首席の幼馴染が「約束だ」と言ってくれたから、私はもう一度その隣を目指す
「またシリスが一位か……」
廊下に貼り出された上位成績者の順位表。
その一番上にある名前に無意識に伸ばしかけた指を、私はぎゅっと握り込んだ。
……以前はあのすぐ下に、私の名前があったのだけれど。
小さく息を吐いて、順位表から目を逸らす。
そして教室へ戻ろうと、足を踏み出した時。
今一番聞きたくなかった声が、ざわめきの中でもはっきりと聞こえた。
「……チッ。アメリアのやつ、どうして三十位にすら入ってないんだよ……!」
順位表の前に集まっている生徒たちの間に身を滑り込ませ、私は俯いたままその場を立ち去った。
「アメリア姉ちゃん、腹減った!」
「もうすぐできるから、ちょっと待って!」
「さっきからそればっかじゃん! いつまでかかるんだよ!」
大声で弟に返事をしながら、焦げて鍋底に張り付いてしまった野菜を木べらでなんとかこそぎ落とす。
慣れない料理に悪戦苦闘していると、生後半年の妹の泣き声が奥の部屋から聞こえてきた。
「ふええええん」
「あー、ごめん! ちょっと見てくる!」
「俺の飯はいつになったらできるんだよ!」
火を止め、濡れた手をエプロンで拭いながら奥の部屋へと駆け込む。
父は仕事中に大きな怪我をし入院中。
母は産後の肥立ちがあまり良くなく床に伏せっている。
我が家は今、戦場であった。
「今日の復習をしないと」
弟に食事をさせてベッドに放り込み、妹を寝かしつけた頃には外はもう真っ暗だった。
ようやく机に向かい、教本を開く。
けれどすぐに瞼が重くなり、今日も気付けば机に突っ伏したまま朝を迎えていた。
……シリス。
あなたの背中が、今はこんなにも遠い。
◇
初等科で出会ったシリスは、その頃から飛び抜けて優秀だった。
隣の席になった時、私は彼に尋ねた。
「シリスは大人になったら何になるの? それだけ頭が良かったら何にでもなれるよね」
「俺は王城の官僚になる。高等科を三位までの成績で卒業すれば王城の官僚になれるからな。俺はそれを目指してるんだ」
「王城の官僚になってどうするの?」
「国を動かしていくに決まってんだろ! この国の未来を自分で作るんだよ!」
その言葉とシリスの目が、なんだかとてもキラキラして見えて。
――王城の官僚になる。
それはその日から、私にとっても大きな夢となった。
「シリス、ここが分からないんだけど教えてもらえない?」
「ん? なんだよ急に。お前が真面目に勉強するとか不気味なんだけど」
「私も王城の官僚になりたい。それには高等科で三位に入らないといけないんでしょ?」
するとシリスは、思ってもいない言葉を聞いたとでも言うように目を瞬かせ。
「それなら死ぬ気で頑張れよ。お前は頭が良くないんだからな!」
そう言って笑った。
分からないところがある度に、私はシリスのところへ行った。
「またかよ、仕方ねえなぁ! で、どこが分からないんだよ。見せてみろ」
面倒くさそうにしながらも、シリスはいつも私の質問に答えてくれた。
シリスの教え方はとても分かりやすかった。答えや解き方だけでなく勉強の仕方まで教えてくれて、私の成績はどんどん上がっていった。
そして、初めて満点を取った時。
嬉しくて嬉しくて、私はシリスに満点の答案を見せに行った。
するとシリスは、優しく目を細めて言ったのだ。
「やったじゃん。頑張ったな」
その笑顔を見て、気付いてしまった。
いつの間にか、私はシリスのことを好きになっていたのだということに。
◇
「ふええん、ふええええん」
「はいはい、ちょっと待って!」
「おい、アメリア姉ちゃん! 明日着るものがないんだけど!」
「うわ、洗濯! 分かった、後でやるから!」
妹にミルクを与えて寝かしつけ、洗濯籠を抱えて外に出る。
「アメリア!」
声が、聞こえた。
一番聞きたくなかった声。
けれど、一番聞きたかった声。
振り返ると、庭の柵から身を乗り出すようにして、シリスが私を見ていた。
目が合うと、シリスの顔が僅かに歪む。
「お前っ! あの成績は何なんだよ! 王城の官僚になるんじゃなかったのか!」
洗濯籠を抱えた腕に、力が入る。
何も言えなくて俯くと、叫ぶようにシリスが言った。
「……約束なんじゃなかったのかよ!」
――約束。
弾かれたように顔を上げて、シリスの顔を見る。
「俺が王城の官僚になるって言ったら、お前もなるって言っただろ。……あれは、一緒に官僚になろうという約束だったんじゃないのか」
……そんな風に、思っていてくれたのか。
「……シリス……」
思わず一歩、足を踏み出す。
そしてさらに一歩、近付こうとすると。
「姉ちゃん! あいつミルク吐いた!」
玄関扉が勢いよく開いて、中から弟が飛び出してきた。
「こんな状況になってるなら言えよ! どうして一人で抱え込んでんだ!」
「だって家庭の事情だから……」
シリスが妹を縦抱きにしてトントンとその背中を叩いてくれている横で、吐き戻したミルクで濡れたシーツを交換する。
「勉強の相談に来る時は全然遠慮しなかっただろ! これで勉強時間が削られてるなら同じじゃねえか。俺に相談しろよ!」
汚れたシーツを丸める手が止まる。
二位の位置から見上げていたシリスの背中。
そこにもう手が届かなくなった時点で、夢だけでなく、シリスのことも諦めなければならないと思った。
……相談しても、良かったのか。
「……ごめん。ありがとう」
妹を再度寝かしつけ、その後は庭に出て洗濯をする。
「シーツは俺が洗うから寄越せ。お前は自分の服でも洗ってろ」
「えっ、そこまで手伝ってもらうわけにはいかないわよ!」
「いいから! 洗濯しながらこの前のテストの復習するぞ。どこを間違えたんだよ」
そう言いながら、シリスが私の手からシーツを奪う。
「ええと、最後の方の応用問題が全然できなくて……」
「基本問題はできてんだな?」
「そこは落としてないわ」
「分かった。じゃあ応用問題の一問目は……」
盥を二つ並べ、手を動かしながらシリスの説明を聞く。
ここには教本もノートもない。
けれどシリスの説明を聞いているだけで、今まであやふやだったものが頭の中でしっかりと形になっていくのが分かった。
……やっぱりシリスは教えるのが上手いな。
もう一度、届くだろうか。
憧れ続けた背中に。
そしていつか、共に王城の官僚になって。
――その隣に、並び立ちたいと思った。
シリスが手伝ってくれたお陰で、その日の家事は早くに済んだ。
捻出できた時間は、本格的な勉強に充てる。
「ここからは予習だ。次の試験では順位を戻すぞ」
「分かったわ」
私が順位を戻せると、シリスは信じてくれている。
そして、あれは約束だと言ってくれた。
――だから、私は……。
「これから毎日来るからな! 遅れた分を簡単に取り戻せると思うなよ!」
暗くなるまで付き合ってくれたシリスは、そう言って門の前で振り返った。
「うん、ありがとう」
迷惑をかけているのは分かっている。
でも、それでも……。
どうかあなたを頼らせてほしい。
私一人では、きっと届かないから。
――その代わり。
「約束、絶対に守るからね」
◇
次の日。
机から教本を取り出して帰り支度をしていると、突然大きな声で名前を呼ばれる。
「アメリア、帰るぞ!」
教本を持ったまま振り返ると、教室の入口に手をかけたシリスと目が合った。
「シリス……!」
まだ残っていた生徒たちの視線がシリスへと集中する。
しかしシリスは一切気にした様子もなく教室へと足を踏み入れ、ツカツカと私の元まで歩いてきた。
そして私が手に持っている教本を見る。
「数学か。よし、今日はこれを集中的にやるぞ」
シリスはそう言って私の手から教本を取ると、鞄へと詰め込んだ。
「さっさと帰って速攻で家事を終わらせる。行くぞ、アメリア!」
自分の鞄と私の鞄を片手で持ったシリスが、空いている手で私の背中を軽く押す。
「……うん!」
シリスの手が触れた背中が、なんだかとても熱かった。
◇
シリスと一緒に帰るようになってから数ヶ月が経ち、次の試験が終了した。
廊下に集まった生徒たちの前に、教師の手によって上位成績者の順位表が貼られていく。
「アメリア、自信は?」
「あるわ。大丈夫だと思う」
前回は隠れるようにして一人で見た。
でも、今回は……。
貼り出された順位表を見上げる。
一番上には、シリスの名前。
そして、そのすぐ下に。
「……あった……!」
シリスの下に自分の名前を確認した瞬間、隣を見る。
「……やったじゃん、頑張ったな」
シリスもまた私を見て、優しく目を細める。
それは私が初めて満点を取った時と、同じ笑顔。同じ台詞。
「お前と……、それから俺も!」
破顔したシリスが、私の手を掴んで軽く引く。
そして順位表を見上げる生徒たちの間を抜けると私の手を離し、頭の後ろで手を組んだ。
「家事と赤ん坊の世話がすっかり板に付いちまったぜ。料理なんてもう俺の方が上手いだろ」
「すごく助かってるんだけど、そこは複雑な気分なのよね……。弟がシリスの作った料理ばかり食べるんだもの」
「ははっ、あいつは正直だな。まあお前が作った分は俺が食ってやるよ」
順位表の方から聞こえる喧騒を後にしながら、シリスと並んで廊下を歩く。
「んで、今回はどこを間違えたんだよ」
「それが分からないの。自信はあったんだけど」
「大方、最後の引っ掛け問題にまんまと引っ掛かったんだろ」
「引っ掛け問題!? そんなのあった!?」
「やっぱりなぁ。問題を見た瞬間、お前は絶対に引っ掛かると思った」
「まだまだシリスには追いつけないわね……」
背中が届く位置までは戻ってこられた。
けれど並び立つにはまだ遠い。
軽く溜息をつくと、シリスが私の顔を覗き込む。
「早く追いついてこいよ。待ってんだからな」
「……うん。私、頑張るから」
私がそう言うと、シリスが満足そうに笑う。
「とりあえずは買い出ししながら復習だな! 今日の夕飯は何にすんだよ」
「それは今日の特売品によるわね」
「魚にしろ、魚。少しは賢くなるぞ」
こんな風に。
あなたの隣が私の場所だと、胸を張って言えるようになりたい。
――いつか。




