前編
憂姫が死んだ。
その言葉をゆっくりと反芻してみる。然し、憂姫の小さな体躯が崩れ消え去った今となっては、どうにも実感が薄かった。窓の外には、憎たらしい程に澄んだ空がどこまでも広がっており、そこから降り注ぐ暖かな光線が、今は無性に鬱陶しかった。平穏な毎日とは呼べないまでも、俺にはみんなが居た。けれど今、俺は果てしなく孤独だった。然しこれは報いだ。大切な人を犠牲にしてまで逃げ回った俺への、当然の報いなのだ。
「あの時、あぁしていれば……」
れば。レバ。
時間を巻き戻す、という、何故か俺が持っていた能力。それを利用して何度もやり直しても、結局俺は誰も救えなかった。それどころか、自分の手で殺してしまったのだ。何度も後悔して来た筈だった。何度も、よりより未来を願って時間を巻き戻して来た筈だった。それがこんな、最悪の形で終わって了って、俺は一体何を経験して来たというのか。
もう、やり直せない。
俺は、もうすぐ死ぬのだから。
突然消えた憂姫の行方を、医者達から執拗に問われていた。まぁ、仕方ない事だろう。憂姫が死んでその亡骸が消滅したなんて言って、一体誰が信じるのか。けれど、憂姫だけではない。この街にはその他にも大勢の"偽物"が生息しているのだ。それは、普通の人間と何ら変わりはないように見える。本人にだって、自分が"偽物"であるという自覚はないのだから。だから彼らも、人間と何ら変わりはないのだ。
「さて、これから残り少ない余生を、自由気儘に過ごすとしますか」
自嘲気味に呟いてみると、
「わーい、那由多とのラブラブライフの始まりだよ!」
そんな返答が返って来た。振り返ると、薄紫の髪を、本人曰く非常食のマカロンで結んだ、小学生みたいな髪型の女型サイボーグが、にへらーっと笑ってこっちを見ていた。
「……何か、紹介にものすごーく悪意が篭ってない?」
「気のせいだ。ていうかお前いたんだ、そういえば」
「ひどっ! それは流石に傷つくなー。那由ちゃん流石に泣いちゃうなー」
「泣きたいなら泣けよ。お前が泣いても誰も悲しみはしないぜ」
「時雨君は?」
「お前に流す分はもう残ってねぇ」
「……そう」
そのまま俺達は暫くの間、黙って家への道のりを歩いた。途中で遠くの方から消防車のサイレンが聞こえた。どこかで火事があったのだろうか。……俺が犯した罪は、もう巻き戻せない。喪ったものは、もう戻って来ない。今の俺には、俺の横を黙って歩くこいつ……那由多しかいない。何で俺の側にいてくれるのかと尋ねると、「似ているから」と答えた少女。正体は皆目不明だが、この世界での異変に深く関わっている存在だという事は間違い無いだろう。まぁ、今となってはもうどうでもいい事なのだが。一夜先輩が何を企んでいたのかは分からないが、俺の前から姿を消した今となっては、その目的を知る事はできない。
「……結局何だったんだろうなぁ、あの人は」
俺に疑われているのに否定しようとせず煙に巻いたり、かと思えば俺を助けたり。千夜先輩の姉かと思えば全然性格が違うようだし。結局は、千夜先輩の姉によって作られた存在だという事か。例えそうだとしても、その作られた目的が見えない。千夜先輩が仄めかした通り、理想的な形で再臨しようとしたのか……。
「誰? あの人って。今の時雨君には那由多がいるんだから、他の人の事なんて考えちゃ嫌だよ……?」
「う、わ、わかったから、笑顔でフォークを尖らせるのはやめてくれ! てか何で今フォークなんて持ってんだよ」
「淑女の嗜み」
「鬼女の間違いだろ!」
「まぁそんな冗談はおいといて」
「冗談ならもっと穏便に済ませてくれませんかね」
俺の心臓が持たねぇよ。
「あの人って、一夜って人の事でしょ? あの人の目的なんて単純明快、結局全ては君の為だよ」
「……どういう意味だ?」
「これ以上は教えてあげない。あの人はもう引くつもりらしいから」
……結局、俺は彼女を失望させてしまったというだけの話だろう。それはもう、仕方のない事だ。
俺の家の玄関に着くと、俺はポケットから古びた鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。そして少し捻ってやると、カチッという小気味いい音がして、俺はめでたくこの家の主人として歓迎された。そして、横には招かれざる客が一人。
「お前、いつまでついて来る気だ?」
いつの間にか扉を開け、板の間でジョジョ立ちしていたそいつはしれっと答える。
「え、今日から一緒に住む約束でしょ?」
「……はい?」
今、なんとおっしゃいました?
「だから、今日から那由多もここに住むの♪ 時雨君家事なんて壊滅的に出来ないから、私がいないと生活さえどうしようもないでしょ?」
「待て、お前、家事なんか出来るのか?」
「少なくとも、こよみんよりは出来ると思うよ」
「こよみんって……」
お前は何でも知ってるお姉さんかよ。
「だからいいでしょ? 那由多だって行く宛ないんだし」
「お前の家は?」
「燃やしました」
「おい」
さっきの火事はお前の仕業かよ。
「はぁ……本当、お前といると疲れるな」
「あんな表面だけを取り繕った歪んだ関係よりよっぽどマシじゃない?」
「……ちょっと黙れ」
「……はぁーい」
最初から俺達は終わっていたのかな、とふと思ってしまった。
そのままなし崩し的に、那由多との同居は決まってしまった。相変わらず強引なヤツだな、と思った。
それから、時間は遅々として、然し確実に過ぎて行った。家事その他雑用を甲斐甲斐しくこなす那由多に対し、俺はというとずっと部屋に閉じこもっていた。もう何をすればよいか分からなくなったのだ。罪を償おうにも、償うべき人はもう何処にもいないのだ。そうやって後悔と罪の意識の底で溺れたままの俺に、那由多は多少強引過ぎる気はしたけれども優しく俺に寄り添ってくれて、その存在は確かに俺の心の拠り所になっていた。こいつの存在に感謝する日が来るとは思わなかったが……
そして、憂姫が死んで1週間後の夜。最近ずっとロクに眠れていなかった俺は、その晩は何故かぐっすりと眠る事が出来た。そして、俺は"夢"を見た。その"夢"は夢だと断じるには余りにもリアルで、まるで俺が別の世界の俺に乗り移ってしまったかのような感覚を抱かせた。
その夢の中では、俺は一夜先輩の悪魔の契約を断り、自分の手で憂姫を救ってみせた。そして何の犠牲も出さずに、俺達は平穏を取り戻したのだ。それはまるで、失敗した俺の幻想を具現化したような、完璧な世界だった。然し、その完璧な世界にも、異変は突如舞い降りる。千夜先輩に紹介された、赤い髪に黄色の目をした少女。間違いない。俺はこいつを知っている……。何も知らない俺は浮かれながら、その人とデートに繰り出した。そして、その途中で、彼女は酷薄そうな笑みを浮かべてこう言った。
『ところで君は、誰なのかなぁ?』
そこで、俺は目を覚ました。暫く茫洋とした後、ここが自分の部屋である事を思い出し、続いて自身の寝巻きが滴り落ちそうな程の汗で濡れている事に気付いた。そのまま下の風呂場へ、とぼとぼと向かっていく。階下まで続く階段が、非常に遠く感じられた。
あの夢は、きっと俺が手に入れ得たであろう未来だ。何の根拠もないけれど、俺はその事を強く感じた。あの世界の俺は上手くやっていた。自分では何も出来なくとも、必死に足掻いて仲間と共に未来を切り拓いていた。それに比べて今の俺はどうだ。もはや、足掻こうともしていないじゃないか。
「っははは……あはははははは」
あぁ、非常に痛快だ。これで笑わずにいられるか。こんな惨めな自分を嘲笑せずにいられようか。いいだろう、全てを失い棄てた俺は俺なりに、一つけじめをつけてやろう。然し、あの後に出て来た赤い髪の少女は誰だったのだろう。俺の記憶する限りでは、あんな少女とは会った事がない。あの"夢"の中で、何故俺があの少女を知っていると思ったのか、皆目見当がつかなかった。
あくる日、俺は台所で朝ご飯を作っていた那由多に、一言こう言った。
「俺、自首するよ」
自首。それが、俺が俺なりに考えた一つのけじめのつけ方だった。もう償う人はいないけれど、せめて法律という公衆の正義の下で、悪として裁かれようと思ったのだ。まぁ、俺自身は、裁判とか懲役とか、そんな事にこれっぽっちも意義を感じてはいないけどな。あんなのは結局、世の不満を抑えるパフォーマンスでしかないと俺は思っている。いくら犯人に懲役や死刑で罪を償わせようとしたって、当人に対して償えなければ何の意味も無いからな。まぁ、そんな屁理屈はもういい。
「分かった。なら那由多も自首するよ」
俺に対する那由多の返答は、そんな一言だった。
「……お前、化物倒しはもういいのかよ」
「あぁあれ? あんなのはもうどうでもいいの。どうせ那由多が死んだら他の個体が引き継ぐだけだろうし」
「お前……」
「そんな顔しないでよ。最初から分かってた事だから。そもそも、化物も那由多も、そんなに長生きできるように設計されてないんだから」
「ま、待てよ、化物が最初からそんなに長生きできるように設計されてないって……」
ーーまるで、俺みたいじゃないかーー
俺がそう言うと、那由多は顔色一つ変えずにさらりと言った。
「そう、時雨君だって化物なの。まぁ、他の化物とは違って"特別製"ではあるけどね」
俺が人間でないという事実にショックを受けはしたが、もう裁かれて死ぬだけの俺が何であろうと関係ないと思い直す。今、俺が負った役目を果たしさえすればいいんだ。それだけだ。
「ははは、そうか……。なら、俺は失敗作だな」
「あはは、なら私も失敗作だね」
「んじゃ、失敗作同士、いっちょう棄てられに行きますか」
「行きますかー! それじゃあ最寄りの交番(ゴミ箱)まで、えいえい、」
「「おー!!」」
「ははははは、何だよこの茶番……」
「あはははは、まぁいいんじゃない?」
「そうだな、いいよな」
「うん、いいよ」
そうして二度と戻ることはないであろう家から出発した俺達の傷の舐め合いは、交番に着くまで続いたのだった。
突然交番に現れた、殺人犯を名乗る高校生二人組を、果たして駐屯していた巡査達は信用するだろうか? 勿論、否である。なので俺達は、警察でしか知り得ないであろう現場の状況や凶器で刺した場所などを、洗いざらい喋ってみた。結果、俺達は半信半疑の巡査に連れられて、警察署へと連行された。警察署で俺達は取り調べを受け、先程の自白をテープに録音された後、留置所へ入れられたのだった。
無機質な留置所の中は、いるだけで胸が押し潰されるかのような重苦しさを感じた。俺はこの重苦しさから解放されようとあれこれ画策した末、向かいの独房に入れられた那由多に、今朝俺が見た"夢"について話してみる事にした。
「へぇ……。そんな"夢"を、ねぇ。だから時雨君、いきなり自首しようなんて言い始めたの?」
「まぁ、そうだな。あぁやって手に入れられたかも知れない未来を見せられると、何てーか、凄く悔しくてな……。でも、あれは夢だったんだよな? それとも、明晰夢、ってヤツなのか?」
「どれでもないと思うなー。きっと、おそらく時雨君が、別の世界の時雨君の意識内に入り込んだんだと思うよ」
「……え?」
「だからー、よく言われるじゃん? パラレルワールドってやつ。時雨君がその都度選ぶ選択によって、その選択に応じた世界が出現して、それがどんどん枝分かれしていくっていう考え方。まぁ那由多は、その世界の分岐なんてものは予め決められているものだと思うけど」
「……話がよく分からないんだが」
「まー、これは那由多の戯言だから、あまり気にしなくていいよ。世界ってのはね、きっと無数にあるものなんだよ。個人個人がそれぞれの世界を保有してるの。そして、その人生の節々でなされる選択によって、また更に世界が"光"の世界と"闇"の世界に分離していくの。だからね、例えば一生懸命勉強して大学に合格した、なんて世界があったら、その裏にはきっと受験に落ちて浪人……みたいな、残酷な世界の犠牲があるんだよ。その犠牲によって始めて、合格したという"光"の世界が際立つようになるんだよ。光なんてものは、影があって始めてそれが光であると判断し得るものだからね。時雨君みたいな能力があれば、分岐前の世界、所謂セーブポイントと言えば分かり易いかな? まで巻き戻って、そこから再び世界をロードし直す事が出来るんだよ、きっと。そして"光"の世界を引き立てる役目を果たした"影"の世界は、そのまま凍結されるか、今の私達みたいに消えていくんだよ。世界から観測者が消えるという事は、その世界の消滅と同義だからね。まぁ、"光"と"影"が逆になる場合だってあるんだけどね。どっちを選ぶか決めるのは結局観測者次第なんだから。そうして、絶えず新しい世界が生み出され、且つ沢山の世界が犠牲になる事によって、社会は成り立っているんだよ。そして、世界は互いに影響し合って、また新たな世界を作っていくんだ。だからきっと、時雨君が今いる世界は、"悪魔の契約を呑むか否か"という選択肢によって、時雨君が見たという"夢"="光"の世界から分かれた"影"の世界なんだろうね。何の因果があってその二つの世界が再び接触したのかは分からないけど。それこそ、神のミソ汁ってやつだね」
「……えっと、つまりこういう事か? 俺が見た"夢"は今俺がいるここと別ルートの世界で、それとこの世界が何故か接触してしまったと?」
「……時雨君ならそれくらいまで理解出来れば上出来だよ」
「おい、それはどういう意味だ」
「時雨君ってバカだよね」
「いや、どういう意味かと聞いたのは俺だけれども!」
そんなザックリ言わなくても。
「だから結局、時雨君がやるべき事に変わりはないよ。この世界を、綺麗に終わらせてあげて」
「……お前は手伝ってくれないのか?」
言ってから、我ながら情けない質問だと思った。
「那由多の世界と時雨君の世界は、例え同一軸上にあると言っても同じものではないからね。私が何かしらの影響を与える事は出来ても、最終的な判断が下せるのは時雨君だけなんだよ。ていうか、今時雨君がする事って、このまま法の下に裁かれて死ぬだけでしょ? ただ堂々としておけばいいんだから」
「……まぁ、そうだな。俺はただ、堂々としていればいいんだ」
閻魔様の眼光を平然と見返す事が出来るくらい、な。
不意に、留置所にガチャリという音が響き渡り、カツ、カツという音と共に、豊かな口髭をたくわえた初老の紳士が入って来た。その足音の接近と共に、凍りついていた時間が溶け出し、ゆっくりと流れ出していった。彼は俺の独房の前で立ち止まると、黙って手錠に繋がれた俺の手を引き、喧騒に包まれた檻の外へと連れ出した。