第7章:苦渋の決断
魔獣は倒れた。しかし、勝利の代償はあまりにも大きかった。
回復魔法さえ通用しない、死に至る傷を負った騎士シム・グーン。
絶望が支配する戦場で、少年領主モディは静かに告げる。
「――道具は、揃っている」
これから始まるのは、神への冒涜か、それとも最後の奇跡か。
騎士としての誇りを守り死ぬか、人としての生を求め禁忌に手を伸ばすか。
彼女の魂が、今、試される。
モディの命令は、絶対だった。
勝利の興奮も、仲間の死の悲しみも、全てが凍りついた戦場で、騎士たちはただ、その10歳の少年の言葉に従った。彼らは血まみれのシムを担ぎ上げ、俺が先導する研究小屋へと駆け込んだ。
「子爵殿…これは、一体…?」
小屋の中に足を踏み入れた騎士の一人が、絶句した。
無理もない。壁一面に貼られた、豚や鼠の生々しい解剖図。棚に並ぶ、得体の知れない臓器が浮かぶ液体の入った瓶。そして、これからシムが横たえられるであろう石の台の上には、医療器具ともつかない、鈍い光を放つ刃物の数々。
ここは、およそ人の住む場所ではなかった。騎士たちの目に、俺への畏怖と、そして明らかな不信の色が浮かぶ。
「問答は後だ! マリン!」
俺の怒声に、回復術師であるマリンがはっと我に返る。彼女は泣きそうな顔でシムの傷口に手をかざし、治癒の光を注ぎ始めた。
だが、その光は無力だった。傷口から溢れ出る血は止まらず、むしろ裂けた肉は黒ずみ、腐敗の兆候さえ見せ始めていた。
「ダメだ…! 肉も骨も砕けすぎている…! 魔獣の爪には呪いのようなものがあるのか、治癒が全く追いつかない…! このままでは出血で…!」
マリンの悲痛な叫びが、小屋の中に響き渡る。魔法の限界。それは、この世界の絶対的な摂理の限界でもあった。
俺は慣れた手つきで松明の火で刃物を炙り、蒸留した強い酒でシムの傷口周辺の汚れを拭い始めた。その淀みのない、子供らしからぬ動きを、騎士たちは息を呑んで見つめている。
そして、俺は静かに、しかし有無を言わさぬ口調で宣告した。
「助ける方法は、一つしかない。この足を、切り落とす」
「馬鹿なことを言うな!」
騎士の一人が、ついに激昂した。
「騎士から足を奪うなど、殺すのと同じだ! 貴様、シムを侮辱する気か!」
その騒ぎと激痛が、シムの意識を揺り起こした。
朦朧としながらも、彼女は俺の言葉を理解したのだろう。その瞳に、深い、深い絶望の色が浮かんだ。
彼女はか細い声で、ただ懇願するように呟いた。
「…やめて…くれ…。それなら…いっそ、殺して…」
騎士たちの反発。シム自身の拒絶。絶望的な空気が、この不気味な小屋を支配する。
だが、俺は動じなかった。
俺は膝をつき、シムの顔を至近距離で覗き込んだ。その瞳は、もう8歳の子供のものではない。49年の人生の苦渋を全て知る、賢者の瞳だった。
俺は慰めの言葉ではなく、彼女の魂を抉る、最も残酷な言葉を投げかけた。
「あんたの婚約者は、あんたに『戦いつづけろ』と言ったそうだな」
シムの瞳が、驚愕に見開かれる。なぜ、この子供がそれを知っているのか。
「死ぬのは簡単だ。だが、それは『戦う』ことか?」
俺は続けた。
「隻腕の英雄、盲目の剣聖…物語には五体満足じゃない英雄がいくらでもいる。なぜ、あんたがそうなれないと決めつける? 足を失った騎士が『戦い』を諦めるなら、あんたが命懸けで守り続けてきた婚約者の言葉は、その程度のものだったのか?」
それは同情ではない。彼女の騎士としての、そして一人の人間としての誇りそのものへの、痛烈な問いかけだった。
シムの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それはもう、絶望の涙ではなかった。
悔しさと、そして、心の奥底で再び燃え始めた、闘志の炎だった。
彼女は、声にならない声で何かを叫び、そして、一度だけ、力強く頷いた。
決断は、下された。
俺は静かに立ち上がると、騎士の一人に、分厚い革のベルトを投げ渡した。
「これを噛ませろ。叫び声で舌を噛み切らんようにな」
次に、青ざめた顔で立ち尽くすマリンに向き直る。
「マリン、お前は回復術師だろ。俺が切る。お前は傷口を焼き、出血を止める。魔法で肉が焦げる瞬間の痛みも和らげろ。できるな?」
マリンは恐怖に震えながらも、こくりと、しかし力強く頷いた。
騎士たちがシムの体を押さえつけ、口にベルトを噛ませる。シムは、涙を流しながらも、覚悟を決めた目で俺を見つめていた。
俺は、火で清められた鋸を手に取った。
その瞳には、これから行う所業への憐憫も、恐怖もない。ただ、生命を救うという目的だけを遂行する、冷徹な外科医の光だけが宿っていた。
俺は深く息を吸い、そして、吐いた。
「――始めるぞ」
王城での再会
師であるシム先生が東の要塞へと旅立ってから、一年が過ぎた。
私は十歳になり、一人での鍛錬にもすっかり慣れていた。心の中には常に、まだ見ぬ二人の「神童」の姿があった。いつか必ず会い、そして私のほうが上だと証明してみせる。その一心で、私は毎日木剣を振るった。
そんなある日、母親が興奮した様子で私の部屋に飛び込んできた。
「リーン! 大変よ! 王城から、あなたに招待状が届きました!」
話を聞いて、私は自分の耳を疑った。
お母様が、シム先生が残してくれた紹介状を手に、ダメ元で騎士団長であるヘルト公爵に謁見を申し込んだところ、公爵はかつての同僚であった先生に敬意を払い、なんと、私のために王太子殿下との「手合わせ」の場を設けてくれたというのだ。
「……やった!」
私は思わず叫び、ガッツポーズをした。
ついに来た! 神童の実力、この目で見極めて、そして叩きのめしてやるわ!
私の心は、かつてないほどの闘志で燃え上がっていた。
数日後、私は緊張と興奮が入り混じった心地で、生まれて初めて王城の門をくぐった。
案内されたのは、陽光が燦々と降り注ぐ、広大な修練場。そこで私を待っていたのは、一人の少年だった。
彼が、王太子ジョウ殿下。
噂に違わぬ「神童」の風格。そして、思わず見とれてしまうほど優美な顔立ち。下手な令嬢よりよほど美しいその姿に、(男の娘…)という前世の言葉が頭をよぎった。
しかし、その立ち姿や木剣の構えには一切の隙がなく、彼が本物の実力者であることが一目で分かった。
「バルガス伯爵がご息女、リーン嬢とお見受けする。歓迎しよう」
「お目にかかれて光栄です、王太子殿下」
丁寧な挨拶を交わす間も、私たちの視線は火花を散らしていた。
「では、尋常に――勝負!」
合図と共に、私たちは同時に動いた。
ジョウ殿下は剣と盾を完璧に使いこなし、まるで鉄壁の城塞だ。対する私は、得意の「肉体強化」による圧倒的なパワーとスピードで、嵐のように猛攻を仕掛ける。
ジョウ殿下の技術と、私のパワー。互角の攻防が続く。
(強い…! さすが神童って言われるだけある!)
私は、目の前のライバルの実力を素直に認めた。
試しに、剣を打ち合わせた瞬間、前世の言葉で囁いてみる。
「…こんにちは」
「…む?」
ジョウ殿下は一瞬眉をひそめたが、特に反応はない。
(なんだ、違うのか…)
少しだけ落胆しながらも、私はさらに攻撃の速度を上げた。
手合わせが白熱した、その時だった。
「――そこまでですわ」
凛とした、涼やかな声が修練場に響いた。見れば、一人の少女が、優雅な足取りでこちらに近づいてくるところだった。
腰まで届く、艶やかな黒髪。全てを見通すような、紫色の瞳。その佇まいは、まるで物語に出てくる王子様(宝塚の男役)のようだった。
「ジョウ。ご令嬢相手に、少し熱くなりすぎではありませんこと?」
「カテナか。いや、これは真剣勝負でね」
「まあ」
カテナと呼ばれた少女は、私の頬にできた僅かな痣に気づくと、優しくハンカチを差し出してくれた。
「お怪我は? 大丈夫ですの?」
「これくらい、平気です。自分で治せますから」
私が痣に手を当て、光魔法で癒してみせると、彼女は感心したように目を細めた。
三人で話すうち、私はカテナにも、ジョウ殿下とはまた違う、奇妙な既視感を覚えていた。
諦めきれない。私は最後の賭けに出ることにした。
修練場の外に広がる、手入れの行き届いた美しい庭園を見ながら、ふと、こう呟いた。
「……月が、とても綺麗ですね」
ジョウ殿下は「え? まだ昼間だけど…?」ときょとんとしている。
だが、隣にいたカテナの完璧な微笑みが、一瞬だけ、凍りついた。
彼女の紫色の瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれる。
そして、震える声で、しかしはっきりと、彼女は前世の言葉で答えた。
「ふふ…私を、口説いてるの?」
その瞬間、私の中で、全ての記憶が繋がった。
目の前の少女が、いつも私を叱咤してくれた親友の、「瑞樹」だと。
そして、私と剣を交えた王太子が、いつも私たちを気にかけてくれた、クラスメイトの「鈴木君」だったのだと。
「…みずき?」
「…きょうこ…?」
「田中さん…? 佐藤さん…?」
何年も、たった一人で抱え込んできた秘密。転生者としての孤独。
その全てが、奇跡の再会によって、涙と共に溶けていく。
形式的な立場も、貴族の作法も、もうどうでもよかった。
そこにはただの京子、瑞樹、そして鈴木君がいた。私たちは互いの無事を喜び、子供のように泣き、そして腹の底から笑い合った。
一通り感情が落ち着いた後、ジョウ(鈴木君)が、悔しそうに口を開いた。
「やっぱり手加-減されてたんだな。リーン(田中さん)、今度は本気でやろう」
その瞳にはもう、王太子の仮面はない。一人の少年としての、純粋な負けん気の炎が燃えている。
カテナ(瑞樹)は「もう、男の子ってほんと…」と呆れたように、しかし、心の底から嬉しそうに微笑んでいた。
再会を祝うように、私たちはもう一度、木剣を構え直した。
今度はもう、「王太子と臣下」としてではない。
離れ離れになっていた時を取り戻す、ただの「友人」として。
お読みいただきありがとうございました。
「月が、とても綺麗ですね」
その一言をきっかけに、ついに繋がった三人の魂。
孤独だった転生者たちは、ようやく、この広い異世界で互いを見つけ出しました。
伯爵令嬢リーン(京子)。
王太子ジョウ(鈴木君)。
そして、侯爵令嬢カテナ(瑞樹)。
それぞれの立場で、それぞれの孤独を抱えて生きてきた彼ら。
しかし、今日この日から、彼らはもう一人ではありません。
最強の仲間を得た三人の転生者たちは、これから何を成すのか。
彼らの出会いは、この世界の運命に、どのような影響を与えていくのか。
物語は、ここからが本番です。
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それでは、また次回の更新でお会いしましょう。




