第3章:砕かれた万能感
シム先生の指導が始まって、早一年。
私の才能は、まさに爆発した。
肉体強化はもはや自在。
木剣を握れば、あの先生相手にだって、鋭い一撃を繰り出せる。
ふふふ、我ながらすごい上達ぶりだわ。
これぞまさしく「努力する天才」!
ねえ、先生?
今の私って、もう結構強いですよね?
王国騎士団にだっていますぐ通用するんじゃないですか?
私の名前はリーン・バルガス、9歳。
魔法修行中の転生者だ。
シム先生の指導が始まってから、早くも一年が経った。
某少年誌のような地獄の特訓を想像していたけれど、先生の指導は意外なほど合理的だった。「集中力が続く範囲で、質の高い訓練を繰り返すのが最も効率的です」というのが先生の口癖だ。
そのおかげか、私の魔法の腕は我ながら目覚ましい成長を遂げていた。今では肉体強化を自在に使いこなし、先生との木剣での打ち合いでも、時折「おっ」と言わせることができるまでになっている。
「はっ!」
気合と共に木剣を振るう。先生はそれを軽くいなし、カウンター気味に私の胴を狙ってくるが、私は強化した足で素早く後退し、その一撃を空振りさせた。
「そこまでです。今日は終わりにしましょう」
「はい、先生!」
汗を拭いながら、私は満面の笑みで頷いた。
(ふふふ、我ながらすごい上達ぶりだわ。もう先生にも一本取れるんじゃない?)
一年間の成果は、私の心に確かな自信を、いや、正直に言えばかなりの自信過剰を植え付けていた。
休憩中、私はついに、ずっと聞きたかったことを口にした。
「先生、私って結構強いですよね? もう王国騎士団の一番下っ端くらいなら、勝てるんじゃないですか?」
きっと先生は「ええ、お嬢様の才能は素晴らしいです」と褒めてくれるはずだ。私は期待に満ちた目で先生を見つめた。
しかし、先生は微笑むことなく、真剣な眼差しを私に向けた。
「ではお嬢様は、ご自身が王国騎士団の中で、どのくらいの強さだと思いますか?」
「え? そうですね…」
予想外の質問だったけど、私は自信満々に答えた。
(下っ端には勝てるだろうから…下の中? いや、今の私なら、中の下くらいはいけるはず!)
「中の下、くらいでしょうか!」
「……そうですか」
先生は深いため息をつくと、静かに、しかしはっきりと、冷徹な現実を私に告げた。
「申し訳ありませんが、お嬢様に負ける王国騎士は、ただの一人もいません」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
聞き間違い? 冗談?
しかし、先生の目はどこまでも真剣だった。
「お嬢様の才能と、この一年での成長が素晴らしいものであることは、私も認めます。ですが、王国騎士団は、この国中から選りすぐられた最強の集団です。何年も生死の境を潜り抜けてきた者たちの経験、鍛え上げられた体力、そして、私がまだ教えてさえいない高度な技術の前では、今のお嬢様の力は、残念ながら『お稽古事』の域を出ません」
お稽古事。
その言葉が、私の頭の中で何度もこだまする。
最強。エリート。経験。私の知らない言葉たちが、分厚い壁となって私の前に立ちはだかる。
(はは まさか はは アイムストロング アイアムチャンピオン ははは)
ガシャン、と軽い音がして、私が木剣を取り落としたことに気づいた。
先生の言葉が、私の心を、私の「自分は特別だ」というアイデンティティを、粉々に打ち砕いた。
視界が涙で滲み、悔しさと絶望で胸が張り裂けそうだった。
「うわあああああん! こんな世界は認めないぞ!」
私は子供のように叫び、そのまま先生に背を向けて、屋敷へと駆け出した。
自室に駆け込むと、私はベッドに飛び込み、布団を頭までかぶった。
(もういい! 私はヒキニートになる! この部屋が私の世界のすべてよ!)
シクシクと泣いていると、しばらくして、部屋の扉が静かにノックされた。
「お嬢様、入りますよ」
先生の声だ。私は布団の中でさらに固くなった。
先生はベッドの脇まで来ると、布団の上から優しく私の背中を撫でた。
「先ほどは、厳しいことを言い過ぎました。申し訳ありません」
「……」
「ですが、お嬢様は特別です。この歳で基礎をほぼ完璧に身に着けているのは、紛れもなく天才のそれです。ただ…比べる相手が間違っているだけですよ」
その優しい声に、私の嗚咽が少しだけ収まる。
先生は、噂話でもするように、ふと声のトーンを変えた。
「そういえば、お嬢様とちょうど同じ年頃で、『神童』と呼ばれている方々がいるそうですよ」
布団の中で、私の耳がぴくりと動いた。
先生は続ける。
「一人は、文武両道に優れ、魔法も使いこなすという王太子殿下。そしてもう一人は、その婚約者であり、同じく天才と名高いアロ侯爵家のご令嬢だとか」
(同い年の…神童…?)
私の心に、絶望とは違う、チクリとした感情が芽生える。
(どうせ周りがおだててるだけで、大したことないんじゃないの? 私の方がすごいに決まってる…)
嫉妬。対抗心。そして、何よりも強い好奇心。
私はゆっくりと、布団の隙間から顔を出した。
涙はすっかり乾いていた。私の瞳はもう、絶望には染まっていなかった。
「王太子に侯爵令嬢…」
その瞳は、まだ見ぬ二人のライバルへと、真っ直ぐに向けられていた。
「…なんだか、気になるな」
師の旅立ちと誓い
あの日、私の万能感が木っ端微塵に砕け散ってから、数ヶ月が過ぎた。
今の私は、新たな目標――王太子と侯爵令嬢という、まだ見ぬ同年代の「神童」たちを追い抜くこと――を胸に、以前にも増して真剣に訓練に打ち込んでいた。
シム先生との関係も、最初の頃の緊張感はすっかり消え、今では年の離れた姉妹のように、気心が知れたものになっていた。訓練の合間に他愛のない冗談を言い合っては、先生に「集中してください」と呆れられるのが、私たちの日常だった。
その日も、いつも通りの厳しい訓練が終わった。二人で木剣や訓練道具の後片付けをしていると、ふと、先生の横顔がどこか遠くを見ていることに気づいた。その表情には、普段の厳しさとは違う、寂しげな影が落ちている。
「先生、どうしたんですか? なんだか変ですよ」
私の問いかけに、先生は一瞬ためらった後、静かに、しかしはっきりと告げた。
「……所属部隊に、移動命令が出ました。来月から一年間、東のダイテ要塞に駐留することになります」
「え……?」
突然の報せに、私の頭は真っ白になった。
ダイテ要塞? 東の? 一年間?
その言葉が、私の頭の中で意味をなさずにぐるぐると回る。
「……嘘、ですよね? 私を見捨てるんですか?」
「見捨てるわけではありません。命令です。一介の騎士に、拒否権はありません」
パニックになった私は、もう子供のように駄々をこねるしかなかった。
「いやだ! 行かないでください! 私のためにお金でも女でも用意しますから! なんなら先生、私のために騎士団を辞めてください!」
私は渾身の演技で、わっと泣き真似をしてみせた。地面に転がってジタバタすれば、さすがの先生も困り果てて命令を撤回してくれるかもしれない。
しかし、先生は私の茶番に微動だにせず、深いため息をついた。
「お嬢様。その泣き真似で私が騙されるとでも? この一年、私がどなたの指導をしてきたとお思いですか?」
くそっ、あっさり見破られた。
先生は優しく、しかし毅然とした態度で私を諭す。
「もう基礎は全て教えました。お嬢様はもう、私がいなくても大丈夫です」
違う。大丈夫なわけがない。
先生がいなければ、私は……。
今度はもう、演技じゃない。本物の涙が、私の瞳からぽろぽろと零れ落ちた。
私の本気の涙を見て、先生は何かを決心したように、ぽつりと自分の過去を語り始めた。
「……私が騎士になったのは、お嬢様が思うような、高尚な志があったからではありません」
先生は、自分が中流貴族の三女であり、家を出て自立するために、騎士団が数少ない選択肢の一つだったことを教えてくれた。
そして、騎士団で出会い、未来を誓い合った婚約者がいたことも。
しかし、その彼もまた騎士であり、数年前の任務中に、帰らぬ人となったことも。
「彼の最後の言葉が、今でも私をここに縛り付けているのかもしれません」
先生は、彼が死ぬ間際に遺した言葉を、静かに私に教えてくれた。
それは、たった一言。
「――お前は、戦いつづけろ」
「彼の真意は分かりません。目の前の敵と戦え、という意味だったのかもしれない。でも、私にはこの言葉を守ることしかできなかった」
「今でも時々、分からなくなるのです。私が彼を、本当に愛していたのかどうか」
「ただ、彼の最後の言葉を守り続けることが、私が彼を愛していたという、唯一の証のような気がするのです」
いつもは完璧で、鉄のように強くて、かっこいい先生。
その彼女が初めて見せた、弱さと、癒えない悲しみの傷跡。
私は言葉を失い、ただ、彼女の告白に耳を傾けていた。
話を聞き終えた私は、ごしごしと涙を拭うと、真っ直ぐに師の目を見て言った。
「先生は、彼を愛してましたよ。絶対に」
何の根拠もない、子供の戯言だ。
でも、その裏表のない私の言葉に、先生の強張っていた表情が、ふっと和らいだ。
その口元に浮かんだのは、寂しげだけれど、とても美しい微笑みだった。
その瞬間、私の中で、「騎士になる」という夢の意味が、完全に変わった。
物語の主人公になりたいからじゃない。ライバルに勝ちたいからでもない。
この、強く、優しく、そして悲しい師の背中を追いかけたい。いつか、彼女と同じ場所に立ちたい。
ただ、それだけだった。
別れの日までの最後の一週間、私は無我夢中で木剣を振るった。
そして、先生が屋敷を旅立つ日。
見送る私の瞳に、もう涙はなかった。
ただ、燃えるような決意の光だけが、その奥に宿っていた。
(待っていてください、先生)
(必ず、先生と同じ場所に立ってみせますから)
遠ざかっていく馬車の姿が見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くし、固く、固く拳を握りしめていた。
お読みいただきありがとうございました。
リーンにとって、唯一無二の師であり、憧れであったシム・グーン。
その彼女の、あまりにも切ない過去と、突然の別れ。
物語の序盤ではありますが、一つのクライマックスでした。
シムが背負うものは、リーンの想像を遥かに超えて重いものだったかもしれません。
しかし、その生き様は、リーンの心に「騎士になる」という、決して揺らぐことのない誓いを刻み付けました。
師を失い、一人残されたリーン。
彼女はこれから、どこへ向かうのか。
そして、彼女の心の新たな目標となった、まだ見ぬ「神童」たちとの出会いはあるのか。
ここから、リーンの本当の物語が始まります。
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それでは、また次回の更新でお会いしましょう。




