婚約破棄され役立たずと勘当された侯爵令嬢、辺境伯家の養女になって溺愛される
最近流行り(?)の「婚約破棄モノ」にチャレンジしてみました。
初投稿です。よろしくお願いいたします。
その日、わたしは全てを失うはずでした。
王太子との婚約、侯爵家の娘という身分、そして、生きる場所さえも。
けれど、今ならはっきりと言えます。
あれは「終わり」ではなく、「始まり」だったのだと。
華やかな衣装をまとった貴族たちが集う王城の舞踏会。その会場を引き裂くように突然、若い男性の声が響き渡りました。
「エリザベス・アッシュボーン侯爵令嬢!」
わたしの名前を呼ぶ声はまるで、刃のような鋭さをまとっていました。
声の主はこの国の王子であるルイス殿下。王国一の美男子とも言われるその整った美貌は不機嫌そうに歪み、これ以上ないというくらい憎々しげな表情を浮かべています。
そしてわたしを見据えるその瞳にもまた、激しい憎悪が溢れています。
(ああ、今夜もだわ)
わたしは心の中でそっとため息を吐き出しました。
10歳の時に婚約を結んでから早や7年。殿下がわたしに好意的に接してくれたことなど一度もありません。顔を合わせるたび、「地味」「陰気臭い」「少しばかり勉強が出来るからと思い上がるな」などと罵倒され、貶められて来ました。
(今日は何を言われるのかしら)
これから叩き付けられるであろう罵声に身構えます。ですが、続けて殿下の口から発せられたのは、全く予想していなかった言葉でした。
「ルイス=フレデリック・オブ・ウィンダミアの名において、貴様との婚約を破棄することをここに宣言する!」
殿下がそう告げた瞬間、それまで優雅な音楽を奏でていた楽団がぴたりと演奏を止めました。
場は一瞬だけ静まり返り、そしてすぐにざわざわという喧騒に包まれました。人々の視線がわたしに突き刺さるのを痛いほど感じます。
誰もが驚いている様子でした。彼ら彼女らの顔に浮かんでいるのは困惑、同情、それとも嘲笑でしょうか。
(……え?)
そしてわたしは、殿下が何を言ったのか分かりませんでした。
いいえ、分かりたくなかったというのが本当だったと思います。まさかこんなに大勢の目がある中でそんなことを言うなんて――と。
ですからわたしは、まっすぐ殿下を見据えたまま優雅に一礼しました。
――淑女たるもの、たとえ何が起ころうと取り乱してはならない。
幼い頃から受けた教育がわたしの全身を縛り付けています。
それでも、声が震えるのはどうしようもありませんでした。
「……理由をお教え頂いてもよろしいでしょうか、殿下」
「はっ、この場面でも表情を一切変えない貴様の姿、相変わらず反吐が出る。氷の令嬢とはよく言ったものだ。……教えてやろう、エリザベス。ぼくは真実の愛を知ったのだ。 アリス嬢、こちらへ!」
殿下の声に応えるように、ピンクブロンドの髪をした一人の令嬢が現れました。
わたしは彼女の名前を知っていました。アリス・キンバリー男爵令嬢。愛らしい顔立ちと天真爛漫な性格が評判となって、学園では数多くの貴族令息から人気を集めています。
元は平民の出身だそうで、何でもキンバリー男爵が劇団の女優に手をつけて産ませた子なのだとか。二年前に母親は病気で亡くなり、天涯孤独となった彼女を哀れんだ男爵夫人が養女として引き取ったと聞きます。
そして彼女は貴族学園に入学しました。
貴族としての教養もなければマナーも備わっていない。そんな彼女でしたが、瞬く間に貴族令息から多大な支持を集めることに成功しました。平民ならではというのでしょうか。身分を気にせず親しげに話しかける姿は、彼らにとって新鮮だったのかもしれません。
ただしその一方で、令嬢に相応しくない振る舞いだと、多くの貴族令嬢が眉を顰めていたのをわたしは知っています。
「ぼくはこのアリス・キンバリー男爵令嬢を新たな婚約者として迎えることに決めた!」
殿下のその言葉に、場の喧騒はさらに大きくなりました。
わたしだって困惑することしか出来ませんでした。
確かに殿下とわたしの仲はもはや破綻しています。先程も言いましたが、殿下と顔を合わせても常に悪意と憎悪に晒されるだけ。婚約が成立した当初こそ贈り物を頂いたこともありましたが決まって同じ花束ばかり。それすらもここ数年は絶えてしまっています。
余程わたしは殿下から嫌われているらしい。今ではわたしも十分それが理解出来ています。
それでも、です。
わたしとルイス殿下との婚約は国王陛下自らがお決めになったことなのです。次期国王たる殿下を隣で支えて欲しいと、王家がアッシュボーン侯爵家にわざわざ頭を下げてまで結ばれたものなのです。そんな重い約束を勝手に破棄することなど出来ようはずがありません。どれだけわたしのことが嫌いでも、国の為に手を携えて歩んでいかねばならないのです。それが王族、貴族として民の上に立つわたしたちの責務なのです。
だからわたしはこのまま黙っているわけにはいきませんでした。
顔を上げて、まっすぐ殿下を見据えて、冷静な口調で言葉を紡ぎます。
「本気でおっしゃっているのですか、殿下?」
「もちろん、国王陛下も王妃陛下もご承知の上だ。お二人とも、ぼくのお願いを快く認めてくださったよ」
勝ち誇ったような声で殿下は言いました。
わたしは思わず殿下の向こう、一番高くなっている場所に目を向けました。そこでは豪奢な椅子に座った国王陛下と王妃陛下がいます。本来なら殿下を止める立場であるはずの国王陛下は気まずそうにわたしから視線をそらし、王妃陛下は口の端を吊り上げ冷たい笑みを浮かべました。
(――まさか)
顔から血の気が引いていくのが自分でも分かりました。
どうやら国王陛下も王妃陛下もこの婚約破棄を了承しているらしいと理解しました。
王妃陛下は分かります。殿下と同じくらいわたしのことを嫌っていましたから。 王妃陛下とお茶会も何度か行われましたが、その都度、王妃教育の不出来を責められ、詰られました。そして決まって「あなたはルイスには相応しくないわ」と決めつけるのです。
ですが、国王陛下まで聞き入れるとは思ってもみませんでした。 少なくとも陛下はわたしの味方だと思っていました。二人のわたしへの態度を見て、「息子や王妃が済まない」と密かに謝罪されたことさえあったのですから。
「ごめんなさぁい、エリザベス様ぁ」
突然、間延びした甘ったるい声が耳に届きました。
見ると、アリス・キンバリー男爵令嬢がわたしに向かって邪気のない笑みを浮かべていました。
「あたしぃ、ルイス様から結婚して欲しいって頼まれちゃってぇ。エリザベス様に悪いからって最初は断ったんですけどぉ、どうしてもあたしが良いんだって言われちゃったら断れなくてぇ」
わたしが彼女と話すのはこれが初めてでしたが、世間の男性は本当にこんな女性が好みなのでしょうか。確かに顔立ちと同じように声も可愛らしいですが、その語尾を伸ばす話し方は どうにも耳に障りました。それに、まるで見せつけるように豊かな胸を殿下に押し当てている様子は率直に言って下品極まりなくて、まるで物語に登場する娼婦のような印象さえ受けました。
それでも、まだわたしの心は折れてはいませんでした。
貴族筆頭のアッシュボーン侯爵家の令嬢として、わたしには王家の過ちを正す義務があります。たとえ不敬であると断罪されようとも、婚約者として、また臣下として諫言することも必要なのです。
「キンバリー男爵令嬢は」
一度深呼吸をしてからわたしは言いました。
「王妃教育を受けておられません。また、教養や作法も殆ど身に付いていないと聞き及んでおります」
「この期に及んで何が言いたい?」
嫌なものを吐き棄てるように殿下は訊ねました。
その憎々しげな視線と口調に思わず怯んでしまいますが、まっすぐ殿下を見据えながらわたしは続けます。
「彼女では将来の王妃として国王を支えることは出来ません。王妃の仕事は多岐に渡ります。キンバリー男爵令嬢は帳簿を読むことが出来ますか? 計算は? 外国との交際も必要です。外国語は出来るのですか? ダンスや美食を楽しむだけが王妃の役目では――」
「ええい黙れ! 将来の王妃に向かって不敬が過ぎるぞ、エリザベス!」
鞭のように鋭い殿下の声が叩き付けられ、思わずわたしは口を閉じました。
「貴様はいつもそうだ。賢しげに、さも自分が優秀であると周囲にひけらかす。全くもって度し難い!」
「そんなつもりは――」
ありません、そう言おうとしましたが、激しい殿下の声に遮られました。
「大体、国王を支える王妃などもはや時代遅れ、王妃は国王の隣で微笑んでいるだけで良い! 王妃が政治や外交を担うなど、まずその前提が間違っているのだ。それらは男の、つまりぼくの領分だ。王妃は余計な口出しなどせず、社交に勤しみ貴族夫人を纏め上げれば良い!」
そうして殿下は冷たい笑みを口元に浮かべました。
「だが、可愛げの欠片もない『氷のような』と言われる貴様では到底無理な話。翻ってアリス嬢はどうだ。可憐で明るくて、非常に愛らしい。彼女を慕っている令嬢も多いと聞く。貴様と違って恐れられてなどいない。彼女ならきっとこの国を立派に導けるはずだ、ぼくの伴侶としてな!」
分かっていました。わたしが学園の同級生や後輩たちから恐れられていることくらい。
別に彼女たちを虐めたり蔑んだことはありません。ただ、一言二言注意したことはありました。だけど廊下は走ってはいけないとか、人前で大声で笑ってはいけないとか、そんな貴族令嬢として常識的なことばかりです。
それでもわたしが注意すると、いつも彼女たちは顔を真っ青にして逃げていくのです。いつの間にか「親の権力を傘に傍若無人に振る舞う悪役令嬢」という評価がわたしには下されていました。どれだけそうじゃないと口では否定しても誰一人として信じてくれず、わたしは学園ではずっと独りぼっちだったのです。
そして殿下が口にした「新しい王妃像」。
それを聞いてわたしはガツンと頭を殴られたような錯覚さえ感じました。
だってそれは、わたしがこれまで受けてきた王妃教育を真っ向から否定することに他ならないからです。
王妃教育はマナーやダンスだけではありません。国内外の政治経済や社会情勢、歴史や文化、言語に至るまでありとあらゆる知識をわたしは詰め込まれました。それこそ眠る間も満足に与えられない程に。教師たちは厳しく、一つでも間違えば鞭で打たれました。
それでも、わたしは必死で頑張ってきたのです。その苦しみは、努力は、何の意味もなかったのでしょうか。
目の前が真っ暗になり、崩れ落ちそうになります。
でも、わたしは必死でこらえました。アッシュボーン侯爵家の令嬢として誇りが、矜持が、わたしをまだこの場所に留めていました。
「そ、それでも、アリス・キンバリー男爵令嬢は王妃にはなり得ません!」
持てる勇気を振り絞り、わたしは声を張り上げました。
「王妃は伯爵以上の家格を持つ令嬢に限るという決まりがあります。それに、我が侯爵家の後ろ盾がなくなるのですよ? それでも殿下は、わたしとの婚約解消を望まれるのですか!?」
「その心配はいらんぞ、エリザベス」
ふいに低い声が背後から聞こえてわたしは振り返りました。いつからいたのか、お父様――アッシュボーン侯爵が冷ややかな目でわたしを見下ろしていました。
「我がアッシュボーン侯爵家が殿下の後ろ盾を離れることはない」
「それはどういう――」
「アリス・キンバリー男爵令嬢はアッシュボーン侯爵家の養女になることが決まった。長女としてな」
「長女!?」
お父様は一体何を言っているのでしょう。
アッシュボーン侯爵家の長女はわたしのはず。百歩譲ってアリス・キンバリー男爵令嬢を養女に迎えるとしても彼女はわたしより年下です。困惑するわたしに、冷たい口調のままお父様は続けました。
「エリザベス、お前にはつくづく愛想が尽きた。殿下のお心一つ繋ぎ止められんとか役立たずめ。そんな娘は私には必要ない」
そして表情を一切変えることなく、「お前を勘当する」と言い放ちました。
「貴族籍から抜く。どこへでも行くがいい。我が侯爵家の庇護はないと思え」
「そんな――!」
分かっていました。お父様がわたしのことを政争の駒としか見ていないくらい。
お父様はこういう人です。自分の地位を上げ、権力を高めることしか頭になく、その為なら家族など幾らでも犠牲にする。
お母様もその一人でした。政略結婚で二人の間に愛情はなく、お父様は殆ど王都の屋敷には戻りません。夫に愛されない苛立ちをぶつけるように、お母様はわたしの淑女教育に打ち込んだのです。その教育はとても厳しいものでした。
「お母様も、承知なさっているのですか!?」
「あれは関係ない。私が決めたのだ」
「くくくっ、平民堕ちとは哀れだなぁ!」
整った美貌を醜く歪めて殿下は嘲笑いました。
「心の底から貴族、というお前のような女が平民の中で生きていけるはずがない。のたれ死ぬか、娼館に売られるかが関の山だろうなぁ! せいぜい頑張るがいい!」
「ああ……!」
その殿下の言葉がとどめでした。
今まで必死に抑え込んできた何かが一気に壊れるような音がしました。
視界がぐらりと揺れ、膝から力が抜けます。今度こそ目の前が真っ暗になって、わたしはその場に崩れ落ちました。
「そんな……、どうして……!」
はらはらと涙が零れました。
幼い頃から毎夜毎晩、眠る時間さえ削られて教育されてきました。その全てがたった今、無意味だったと宣告されたのです。
わたしの努力は、最初から誰にも必要されていなかったのです。
喉の奥から嗚咽が漏れそうになるけれど、必死で唇を噛みしめて声を殺しました。
――決して涙を見せてはいけない。
それはお母様から、家庭教師から繰り返し教えられてきたこと。曰く、国王と並んで王妃は国そのものであり、従って涙は国の弱体化の象徴として受け止められる。曰く、涙は弱さであり、従って国王の弱点と対外的にみなされる。曰く、涙は女としての証であり、従って泣いた瞬間女に戻ってしまう。
だからこそ王妃は絶対に泣いてはいけないのだと。
だけど、もう抑えきれませんでした。
熱いものが頬を伝い、ぽたぽたと床に落ちました。どれだけ瞼を固く閉じても、泣いてはいけないと自らに言い聞かせても、涙は溢れわたしの頬を、床を濡らしました。
それでも、せめて声だけは出すまいと口を押さえつけました。
「――『氷の令嬢』も形無しだな」
嘲笑と共に、そんな言葉がわたしの耳に届きます。
果たして誰が口にしたのか分かりません。どうしようもない悲しみと絶望で、もはや顔を上げる気力なんかどこにもありませんでした。
「――床に這いつくばる姿、無様この上ないわね」
「平民堕ちした傲慢令嬢には相応しい末路だな」
クスクスという嘲笑が会場全体にまで膨れ上がり容赦なくわたしの全身を圧し潰しました。
「目障りだ。衛兵、この女を連れて行け!」
遠くから殿下の声が聞こえます。ああ、もういっそのこと消えて――死んでしまいたいとさえわたしは思いました。
でも、誰かがわたしの肩を無遠慮に掴んだ、その時でした。
「――何の茶番だ、これは」
低く、重々しい声が、会場に響き渡りました。
§
「――何の茶番だ、これは」
決して大きくないその声に、会場は静まり返りました。
カツン、カツンと靴が床を鳴らす音が聞こえます。その音は段々と近づいてきて、わたしのそばで止まりました。
のろのろと顔を上げた視線の先、そこには背の高い男性が立っていました。
黒を基調として、銀色の装飾を散りばめた華麗な服を着こなすその男性に見覚えはありません。教育の一環としてこの国すべての貴族の顔と名前は叩き込まれていましたが、目の前の男性の顔はやはり見たことがありませんでした。
(どなた、なのかしら……?)
年齢はお父様よりは少し下といったところ。髪色はこの国では珍しい黒、おまけに緑色の瞳なんてわたしは初めて見ました。そして精悍な顔と逞しい身体の美丈夫は、ゆっくりと周囲を見渡しながら低い声で吐き棄てました。
「久し振りに王城に来たが、しばらく見ない間にこの城の連中は余程腐ってしまったと見える」
男性は侮蔑の表情を隠そうとしません。口に出すのも億劫という感じで続けます。
「何の罪もないご令嬢を大勢で囲んで嘲笑うのが貴様らの正義か。見下げ果てたとはこのことだな」
「だ、誰だ貴様!?」
真っ先に我に返ったルイス殿下が詰問します。ですが男性は興味なさそうに殿下を一瞥した後、わたしに向かって白いハンカチを差し出しました。
「――涙を拭うと良い、ご令嬢。折角の綺麗な顔が台無しだ」
わたしにかける声はさっきとは全く違い穏やかで温かいもの。その瞳に哀れみや嘲りといったものはなく優しい色が満ちています。
わたしは震える手でハンカチを受け取り涙を拭いました。
でも、新しい涙が次から次へと溢れ出します。拭っても拭っても止まりません。
「申し訳……ございません」
「構わない」
そして男性はわたしの手を取ると、気遣うようにそっと立ち上がらせてくれました。
(――温かい、わ)
こんなに温かい手に触れたのはいつ以来でしょうか。誰も――お父様は当然としてお母様ですらこんなに優しく触れてくれることはありませんでした。そしてその手の温かさが、わたしの凍り付いた心をゆっくりと溶かしてくれました。
「ええい、返事をしろ!」
いきりたつ殿下でしたが、それでも男性は返事をしません。それどころかもはや殿下を見ようともせず、緑色の瞳をまっすぐ国王陛下に向けています。信じられないくらいに不敬な態度でしたが、お構いなしとばかりに男性は口元を歪めました。
「――しばらくぶりだ、アーサー」
その瞬間、まるで突風が吹き抜けたかのように、会場にいた誰もがびくりと身体を震わせました。およそ国王陛下を名前で呼ぶなんて、普通なら考えられないことだからです。
(本当にこの方はどなたなの……?)
疑問で頭を一杯にして、わたしはそっと男性の顔を窺います。
と、わたしは気付きました。彼が身に纏う紫紺の外套、その留め具に紋章が刻まれているのを。そして、獅子の咆哮をモチーフにしたというその紋章にわたしは見覚えがありました。
「ヴォルフ……」
まるで呻くような声を漏らす国王陛下。
その声でようやくわたしは男性の正体に思い至りました。
彼の名前はヴォルフガング・フォン・ローエンベルク。王国の遥か西方に位置するローエンベルク辺境伯領の当主です。
慌ててわたしは男性から一歩後ずさり、淑女の礼を取りました。
(まさか、この方がローエンベルク辺境伯閣下だったなんて……!)
ローエンベルク辺境伯を単なる地方貴族と捉えるのは間違いです。
何故なら現在の王朝の成立に密着に関わっているからです。
かつてこの国には多くの軍閥がしのぎを削り争いが絶えない時代がありました。当時の国王に争いを止める力はなく、血を血で洗う激しい戦いがあちこちで繰り広げられました。
その争いに終止符を打ったのが、現在のウィンダミア王朝の開祖と初代のローエンベルク辺境伯でした。一人は王国の一貴族、もう一人は隣国である帝国の流れを汲む一軍人でしかありませんでしたが、親友だった二人は力を合わせて戦乱を鎮め、王国に平和をもたらしたのです。
即位した現王朝の開祖は親友に最大限の栄誉をもって報いました。
莫大な量の金、銀、財宝。それに加えて「副王」の称号、公爵を超える「大公爵」の爵位。ですがそれら全てを丁重に断った彼はただ辺境の一領主であることを望み、西方へ赴いたのです。
それでも感謝してやまない国王は、ローエンベルク辺境伯に多くの特権を与えました。
その一つが敬称です。本来なら辺境伯は侯爵と同等でありその敬称は「卿」なのですが、ローエンベルク辺境伯に対しては「閣下」が使われます。つまり現在は王国にいない公爵と同等であることを意味します。
特権は敬称に留まりません。任官や献金、対外戦争への参加や戦費負担の義務はなく、王家からの呼び出しにも応じる必要はありません。国王の代替わり時の忠誠の誓いすら免除されます。
言わば、王国内にもう一つの国があるようなものなのです。
そして伝統的に、ローエンベルク辺境伯は表立って王城に姿を見せることはありません。恐らくこの場で辺境伯閣下の顔を知っているのはほんの一握りだけ。
「こ、国王陛下を名前で呼ぶなど不敬だぞ貴様!」
「やめんか馬鹿者!」
なおも言い募ろうとする殿下を国王陛下が鋭い声で止めました。
まさか直々に咎められるとは思わなかったのか、殿下は不満げな表情を浮かべます。
「しかし父上、田舎の三流貴族の分際で……」
「だから黙っておれと言うのに!」
国王陛下は青白い顔で「息子が済まなかった」と頭を下げました。自然とざわめきが湧きます。国王自ら頭を下げて謝罪するなんて普通なら考えられないことだからです。
逆に言えば、それだけ辺境伯閣下を不快がらせてはいけないと王家が判断しているということなのです。
しかしわたしは呆れました。この期に及んでも殿下は、ローエンベルク辺境伯を地方の一貴族としか認識しているようです。王子教育で歴史をきちんと学ばなかったのでしょうか。
会場はシンと静まり返り、誰もが閣下の一挙一動に注目しているようです。ですが、決して目を合わせようとしない様子。閣下から目を向けられると、男性は俯き、女性は広げた扇で顔を隠します。
殿下の片腕に縋り付いたままのアリス・キンバリー男爵令嬢は所在なさげに視線をあちこちに彷徨わせ、一方の殿下はいつもの憎々しい瞳で閣下を睨み付けていました。
「……ところで、先程の私の問いにはまだ答えてもらっていないようだが?」
「と、問いとは?」
陛下に問いかけに、辺境伯閣下はこともなげに言いました。
「罪のないご令嬢を囲んで貶めるのが貴様らの正義か、という問いだ」
「つ、罪ならあるぞ!」
突然、殿下は声を張り上げました。
「エリザベスは可愛げがない! この優秀なぼくを立てるどころか前に出ようとする! それに政治向きの話でもいつも賢しげに口を挟む。こいつのせいで上司から咎められたり、仕事を失ったりした文官をぼくは何人も知っている。まさしく悪女なんだ!」
思わずわたしは唇を嚙みました。
確かに、文官の方に対して口を出したことはあります。ですが、それは彼らが怠けていたり、いい加減に仕事をしていたから注意をしたに過ぎません。だから、これは言わば逆恨み。それでもわたしが「悪女」と呼ばれるには十分でした。
ですが、その悪女という言葉を辺境伯閣下には聞かれたくなかった。
閣下はどう思ったことでしょう。やっぱり、と思ったでしようか。ここにいる方々のようにわたしを蔑むのでしょうか。
不安で見上げると、閣下はちらり、とわたしに微笑みかけました。
「それはその文官共が無能なだけだろう。自分の無能さを棚に上げ折角有意義な提案をしたご令嬢を非難する。彼女の努力を踏みにじる全く度し難い奴らだ」
(――分かってくださった)
熱い気持ちが胸の奥から湧き起こるのを感じます。それは最近は全く感じることのなかった、「嬉しい」という気持ちでした。両陛下も両親も婚約者の殿下さえ気付いてくれたなかったわたしの努力を辺境伯閣下は分かってくれた。それがとても嬉しかったのです。
「ああ、それから」
そして閣下は口の端を吊り上げました。
「先程、面白いことを聞いた。何でも新しい王妃像とか何とか。政治は男の領分だから口を挟むな、女は社交に勤しむだけで良い、だったか? ……ふっ、愚かにも程がある」
「な、何がおかしい!?」
「一理ないわけではないが、それを口にして良いのは優秀な人間だけだ。どうやらこの国の王子は恥という言葉を母親の腹の中に忘れて産まれたようだな。貴様のようなボンクラ王子が言っても意味はない」
「……へ?」
一瞬だけ殿下はポカン、とした表情を浮かべた後、すぐにその顔を怒りで真っ赤にさせました。
「き、貴様ぁ! 次期国王のぼくに向かってボンクラなどと。そこに直れ! 手討ちにしてくれる!」
激高する殿下を嘲笑うかのように、閣下は冷たい笑みを浮かべました。
「――ほう、面白い。やってみるが良い」
そして閣下は腰に差してあった剣の柄に手をやりました。これも辺境伯の特権の一つ。衛兵を除けば王城において帯剣が許されている唯一の人物なのです。
音もなく鞘から抜かれる剣。鋭い刃が鈍く光っています。貴族が好んで使う儀礼的なものではありません。余計な装飾などない実用本位の立派な剣の刃先が殿下に向けられました。
殿下の顔から瞬く間に色が失われます。
それに、「手討ちにする」と言うものの殿下は丸腰です。
「そこの衛兵」
ふいに辺境伯閣下は近くにいた衛兵に声をかけました。
「お前の剣をそのボンクラ王子に貸してやれ。武器も持たない者を殺してしまうのも寝覚めが悪い。本人も嫌だろう。せめて抵抗の機会は与えてやらんとな」
口にするのは冗談でも何でもなく紛れもない本気でした。閣下の全身から湧き起こる殺気はわたしでも容易に分かります。
(これが噂に名高いローエンベルク辺境伯……)
その力の強大さを、恐ろしさを、すぐ傍からまざまざと見せ付けられる思いでした。
強兵の地として知られる辺境伯領の当主は、生半可な武勇の持ち主では務まりません。他を支配する圧倒的な力が求められるのです。辺境の蛮族すら尻尾を巻いて逃げ出してしまうという圧倒的な力の前に、殿下が腰を抜かして床に崩れ落ちるのも無理はなかったのでした。
「どうした。私を手討ちにするのではなかったのか」
面白そうに言って閣下が一歩足を踏み出しました。誰もがこの後の惨たらしい展開を予想した瞬間、慌てふためいたような国王陛下の叫びが響き渡りました。
「え、衛兵! さっさとルイスを、そこの愚か者を連れて行け!」
その声に弾かれたように一人の衛兵が床にしゃがみ込んだままの殿下の元に駆け寄りました。そして身体を抱き上げると、慌ててその場を後にします。
ただ一人残されたアリス・キンバリー男爵令嬢は、「……え? ……え?」と困惑の声を上げながら殿下の後を追います。ですが、もう誰も彼女には注意を払いませんでした。
「そ、その、我が息子が済まなかった、ヴォルフ」
「……ふん」
またもや陛下が謝罪しますが、閣下は面白くなさそうに鼻を鳴らすだけでした。
「アーサー。お前は本気であれを次の国王にするつもりなのか? 友人として忠告するが、あれでは国が滅ぶぞ」
「あ、ああ。分かっている。ルイスは一から教育をやり直す」
それには答えず、閣下は剣を鞘に納めました。
その様子を見ながら、場の空気を入れ換えるように陛下が訊ねます。
「それでヴォルフ、お前がわざわざ王城に来た理由は何なのだ?」
「ああ、実はアーサーに用事というか、頼みがあったのだが……」
「そうか、ここでは何だ、別室に行こうではないか。誰かある、ローエンベルク辺境伯に茶の支度を――」
「いや、それには及ばない。私の用事はもう済んだようだ」
そして辺境伯閣下はわたしを見下ろしながら微笑みました。
§
「私の用事はもう済んだ」
そう言いながらわたしに微笑む辺境伯閣下。
わたしは困惑することしか出来ませんでした。
ですが閣下が浮かべる笑みは先程までの恐ろしい雰囲気とは正反対のとても優しくて温かいもので、奇妙な安心感もまた感じていました。
「エリザベス・アッシュボーン侯爵令嬢」
そして穏やかな口調でわたしの名前を呼びます。これまでご令嬢として呼ばれていませんでしたが、どうやらわたしの名前をご存知の様子。どうしてだろう、と思う間もなく閣下は続けました。
「私はずっと見ていた。きみは先程、あのボンクラ王子から婚約破棄をされた」
「……はい」
「そしてアッシュボーン侯爵からも勘当された」
「……その通りでございます」
わたしは俯き、それでも絞り出すように返事をしました。
思いがけないことが続きましたがわたしが婚約破棄をされ、勘当されたことは紛れもない事実。ぎゅっと胸が締め付けられます。これからわたしはどうなるのか、先行きは全く分かりません。
「平民となった貴族が市井で暮らすのは難しい。特にきみのように美しいご令嬢はなおさらだ。ボンクラ王子も言っていたが、娼婦として売られる恐れも十分に考えられる」
閣下の言う通りでした。わたしは典型的な貴族令嬢で、侍女がいなければ何も出来ません。生活能力すらないわたしがお金を稼ぐことなど不可能で、死ぬか、それが嫌なら身体を売るしかないのです。
「修道院に入るという手もあるが、貴族令嬢が修道院に入るには持参金が必要だ。あの侯爵は出さんだろう」
「と、当然だ! 誰が持参金など!」
お父様――アッシュボーン侯爵が口を挟みました。
持参金は高額です。小さな家が一軒買えるくらいのお金が必要だと聞いたことがあります。勘当した娘のために払うはずがありません。
本当にわたしはどうなってしまうのか。俯いたわたしの耳に閣下の声が届きました。
「そこで提案なのだが、辺境伯家に来るつもりはないだろうか?」
「――え?」
「今後、きみが我が辺境伯領で暮らすという意味だ。華やかな王都暮らしからは離れるかもしれないが……」
その突拍子のない提案にわたしは言葉を失ってしまいました。
もちろん、その提案の内容は分かります。どこへも行き場のないわたしを引き取ってくれるということ。
けれど、何の名目で?
わたしは先程婚約破棄されたばかりの侯爵令嬢。いえ、勘当されましたから貴族でもありません。そんなわたしを引き取る利点など普通は考えられません。
(もしかして愛人――妾になることをお望みなのかしら?)
その時浮かんだ感情をどう表現すべきでしょう。一言で表現するなら「諦め」だったかしれません。
将来の王妃たることを求められ、幼い頃から厳しい教育に耐えて来ました。その行き着く先が大貴族の愛人――。悲しいという気持ちよりもただ虚しさだけがありました。
(もう、どうでもいいわ)
わたしの胸を占めているのはそんな気持ちだったと思います。
「くっ、うははは! 役立たずの娘だと思っていたが、最後には我が侯爵家に貢献してようではないか!」
「分かりました」とわたしが口にするよりも早く、お父様が叫びました。先程までの苦虫を嚙み潰したもものとは全く違い顔を喜色満面にして。
「辺境伯閣下、そこから先は私が話を承りましょう。何しろ侯爵家の娘を愛人にしようとするのですからな。持参金は弾んで頂きませんと――」
「黙れ!」
それは突然でした。辺境伯閣下はいきなり腰の剣を引き抜くと、その切っ先をお父様に突き付けたのです。
そしてその顔に浮かんでいたのは激しい怒り。殺意すら込められたようなその表情に、お父様の顔から血の気が引きます。
「い、いきなり何をなされるのか!」
それでも震える声でお父様が叫びます。
閣下の今にも斬って捨ててしまいそうな迫力に、わたしも全身が震えるのを感じました。
「貴様、このおれが妻以外に愛人を持つような男だと言いたいのか。ここまで侮辱されたのは初めてだ。余程死にたいらしい。良いだろう、苦しまずに冥途に送ってやる」
「ひっ、ひぃっ!」
先程のルイス殿下と同じようにお父様も腰を抜かし、そのまま後ろへ倒れてしまいました。それをみっともないとは言いません。この辺境伯閣下の迫力の前ではどんな鍛えた男性でも同じだったでしょうから。
そしてわたしも内心で胸を撫で下ろしていました。「愛人になることを了承します」などともし口にしていたら、あの場で倒れ込んでいるのはきっとわたしだったでしょうから。
「それに、貴様はご令嬢を勘当したのだろう。今更、何の権利があって親の振りをするつもりだ。寝言は寝てから言え」
冷ややかな閣下の言葉にお父様は何も言えずに黙り込むしかありません。
そしてそんなお父様をしばらく見下ろしていた閣下は、やがてその視線をわたしに移しました。
「この愚か者のせいできみに誤解を与えたなら心から申し訳なく思う。私はきみを愛人をするつもりなど一切ないから安心して欲しい」
「は、はい……。ありがとうございます」
わたし自身それを想像したとは言わないでおきます。
そんなわたしの思いをよそに、閣下は片膝を付いてまるでプロポーズをするかのようにわたしに右手を差し出しました。
「私は、きみを養女にしたいと思っている。どうか我々夫婦の娘となってくれないか」
「……えっ?」
それは思ってもみなかった提案でした。
(わたしを……、養女に?)
信じられませんでした。
嘲られ、貶められ、もう何の価値もないわたしを娘にするなんて。
涙がまた流れました。ですがそれは悲しみではなく、もっと別の感情によるものだったと思います。胸の奥が熱くて、痛くて、息が出来ない程で。
けれど、とても嬉しい。
信じられないくらいに嬉しく思いました。
「王都に比べると辺境は華やかではないかもしれない。だが、領土の豊かさでは決して王都に負けないつもりだ。決してきみに不便をかけない」
辺境とは「遠く離れた土地」を意味します。他国の例は知りませんが、田舎とか、未開の地などといった侮蔑的な意味はここにはありません。また、国境を巡り戦乱が絶えなかったというのも昔の話。今では異国との貿易や文化交流が盛んであり、国内でも最も豊かな土地の一つなのです。
「そしてもう一つ約束しよう」
辺境伯閣下は優しく微笑みました。
「我が辺境伯家の総力を持って、きみを幸せにする男を探してみせよう。あんなボンクラ王子ではなく、きみを心から愛する男に嫁がせることをここに誓おう。だから、どうかこの手を取ってくれないだろうか」
「……本当に、わたしで良いのでしょうか」
「きみ『で』良いではない。きみ『が』良いのだ」
穏やかですが真剣な表情。閣下からは誠意が溢れていて、その言葉は疑うべくもありません。ですからわたしは求められるままに、そっと閣下の手を取りました。
「こんなわたしでよろしければ……、よろしくお願いいたします」
「決まりだ」
辺境伯閣下は満足そうに微笑み、立ち上がりました。
「我が娘に新しい名前を贈ろう。きみは今日からエリザベート・フォン・ローエンベルクだ」
「エリザベート・フォン・ローエンベルク……」
わたしは呟いていました。帝国風の響きを持つその名前は、不思議と耳に馴染みました。
「エリザベート……、エルザと呼んでもいいだろうか」
エルザ。それは昔のわたしの愛称でもありました。まだ優しかった頃のお母様はいつもその愛称でわたしに呼びかけたものでした。
今ではエルザと呼んでくれるのはほんの数人しかいません。
「はい、閣下の御意のままに」
「……待ちたまえ」
わたしは素直に了承したつもりでしたが、閣下はその答えが気に入らなかったのか少しだけ眉を寄せました。
「きみと私はもう親子なんだ。その言葉遣いは少し他人行儀に過ぎると思うのだが。……どうか父と呼んでくれないか」
「……おとう、さま」
わたしはそっと口にします。
何だかくすぐったいような気持ちで、もう一度口にしました。
「お父様」
本当の父は閣下のすぐ傍で転がっているアッシュボーン侯爵のはず。ですが、今日初めて会った人を父と呼んでいる――。そのことに違和感を覚えない自分を不思議だとも思いませんでした。
「何かな、エルザ」
そう問いかけてくれるお父様の表情はとても優しくて。だからわたしは自然と、望みを口にすることが出来ました。
「わたし、海が見たいのです。ローエンベルク辺境伯領には海があると聞き及びます。……見ることは叶いますか」
「もちろんだとも」
「ありがとうございます。とても、楽しみです」
わたしは微笑みました。
きっと、笑えていると思います。
人前で笑うなどもってのほか。散々言われていたことを破るのに何の躊躇いもありませんでした。
だってわたしはもう、エリザベス・アッシュボーンではありません。エリザベート・フォン・ローエンベルクなのですから。
お父様も微笑むと、ふいにわたしを横向きに抱きかかえました。わたしの背中と膝の下に腕を通して。相当な力が求められるはずなのに、お父様は難なくこなしています。
そんなことよりも。
(これってもしかして、「お姫様抱っこ」というものでは?)
市井のことを知ろうと、流行りの小説に目を通したこともあります。そこに登場するお姫様は、決まって素敵な王子様にこのような恰好で抱きかかえられていました。
それを今まさに自分が体験している、それもこんなに大勢の前で――。
恥ずかしくてたまらなくて、顔が信じられないくらい熱くなっているのを感じました。
「お、お父様! 下ろしてくださいませ!」
「どうしてだろうか? 父親が可愛い娘を抱きかかえるのに何の不都合がある?」
「は、恥ずかしいです……!」
だってわたしはお姫様でも何でもないのに。
そんな思いで見上げると、お父様は小さく口元に笑みを浮かべました。
「問題ない。きみは私たちにとっての姫なのだから」
こともなげに言ってから、ふいに笑みを消したお父様は周囲を鋭い視線で眺めやりました。
「ここに集う連中に紹介しよう。我が娘、エリザベートだ。言うまでもないが、今後エリザベートを嘲笑ったり、貶めたりした場合、それは我が辺境伯家に対する敵対行為とみなす。もちろん、王家もだ」
貴族当主とその令息令嬢。そして国王陛下までもが青白い顔で何度も頷くのが見えます。
「では、我々は失礼しよう。行こうか、エルザ」
「はい、お父様。あ、あの、それなら下ろして頂けると大変有難いのですが……。自分で歩けます」
「それは聞けない相談だ」
楽しそうに笑い声を上げるお父様。そんなお父様を見ていると、わたしも「まあいいか」という気持ちになりました。
とんだエスコートに振り回されつつも、案外こういうのも悪くないと思ってしまうわたしがいました。だからわたしは恥ずかしさを隠すように、ぎゅっと力を込めてお父様に抱き着いたのです。
こうして思いもかけず辺境伯家の令嬢となったわたしは、王都から遠く離れた辺境伯領に向かうことになました。
正直言ってこの展開は自分でも信じられません。ですが、お父様から感じる優しさは夢なんかじゃないと、抱き着く身体の温もりから感じ取ることが出来ました。
ですからわたしは決して悲観していません。
確かに王妃の道は閉ざされましたが、これまで培ったものは決して消えることはない。きっとわたしでも辺境伯領のために何か出来ることがあるはずです。そしてわたしはいつか、温かく迎えてくれたお父様に恩返ししようと心に誓いました。
でも、まさか。
辺境伯領でわたしは、お父様を初めとする皆様からこれ以上ないくらいに溺愛されることになるなんてこの時はまだ思ってもみませんでした。
ましてや婚約を破棄されたわたしが帝国の皇太子に見初められ妃となるなんて、天地がひっくり返ることがあっても予想出来るはずがなかったのです。




