TAKOYAKI
「見ィや、フジタが来たで!」
一人が一点を指差す。
群集をどよめきが伝わる。
今しも純白の布をもって頭を覆わんとする男が一人。だがその旺盛な頭髪は、そんな抑圧などには負けやしない。アフロはアフロ然として大いに自己主張する。
フジタと呼ばれたその男は、超然と、しかしどこか物憂げに、たこ焼のセットへと歩みを進める。
歓声が男を包む。
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この歓声をお聞きください! とうとうこの時がやってきました。たこ焼王者決定戦、決勝!
日本一のたこ焼王はいったい誰なのか。これまでのところ、大手チェーン金だこの坂田が12Mbpsでトップ。一番人気のフジタ、どう勝負してゆくのか。CMの後は、フジタ、決勝戦のチャレンジです――
彼女は願っていた。フジタが心おきなく腕を振るうのを。
彼女はただ、フジタのほんとうのたこ焼が食べたかった。
一般の審査員希望者は、よほど前から並ばなければ、決勝の席には入るべくも無い。彼女は前の晩から並び、今この一番前の審査員席に座っている。
彼女はフジタの焼く姿を知っている。真剣な職人の横顔。それでいてどこか楽しそうに輝くその瞳。そして自分に向けてくれる笑顔。
深呼吸。彼女は鼓動を抑えるように、上目遣いにフジタを探す。
黙々とたこ焼台に面し、油をなじませるフジタ。
でも彼女の目には、何だか寂しそうに映る。
どうか店長……許してあげて。祈るように両の手を合わせ、彼女はまたひたすらに俯く。
フジタは悩んでいた。彼は元来仁義に厚い人間である。恩には恩を。
彼の出場を喜ばないものもいる。
彼の店の店長は、昔気質な職人気質の持ち主だった。彼が出場を伝えたときなど
「たこ焼の見世物にしてテレビなんかに出てみろ、お前はこの店に二度と来なくていい」と息巻いたものだった。
だが、フジタにはどうしても出なければならない理由があった。
彼の父もまた、たこ焼を愛した。
その父が息を引き取る直前にフジタを枕元に呼び、作るなら日本一のたこ焼を作れ、と三度囁いたのだった。俺は一生かかってとうとう出来なかったが、お前にそれを頼む、と。
彼は出場し、今は決勝の舞台にいる。だが、世話になったおっさんを裏切って何の楽しみが有るだろう。
日本一って何なんだろう。
彼は悩んでいた。
#
さあ、注目のファイナル、フジタ選手は十五分で何Mbpsを叩き出すのでしょうか?
審査基準は変わらず、スピードと味! それでは早速参りたいと思います。
3,2,1―スタートォ!
静寂の中で彼は自分の鼓動を聞いていた。他人のものみたいに現実感が薄くなり、ただ機械的に手を動かす。
ああ、また俺は駄目だ。
フジタはもはや自分を見放していた。短く感じた十五分はもう、長すぎる。
彼は静寂と、その後のブーイングを聞き流しながら、ゆっくりとボウルを掻き混ぜる。
「フジタァ!」
不意に大きな怒号が辺りに響く。店長のおっさんが、肩で息をしながら歩み寄るところだった。
「勝てぇ!やるからには負けたら許さぁん!」
フジタはその怒号の刹那におっさんを見ていた。
フジタの視線と店長の視線とがぶつかり合い、そして解ける。
にやり、とおっさんは笑った。
にやり、とフジタは笑い返した。
深く息を吸い込んで、周りを見渡す。正面の彼女と目が合う。必死な目だ。
大丈夫。
君はまだ一度も言ってくれないけど、きっと美味しいって言うだろう。
再びフジタは自らのうちに熱いものを感じていた。
その瞳は灼熱の火炎を宿し、紅蓮に燃え始める。
何処からともなくつむじ風が彼の髪を煽る。
フジタは攪拌器に腕を伸ばした。
日光の下、ただ鮮やかなその残像のみ残る。
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何ということでしょう! 腕が、腕が見えません!
生地が何処からとも無く降ってくる! そして、ああ、混ぜ合わされていきます。
今まさに、蛸が、蛸が包丁を握り、そして――
おお、何ということだ、自らの身を切り分けていく!
フジタが小指をわずかに動かすようにすると。卵は全て綺麗に割れ、ボウルに収まった。彼はたこ焼き器の火力を、コンマ何℃の単位で調節する。
彼が生地を振り撒くと、生地はそれぞれに螺旋を描き、全てが綺麗に一穴一穴に収まってゆく。
彼はもはや繊細な旋律を奏でるかのように、全てを感じ、そして統制している。両手で千を数えるたこ焼を返しながら、それでいて優雅なのだ。
彼がまた無造作にたこを撒くと、三十数穴に一つずつ、綺麗にたこが収まった。
二度目に生地を撒く頃が、一番返すのが難しいところだ。彼の両腕はますます鮮やかに残像を描く。
観客はもはや一言も発していなかった。
――阿修羅や、奴は阿修羅になりよった。
何処からとも無く呟きが漏れる。
残像はますます腕を多く、六本にも八本にも見せている。
にわかに暗雲が垂れ込め、陽光を遮る。
たそがれ時のような光の中を稲妻が突き刺す。
フジタの横顔が映し出されては、闇に溶けてゆく。
#
信じられない、16Mbps!新記録が出た。
何という調理効率!速度!
TVアナウンサーが興奮気味にまくし立てる。
十二分でたこ焼は完成した。彼は精根を果たし、その場にくずおれた。
彼女は嬉しかった。彼の史上最強のたこ焼を、いま自分は食べる。彼女はふうふう息を吹きかけ、それを口に運ぶ。
視界が滲む。
優しい。彼の優しさそのものが熱く食道をとおり、胃へと運ばれていく。
それはじんわりと暖かい。
ありがとう。美味しいよ。
静かに、彼女の頬を涙が伝う。
目を覚ましたフジタは、自分が何処にいるのか思い出せなかった。屋台の簡易シートの上。横に座っている彼女。
今のは、どうだった? 美味かったろ?
彼女はひとつ、肯く。
美味しかった。
囁くように。
「でも……口直しが必要かも」
彼女は鼻が触れるほどに顔を近づけ――
「ありがとう」
その唇に、フジタはそっと口付ける。
4年前、とてもよい研修をして下さったフジタさんに捧げます。
きっとご覧になることはないでしょうが、当時書いたものが発掘されましたので。