誤算
その魔物が現れた瞬間──
さっきまでの弛緩した空気が、一斉に凍りついた。
その場にいた全員の肌が粟立つ。
あまりにも異質で、あまりにも規格外な存在の登場。
先ほどまで交戦していた魔物などとは、次元そのものが違う。
一ランク……いや、少なくとも二ランクは上の存在。
誰もが、それをなぜか“確信”していた。
彼らの目の前に立つその魔物──
それは、“アリ”を思わせる姿。
直立した二足の足。
顔の造形は、完全に”アリ”のそれ。
胴体からは四本の腕が伸び、
その黒く分厚い骨格は、まるで漆黒のスーツでも着込んでいるかのよう。
四本の腕を組み、堂々と立ち尽くすその姿は──
むしろ人間のような風格すら漂わせていた。
魔物の名は《ノクシア》。
特A級魔物。
この世界の住民にとって、極めて危険な存在。
勿論、理論上は、“倒すことが可能な存在”でもある。
しかし、この場にいる者たちでは、
仮に全員でかかろうとも、まるで歯が立たない。
その実力差は、考えるのも馬鹿らしいほど歴然としていた。
それを冒険者たちも肌で感じ取っているのか、誰も動くことが出来ない。
恐怖が、あらゆる判断を奪っていく。
そして──その沈黙の中で、
ついに一人が耐え切れず、叫び声とともに逃げ出そうと走りだした。
その瞬間。
男の首から上が、音もなく、消えた。
主人を失った胴体は、しばらくの間そのまま走り続け──
そして、ずるりと崩れ落ちる。
地面には、広がる血の海。
先程まで、全員の目の前にいた、《ノクシア》の腕には、
いつの間にか、逃げ出した男の“頭部”が握られていた。
崩れ行く男の身体を見て、声をあげる。
キイキイと音を立てて。
まるで、それを“楽しんでいる”かのように。
そこから先は、まさに地獄絵図だった。
悲鳴。逃走。絶望。
逃げようとする者を、一人、また一人──
その首を、容赦なくもぎ取っていく。
まるで、「逃げる者から殺す」とでも言わんばかりの選別。
血は砂漠の土を黒く染め上げていく。
その場は、まさしく阿鼻叫喚。恐慌そのもの。
《ノクシア》は、甲高く笑うような音を響かせながら──
その光景に悦びすら見せていた。
そして、俺──アストは、呆然とその姿を見ていた。
「……なんだこれは……俺は、こんなの、設定してない……」
目の前の光景に、思考に追いつかない。
混乱。否定。焦燥。
俺がこの魔物に与えたはずの設定は──違う。
《ノクシア》
その存在は、強大な力を持ちつつも、騎士道精神を重んじる“誇り高き戦士”だった。
逃げる者は追わない。
挑んでくる者とだけ戦い、無意味に殺さず。
魔物でありながら、強者との戦いをこそ楽しむ、孤高の戦士。
だからこそ、俺は──
ティアナたちが戦っていた魔物よりも、この魔物の方が安全だと考えた。
戦いになっても、《ノクシア》ならば、無暗に命を奪うことはない──
仮に戦わずに、全員逃げれば、誰もケガすることなく逃げられる。
そんな保証すら、あったはずだった。
だが。
そう信じていたはずの設定が、目の前であっさりと裏切っていく。
俺はようやく我に返り、慌てて、目の前の魔物のステータス情報を確認する。
そして──見つけた。
魔物のステータスの後半に、見覚えのない一文が追加されている。
> 非常に残忍な性格。
> 逃げるものから積極的に殺し、さらに恐怖を与える事を好む。
……俺は、そんな性格の項目を入れた覚えはない。
その時──
あの“創造主”の姿が、脳裏にちらつく。
「普通ばかりでは、楽しくないだろう?」
まるで、そんな声が聞こえた気がした。
現状を見渡すと、今、生き残っているパーティーは、もはやたった一組だけ。
ティアナたちだ。
彼女らは、途中で“逃げる者が狙われている”という事実に気づき、
あえて動かずにいたのだ。
その選択が、結果として彼らを救った。
……今のところは、だが。