃくっては、美しい人への迷惑になると頭では分かっているのに、涙と嗚咽が止まらない。一度感情の蓋を開けてしまえば、再び閉じることはできそうになかった。

背後で、美しい人が息を呑む声が聞こえた。


「…っ……すまない。私が不甲斐ない故にそなたや、そなたの母上を苦しめた。本当にすまない。私がそなたを守る。何者からも、正妃からも守る。何者にもそなたを傷つけさせやしない。何も恐れなくていい。そなたの母上に心から誓おう。八も歳が離れて接し方が分からないという理由で、一度も会いに来なかった己が愚かしい。そなたはこんなにも怯えていたというのに」


 息が詰まるほど強く。強く抱きしめられた。

 母上以外に与えられた、温もりと優しさに一瞬涙が止まった。だけどすぐに、より一層激しく流れていく。

 胸が熱かった。言葉にならない思いが喉元までこみ上げ、嗚咽として溢れていく。


 「うっ……あああ……あああああ!!」

 

 ついには腹の底から叫び、私は泣きじゃくった。

 母上が亡くなった今、私はもう生きてはいけないと思った。

 望まれていない私は、存在を許されるわけがないと。

もう手に入らないと思っていた温もりを与えてくれるのなら。

 私を望んでくれるだけでなく、守ってくれるのなら。

 ――それ以上をこの美しい人に返したい。

 もう、失くしたくはない。

 離れて、置いていかないで。

 見捨てないで。

 我が儘でもいい。望みがかなえられるのなら、どうなってもいい。

 私もこの人を守る。何を犠牲にしたって。

 母上の死で味った、大きな喪失感と恐怖、孤独を私は一生忘れない。心に深く、刻みつけられた。だから、たとえ無謀だと、愚かだと罵られようと私は進むだろう。

 もう二度と、味わわないために。 

 もう二度と、大切な人を失わないために――……。




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