大先生
不治の病というわけでなく、安静と清潔を心掛けていれば自宅療養でも数日で完治すると先生は言ってくださった。
原田はもとより神経質で、胸のあたりにむず痒さを覚えた頃からこれは一生ものの病と決め、頑冥に強い覚悟を固めていた。ところが病院で診察を受けたら案外軽めの病状のようで、医師曰く「誰にでもよくある」病気とのこと。数日で治るのは結構だが、よくある病気などという診断は原田にとって衝撃だった。
二日を寝て過ごし、三日目の朝に受けた電話で編集者の君塚が見舞いに来ると言ったから、原田は床を出て、文机へ向かい原稿用紙に書きものを始めた。蛇が這ったような、ちょうど他人が読めない字をさらさらと書き下し、昼前に君塚が来ても、じっと動かず背中越しに彼を迎えた。
「先生、具合のほどはどうでしょう」君塚が神妙らしく問うてみると、原田はこともなげに「や、めっぽう悪いね。重い病気だそうだ」
「お仕事は控えたほうがよいのでは」と君塚が気を利かせれば、「これが遺作となるなら本望だな」
作家先生が目も合わせず机に齧りつくその様子に、慣れっこの君塚は勝手知ったる台所で湯を沸かし、そっと茶を差しだしたら「無理はなさらぬように」と言い置き、立ち去った。
彼は帰社の途中で偶然出会った同僚に、「大先生は重篤だ」と、嘆息まじりにありのままを打ち明けた。