第6章:ニア村の攻防
鳴り響く鐘の音から、一週間。
家畜を犠牲にしながら、村人たちが息を潜めて耐え続けた、永い永い時間。
絶望が村を覆い尽くそうとした、その時。
丘の向こうに翻ったのは、剣と盾をあしらった、王国騎士団の旗。
辺境の村に、ついに希望の光は差した。
しかし、彼らはまだ知らない。
自分たちがこれから対峙する魔獣が、熟練の騎士たちの想像さえも、遥かに超える存在であることを。
ニア村の攻防戦、その火蓋が今、切られようとしていた。
あの夜、村中に半鐘が鳴り響いてから、一週間が過ぎた。
ニア村は今、不気味なほどの静けさと、張り詰めた緊張感に包まれている。俺の指示の下、村は完全な籠城体制に入っていた。子供と老人、そして女たちは堅牢な石造りの教会に集められ、男たちは交代で粗末なバリケードと見張り台に立っている。
そして、俺が断行した最も過酷な策が、今も続けられていた。
村の大切な家畜――牛や豚を、村境の森の木に一頭ずつ繋ぎ、シドベアーの「餌」として捧げる作戦だ。
家畜がシドベアーに食い殺される悲鳴が、夜風に乗って時折村に届く。そのたびに村人たちの心は苛まれ、何人かは俺に詰め寄ってきた。だが、その犠牲のおかげで、まだ村に直接の被害は出ていない。飢えた獣は、まず手近な餌に食いつく。非情だが、合理的な判断だった。俺は、心を鬼にして反対する者たちを説き伏せた。
「子爵様…!」
援軍の到着予定日まであと数日と迫った、ある日の昼下がり。見張り台から、歓喜とも悲鳴ともつかない声が上がった。
「旗だ! 王国騎士団の旗が見えるぞ!」
その一言は、絶望に沈みかけていた村に、一筋の光明を差した。村人たちが、バリケードの隙間から、安堵と期待に満ちた眼差しを道へと向ける。
やがて、丘の向こうから十騎の騎馬武者が姿を現した。太陽の光を反射して輝く銀色の鎧。風にはためく、剣と盾をあしらった王国の旗。
彼らは、まさしく物語に出てくる英雄そのものだった。
歓声に迎えられ、村に到着した騎士団。その先頭に立つのは、赤みがかった茶髪を一つに束ねた、凛とした女騎士だった。
「この村の領主殿にお目通りを願いたい。我々はダイテ要塞より、魔獣討伐の任を受け参じた」
その声には、戦場を駆けてきた者だけが持つ、心地よい緊張感があった。
俺は郷士のトマスに案内させ、彼女を屋敷の広間へと通した。
「あなたが、ヌーベル子爵か」
「いかにも」
俺の姿を見て、女騎士の眉が僅かに動いた。子供が領主であることに驚いているのだろう。だが、その瞳には侮りの色はない。ただ、俺という存在を冷静に分析している、プロの眼だった。
「シム・グーンだ。この部隊の指揮を執っている」
「モディ・ヌーベルだ。歓迎する、グーン卿」
(子供…? いや、この眼は…)
シム・グーンの心の内が、俺には少しだけ読めた。彼女は、俺の年齢不相応な、全てを見透かすような瞳に、驚きを隠せないでいる。
俺は騎士たちが長旅で疲れていることも考慮し、挨拶もそこそこに、単刀直入に状況を説明した。シドベアーの出現場所、被害状況、家畜を犠牲にした遅延策、そして猟師マヌカによる行動パターンの分析結果。
その理路整然とした報告と、10歳にして「村人の財産を犠牲に時間を稼ぐ」という非情な決断を下した事実に、彼女の俺を見る目が変わっていくのが分かった。驚きから、警戒、そしてプロフェッショナルとしての敬意へ。
「…状況は理解した。子爵殿の判断は、的確だ」
「礼を言う」
俺たちの間には、奇妙な、しかし確かな信頼関係が芽生え始めていた。
シム・グーンの作戦は、迅速かつ合理的だった。
俺からの情報に基づき、彼女は次の夜、餌でおびき寄せたシドベアーを森の外れにある開けた伐採地で包囲殲滅する、と決定した。
そして、その夜。
罠は仕掛けられた。日没後、森の闇が深くなるにつれ、緊張が場を支配する。
やがて、森の奥から、巨大な影が姿を現した。月明かりに照らし出されたその巨躯は、5メートルはあろうか。剥き出しの牙と、岩をも砕くという鉤爪。その全身から放たれる威圧感に、後方で弓を構える猟師たちが息を呑むのが分かった。
「――掛かれ!」
シム・グーンの号令一下、伏せていた騎士たちが一斉にシドベアーに襲い掛かる。
しかし、シドベアーは単なる巨大な獣ではなかった。
騎士たちの剣を、土魔法で硬化させた皮膚がいとも容易く弾き返す。咆哮と共に放たれた風魔法の衝撃波が、熟練の騎士たちの包囲網をいとも容易く崩壊させる。その動きには、明らかに、狡猾な知性が宿っていた。
「くっ…! 怯むな! 懐に入れ!」
騎士たちは必死に奮闘するも、シドベアーの圧倒的なパワーと魔法の前に、徐々に、しかし確実に追い詰められていく。
そして、一瞬の隙だった。仲間を庇おうとした一人の騎士が、薙ぎ払われた巨大な爪によって、鎧ごと弾き飛ばされた。
「退くぞ!」
包囲網は完全に崩壊した。シム・グーンは苦渋の決断を下す。
シドベアーは、深手を負わせたことに満足したのか、あるいは手負いの騎士たちを弄ぶように、一度だけ夜空に咆哮すると、再び森の闇へと悠然と姿を消した。
騎士たちは負傷した仲間を抱え、村へと撤退した。
村人たちの間に広がっていた希望は、一瞬にして、より深い絶望へと変わっていた。
「申し訳ない、子爵殿。奴は、我々の想定を遥かに超える力と知性を持っていた」
屋敷に戻ったシムは、俺の前で潔く敗北を認め、深く頭を下げた。
しかし、俺の表情は変わらない。パニックに陥るでもなく、ただ静かに、戦いの結果という新しい「データ」を頭の中で処理していた。
戦いを遠くから観察していた俺は、静かに口を開いた。
「…奴は、こちらの攻撃パターンを読んでいたように見えた」
その言葉に、シムは弾かれたように顔を上げた。
俺の目を見て、彼女は再び背筋に冷たいものを感じていた。この10歳の少年は、この絶望的な状況を、まるで盤上の駒を動かすかのように、ただ冷静に分析している。
プロの騎士団が敗北したというのに、その瞳には、絶望の色も、焦りの色も、一切浮かんでいなかった。
闇と光の共闘
初戦に敗れた翌朝。ニア村の空気は、鉛のように重かった。
俺の屋敷の一室では、シム・グーンと9人の騎士たちが、重苦しい雰囲気の中で地図を睨みつけていた。どうすればあの怪物に勝てるのか。誰もが口を閉ざし、有効な手立てが見つからずにいた。
「――策がある」
その沈黙を破ったのは、俺の声だった。
騎士たちの視線が一斉に俺に集まる。俺は動じることなく、部屋の中央に進み出た。
「昨夜と同じ場所で、もう一度奴を誘き出す」
「馬鹿な!」すぐに若い騎士の一人が反論した。「同じ手が二度も通じる相手ではない! それは昨夜、我々が一番よく分かったはずだ!」
その通りだ。だからこそ、策が必要なのだ。
俺は冷静に、昨夜の敗因を分析する。「昨夜の敗因は、敵の力を分散させようとして、こちらの戦力も分散させてしまったことにある。奴は我々より強く、そして賢い。小細工は通じない」
俺は地図の上を指でなぞる。
「だから今度は、シム卿たち主力を『金槌』とし、奴をこの一点に追い詰める。そして、追い詰めた先には、俺が『金床』を用意しておく」
「子爵殿、それはあまりに危険すぎる。あなたの役目は後方で指揮を執ることだ」
シムが、俺の身を案じるように言った。
「あんた達だけでは勝てないと、昨日証明されただろう」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺には、あんた達にはない『武器』がある」
その子供とは思えない威圧感と、揺るぎない自信に、シムはしばらく押し黙っていた。やがて、彼女は覚悟を決めたように、一つ、頷いた。
その夜、作戦は実行された。
再び囮の家畜に誘き寄せられたシドベアーは、昨夜よりも遥かに用心深く、森の闇から周囲の気配を窺っている。傷を負ったその巨体からは、昨日以上の殺気が放たれていた。
「――掛かれ!」
シムの号令が、夜の静寂を切り裂く。
伏せていた騎士たちが、雄叫びと共に一斉にシドベアーへと襲い掛かった。
「金槌」として、奴を俺が指定した場所へと追い込むために。
シドベアーは騎士団の意図に気づき、猛然と反撃を開始した。昨日よりも激しさを増した魔法の応酬。岩を砕く爪と、鋼を弾く剣が火花を散らす。騎士たちは傷つきながらも、必死に食らいつき、巧みな連携で少しずつ、しかし確実に怪物を「金床」へと追い込んでいった。
戦況は、膠着していた。いや、じりじりと騎士団が押され始めていた。
騎士の一人が体勢を崩し、シドベアーの巨大な爪が、無防備なその喉元へと振り下ろされようとした、その瞬間。
戦場の片隅、深い闇の中から、俺は動いた。
俺の標的は、シドベアーの肉体ではない。その五感だ。
俺は闇魔法の糸を伸ばし、怪物の精神に触れる。
その怒りを際限なく増幅させ、理性を焼き切る。
背後から存在しない敵の気配を幻聴として聞かせ、注意を逸らす。
そして、シドベアーに最も深い傷を負わせた騎士の姿を、幻覚として奴の眼前に映し出し、その憎悪を一点に集中させた。
「グゥオオオオオオオオッ!」
突如として理性を失い、幻の敵に向かって猛り狂うシドベアー。その動きは完全に隙だらけになった。
好機を、シムが見逃すはずがなかった。
「今だ! 総員、攻撃を集中させろ!」
シムの檄が飛ぶ。騎士たちの剣と槍が、がら空きになったシドベアーの体に、次々と容赦なく突き刺さっていく。
だが、死の間際、猛り狂った獣は最後の力を振り絞った。その憎悪が向かったのは、幻の敵ではない。この戦いを指揮し、最も強い光のオーラを放っていた者――シム・グーンだった。
それは、誰にも予測できない、獣の本能だけが導き出した最後の一撃だった。
「先生!」
俺の叫びと、シムがその攻撃に気づいたのは、ほぼ同時だった。
疲弊していた彼女に、それを完全に避ける術はなかった。彼女は咄嗟に、隣にいた仲間を突き飛ばし、自らの身体を盾にするように立った。
岩をも砕くシドベアーの爪が、彼女の右足を、鎧ごと無惨に引き裂いた。
「ぐっ…!」
しかし、彼女が最後の攻撃を受け止めたその一瞬の隙が、仲間たちに決定的な好機を与えた。
数本の剣が、がら空きになったシドベアーの喉と心臓を、寸分の狂いもなく貫いていた。
地響きを立てて、巨大な魔獣が倒れる。
勝利の雄叫びを上げる騎士たち。村の猟師たちの歓声。
だが、俺は駆け出していた。歓喜の輪の中心ではなく、血だまりの中に崩れ落ちる、一人の騎士の元へ。
「シム!」
彼女の右足は、もはや足の形を留めていなかった。鎧は紙のように裂け、その中身は赤黒い肉塊へと変わり果てていた。回復術師であるマリンが駆け寄るが、その傷を見て絶望に顔を歪める。
「ダメだ…これでは、助からない…!」
朦朧とする意識の中、シムは俺を見ると、力なく笑おうとした。その口から、血が溢れる。
俺はその傷を一瞥し、次にシムの蒼白な顔を見つめた。
そして、俺は、再び氷のように冷たい決断を下した。
俺は周囲の騎士たちに、子供とは思えない、有無を言わさぬ覇気で命じた。
「俺の小屋に運ぶ。今すぐだ」
「――道具は、揃っている」
お読みいただきありがとうございました。
ついに倒された、人喰いの魔獣シドベアー。
王国騎士団の力と、少年領主モディの知略。二つの力が合わさった時、絶望は希望へと変わりました。
しかし、その勝利の代償は、あまりにも大きいものでした。
仲間を庇い、その身を盾にした騎士シム・グーン。
回復魔法さえ通用しないその傷は、誰の目にも、絶望的な「死」を予感させます。
歓喜に沸く仲間たちを背に、一人だけが冷静に死の淵を見つめる少年、モディ。
彼が最後に口にした、不気味な言葉。
「――道具は、揃っている」
彼の秘密の研究小屋で、一体何が始まろうとしているのか。
シムの命運は、尽きたのか。それとも…。
息を呑む展開が続きます。
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それでは、また次回の更新でお会いしましょう。




