この子は誰の子?
「ねぇねぇ、アビゲイル。私ね、赤ちゃんが産まれるの」
そう言いながらお腹をさすったクリスティアーナ様は、妊婦の誰もが見せる、慈愛に満ちた幸せそうな顔をしていた。
窓から穏やかな風が入り、その美しいハニーブロンドの髪が絹のようにサラサラとそよぐと、クリスティアーナ様は聖母様のように美しかった。
が、
「え? クリスティアーナ様はまだ婚約中ですよ?」
「ええ、もちろん王太子殿下の子よ」
「いえ、そういう問題ではなく……えぇー……」
クリスティアーナ様はなんの迷いも憂いもなく、ただただ穏やかに微笑んでいる。
これは……侍女である私の失態となるのだろうか……。
私の方はといえば、この妊娠報告を素直に喜べるわけもなく、目まいまでしてきた。
近くにあった椅子の背に手を当て、とにかく頭の中を整理することに努める。彷徨う視線に飛び込んで来たのは、鏡に映る私の姿。艶があるわけでもない地味な黒髪をまとめ髪にし、クリスティアーナ様とは対照的なつり目でキツイ容姿をしている。服装もガヴァネスのように暗いトーンの華美でないものを着ており、今は表情までも合わせたかのように暗い。暗すぎて鏡の自分を疎ましく感じた。
視線をクリスティアーナ様に戻すと、彼女の柔らかそうな白い両手は、大切に包み込むように腹部に当てられている。手の当たった部分だけドレスが身体のラインを拾い、少しお腹が出ているのがようやくわかった。
「ちなみに出産予定日は……?」
「来月」
「来月!?」
椅子の背からガタンッと添えていた手が滑り落ちた。
「うふふ、私、あまりお腹が出ないタイプなのね」
ちょっと待ってくれ、王太子殿下!!
来月出産予定って……アンタ一体いつ仕込んだよ?
クリスティアーナ様とのご婚約が決まったのはつい半年前でしょ……。
まったく計算が合わないじゃないかっ!!
他の男か? いやいやいや、クリスティアーナ様はここレスター公国の公女で、幼い頃から大国ロスベリー王国のヘイデン王太子殿下の妃になるべく育てられた。それも嫌々ではなく、初めて顔を合わせた幼い日に互いに一目惚れし、政略結婚では幸運なくらい両想いだった。
王太子殿下とは十三歳までは頻繁に会えていたけど、いよいよ婚約かとなった頃にお国の事情で一旦話が凍結し、その後五年もの間会うことが叶わなかった。
でもその間も、クリスティアーナ様は王太子殿下だけを想い、恋しがり、毎晩枕元に姿絵を忍ばせていた。殿下だって、五年もの間、一度も途切れず頻繁にラブレターを送り続けてくれていたじゃない。
クリスティアーナ様には昼間は常に私が付いていたし、夜這いが出来るほどこの城は脆い警備ではない。他の男が相手というのは絶対にあり得ない!
私は意識を集中し、もう一度記憶を呼び覚ます。
あぁっっ!!
そうか!!
昨年、やっとの思いで再会を果たしたあの日に、あまりにも互いの気持ちが膨れ上がりすぎて、感情を爆発させたのか!!
見ているこちらが恥ずかしくなるくらいのじゃれ合いで、しばらく二人きりにさせてあげたことが何度もあった……。
再会してからとんとん拍子で婚約までいき、ヘイデン王太子殿下の強い意向で、結婚までの細々した儀式も最短日程で決められたが、二人が夫婦になる日まではまだあと三か月も先である。
「クリスティアーナ様、この事は他に誰がご存知ですか?」
「王太子殿下と、宮廷医である殿下の主治医だけよ。殿下に会いに行った際、その医師が診てくれていたの」
「なんでもっと……もっと早く教えてくれなかったんですか……」
「ごめんなさいね。お腹が目立たなくて私も最近までまったく気づかなかったの。なんかお腹が痙攣するなあと思って殿下に相談したら、赤ちゃんの胎動だったわ。
それでね、この事がお父様とお母様に知られたら、きっと戦争を起こしかねないと思うの。もともと一旦こじれた国同士でしょ? だからね、私達が結婚して十か月くらい経つまでアビゲイルの子供として育てて欲しいの」
「え? は?」
私は二度聞き返してしまった……。
クリスティアーナ様は優雅な足取りで私に近づき、そっとその白い両手で私の手を掴む。
「もちろん、アビゲイルのその後は、ロスベリー王国で私の侍女となることを保障するし、殿下が即位されたのちは王室女官長として厚待遇するわ」
「いえ待遇うんぬんではなく、急にそんなことを言われましても、さすがに未婚の母は……」
「あら! でも、アビゲイルは結婚しないんでしょ? そこの体裁は不要じゃなくて?」
「ま……まあ……そうです……かねえ」
私は今年二十五歳で、貴族としてはとっくに結婚適齢期を過ぎており、中流階級や農民だとしてもこの年齢から相手を探すのは遅い。
出身は伯爵家でも、爵位や財産を受け継ぐ兄が三人と弟が一人、先に嫁いだ姉が三人おり、私まで持参金は残らなかった。それでも社交界デビューしたてのぴちぴちの若い頃ならば、持参金なんてなくてもいいと言う人もいたのだが、いつの間にやら彼らはどこに行ったやら……記憶が遠過ぎて顔すら思い出せない。
それに、こうして侍女として働くのもそこまで嫌じゃない。むしろ、やりがいすら感じていて、今はこの人生を楽しんでいる。
結婚相手を探す予定がなく、将来の生活の保障がされているのなら、確かに未婚の母と言われて困る事はなさそうだ。悔いが残るとすれば、一度くらい素敵な男性とキスをしてみたかった。ま、それくらいなら、まだチャンスはあるかもしれないか。
「わかりました。とにかくもう産まれてしまいますから、私の子として育てましょう。
それで、その後はどうなさるおつもりですか?」
「もちろん、結婚後出産してもおかしくない頃にこの子を返して貰って、殿下と私の子供として公表します。アビゲイルには申し訳ないけど、子供は病気で亡くなったことにしてもらうのが一番元の生活に戻れるかと思ってる。手続き関係はこちらでするから心配しないで」
「でもその頃にはお二人のお子様は一歳じゃないですか。いくらなんでも、そんな大きな子を、産まれた子供として公表するのはおかしくないですか?」
「大丈夫よ。赤ちゃんの一歳二歳の誤差なんてわからないわ」
「そぉー……です、かねぇ……」
私は首を傾げながら、肯定とも否定とも取れない返事を返す。
きっと、これ以上話しても答えは変わらないのだろうし。
とにかく、極秘出産を決行するため、私はドレスの下に詰め物をして妊婦を装い、クリスティアーナ様は持っているエンパイアドレスの中で一番ゆったりとしたものに身を包み、二人で公爵夫妻がお茶をしている温室まで赴く。
燦々と太陽の光が差し込む美しい温室で、ふふふ、あはは、っといった楽しげな声と共に、公爵夫妻のお茶の時間は穏やかに流れていた。
クリスティアーナ様が二人の前まで歩み出ると、ちょこんとカーテシーをしてから話し始めた。
「お父様、お母様、アビゲイルに赤ちゃんが生まれるので、私が彼女の出産を支えたく、この城でアビゲイルの出産を行うご許可を願います」
公爵夫妻の動きが止まり、私に向ける視線と急に訪れた静寂の時間が居心地最悪だった。
だけど、口を開いた公爵閣下はとびきりの笑顔を見せてくれた。
「おめでとう! アビゲイル!! もちろん私達も支えよう!!」
公爵夫人も両手を合わせて喜んでいる。予想外の反応で、二人の顔を交互に見てしまった。
「それで、アビゲイルのお相手はだぁれ?」
だがこの質問に私は言い淀む。相手などいないのだから。
私の反応を見た公爵夫人は、一般的にそう思うであろう通りに察してくださり、強い同情をみせ始め、悲痛な表情に変わる。
「それ以上は何も言わなくていいわっ! クリスティアーナ、アビゲイルが誹謗中傷を浴びずに心穏やかに出産が出来るよう、極秘で進めなさい。その為にはこの城ではなく、そうね……ああ、離宮を使うといいわ。口の堅い使用人を私が選別して送りますから、クリスティアーナはアビゲイルと一緒に離宮に行き、彼女を支えてあげるのよ」
なんと、公爵夫人の正しい勘違いにより、想定以上に良い環境で極秘出産が出来る事になった。
「このような恥ずべきこと、父と母にも言えません……」
私はうっすら涙を浮かべ、恥じた顔で公爵夫人に暗に伝えた。父と母に知れたらそれこそ事態が悪化する。
「大丈夫よ、アビゲイル。私は口が硬いの。私達とクリスティアーナに任せなさい」
その日のうちに私とクリスティアーナ様は、わずかな使用人とともに離宮に移った。
二週間くらいした頃には、王太子殿下が寄越した主治医と産婆と乳母も加わった。
私の極秘出産のため、この離宮には必要最低限の使用人しかおらず、クリスティアーナ様と私の部屋がある二階は誰も立ち入れないようにしていた。例外は、王太子殿下の息の掛かった主治医と産婆と乳母だけだ。
クリスティアーナ様は、未婚の妊婦である侍女の面倒をみる心優しい公女様として、離宮の使用人達の間では評判がうなぎ上りだったが、実際には二階では私が一人で、お腹の大きくなるクリスティアーナ様のお世話をしていた。たまに、事情を知る主治医と産婆にも手伝ってもらう事もあったが。
王太子殿下といえば、もともと頻繁だった手紙を、この離宮に移ってからは週に一回は早馬で送ってくる。しかもその早馬役は、ロスベリー王国一の乗馬技術と言われる騎士エリアス・アーヴァイン。
週一ってことは、エリアス様はロスベリー王国とレスター公国を休む間もなく往復してないか?
エリアス様はもう何年もこの王太子殿下とクリスティアーナ様の愛の伝書鳩という大役(?)を担っており、本日も馬を走らせ離宮まで手紙を届けにやって来た。最初に彼を見たのはもう十年近くも前の事。その頃はまだ伝書鳩などやらずに、王太子殿下の護衛騎士に専念されていたはず……。左遷?
耳にかかるくらいの長さのシルバーブロンドの髪に、品の良い端正で凛々しい顔立ち、鎧を着ていてもわかる胸板の厚さで、この姿にときめく女性も多いだろうが、さすがにすでに結婚はしている年齢だろう。
背は高く、いつも私を見下ろしてくるその顔は無表情で無愛想。夫になる男性は、色々な女に愛想を振りまかない男の方が理想的だな、なんて思いながら彼を見上げてみる。
「王太子殿下からの手紙だ」
「離宮に移ってからは頻度が上がり大変ですよね。心よりお礼申し上げます」
私はエリアス様に軽く膝を曲げてお礼を伝える。
「臨月だろ? 無理をして膝を折るな」
どうやらエリアス様は本当のことを知らないようだ。
「お心遣い、感謝いたします」
「いや、いつも感謝しているのは私の方だ」
山のように私の前にそびえ立つエリアス様は、眉間にシワを寄せ、私をジッと見つめたまま動かなくなった。
もともと無愛想な表情も相まって、威圧感を感じさせる。綺麗な顔をしているのにもったいない。
「あの、何か?」
「未婚の母と聞いた」
「ああ」
だからか。こういう堅物そうな騎士様には受け入れられない話だろう。
「私がお腹の子の父を殴ってやろうか?」
主君を殴っちゃいけません。私のお腹の子じゃないし。
「いえ、結構です」
変な沈黙のあと、その静けさを打ち破ってくれるドタバタとした足音が聴こえてきた。二階から慌てた宮廷医が降りて来て、階段の中央辺りで足を止めると、必死に私に向かって手招きで呼ぶ。
「え?」
宮廷医は苛立ちながら、私に向かって乱暴な手招きを続け、はやくはやくっ、といった口パクをしていた。
まさか。
私は臨月を演じていることを忘れて駆け出すと、エリアス様が追いかけてきて腕を掴んで止めた。
「なっ、なにを!?」
「あなたは臨月だろ! 走るのも階段を駆け上るのもダメだ!!」
エリアス様は軽々と私を横向きに抱きかかえ、階段を登って行く。おなかの詰め物がエリアス様の上半身にあたっており、バレるのじゃないかと気が気でない。階段中央で待っている宮廷医もこちらを見て顔が青ざめていた。
「エリアス様、二階は限られたものだけしか上がってはいけない決まりです。ここで降ろしてください」
「ではせめて、安全な二階の廊下で」
階段を上りきるとやっとエリアス様は降ろしてくれた。彼が心配しないギリギリの速度で宮廷医とともに廊下を早歩きする。
うしろをチラッと見れば、あの堅物騎士は階段のところでまだこちらを見ている。
宮廷医は小声で私に話す。
「破水した」
「ええ!」
驚いたのも束の間、クリスティアーナ様の部屋から微かにうめき声が聴こえてきた。私も宮廷医も思わずうしろを確認してしまうと、エリアス様はやはり異変を感じ取っている。
宮廷医は私の服の袖を掴み、かすれた小声で必死の声を上げる。
「うっ、うめき声をしろぉぉ」
「え?」
「ほらっ早く! クリスティアーナ様の声をかき消すように!!」
「あああ、そうか。えっと、う゛、う゛ぁ〜ーー……」
私のうめき声と同時くらいにうしろから鋭く風を切る駆け足の音が聴こえてきて、すぐに宮廷医が振り返って手をまっすぐに伸ばした。
「ストップ、エリアス様ッ!! お産が始まるので、近づかないでください!!」
「なにっ!? お産が!!」
ドアの向こうから聴こえるクリスティアーナ様のうめき声をかき消すように、私は声を張ってうめき声をあげ続ける。宮廷医は右腕をエリアス様に伸ばして彼を睨みつけたまま、私の背中をぐいぐい押して足早にクリスティアーナ様の部屋の中に駆け込んだ。
扉の中では産婆が慌てて出産の準備を始めていた。
「アビゲイル様は外にクリスティアーナ様の声が漏れ聞こえないよう、クリスティアーナ様のいきみに合わせて声をあげてください」
「はっ、はいっ! ひっひっふー、ひっひっ、う゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛——」
大変な難産だった……。お産とは……命がけである。
こうして無事に元気な男の子が産まれ、クリスティアーナ様はお身体が回復するまでのひと月ほどこの部屋で赤ちゃんと過ごした後、公爵城へ戻って行った。
私はこの離宮で、しばらくは公爵家の使用人達に手伝ってもらいながら子育てすることになるが、慣れてきたらヘイデン王太子殿下が準備してくださる、ロスベリー王国の静かな場所の一軒家で乳母だけを伴い、お迎えの日まで育てる予定である。
離宮で育てればあまりに長い時間を使用人達の目に触れさせ、いざクリスティアーナ様にお戻しした際、あれは離宮にいた赤ちゃんだと気づく者も出て来るかもしれないからである。
それに、表向きは不遇の侍女を公爵夫妻と公女様のご厚意で面倒を見てくれているとなっているので、いつまでもここでお世話になっていると、それこそ私の世間体が悪い。
クリスティアーナ様が戻られ更にひと月を過ぎた頃、無事に結婚式を挙げ、晴れて夫婦となった王太子夫妻がハネムーンの合間にこの離宮を訪れた。
夫婦の護衛はもちろんあの騎士エリアス様。
二階の部屋には王太子夫婦とエリアス様と私と赤ちゃんだけ。他は人払いをした。
王太子夫妻は赤ちゃんを抱きしめて可愛がる。とりわけヘイデン王太子は初めて会う我が子に目を潤ませ、愛おしそうに触れていた。
その様子を見ていたエリアス様は、子供の父親が誰であるか気づいたようで、みるみるうちに顔色を悪くしていき、ゆっくりと私の方を見た。
ちがう……そうじゃない。
正解だが、不正解でもある。
すると突然部屋の扉がバタンッと開けられた。私達は一斉に開いた扉の方に顔を向けると、そこには公爵夫妻と、なぜか私の両親までも立っていた。
公爵夫人は眉を八の字にして話す。
「アビゲイル、ごめんなさいね。でもやはり女手一つの子育ては難しいと思うの。だからあなたのご両親に本当のことを伝えたのよ。これもあなたのためだから許してね」
父と母を見れば、怒りと悲しみに震えていた。そりゃそうだろう。貴族の娘が、未婚で相手もわからぬ子供を内緒で産んでたのだから。
「アビゲイル、どういうことなの? その子供の父親は誰なの!?」
その問いにエリアス様が咄嗟に王太子殿下を見てしまう。
そうそう、この堅物騎士様は勘違いをしていた。
いや、正解ではあるんだが。
「ままままま……まさか……」
今度は公爵夫妻がわなわなと怒りに震え始める。
大変だ。戦争が起こってしまう。
私は咄嗟にエリアス様の腕を掴んで引き寄せた。
「この人です。父親は」
この場にいる全員が驚いたのは言うまでもないが、エリアス様の驚きは予想を斜め上にいった。
エリアス様は白い手袋をはめた手で口元を押さえ、ふるふると震えながら声を絞り出す。
「そうだったのか……」
なぜ……納得した……。
とにかく、エリアス様はこのまま父親のフリをしてくれそうなので、話を進めよう。
「クリスティアーナ様宛のヘイデン王太子殿下のお手紙をいつも届けてくださるエリアス様のお姿に、恥ずかしながら年甲斐もなく夢中になってしまい、もう結婚は望めぬ年でしたので、せめて憧れた男性と一晩の思い出だけでも欲しいと私から懇願したのです。お優しいエリアス様は、私の無理を聞いてくださっただけで、子供が出来たことも伝えていませんでした」
私は父と母、そして公爵ご夫妻向けの演説をしていたのだが、なぜかエリアス様に響いたようで、気持ちを昂らせた彼に肩をがっしりと掴まれた。
「なぜ言ってくれなかったんだ」
おいおいどうした騎士様よ。
エリアス様は私から両手を離すと、扉の方へと向かって行き、突然私の両親の前で片膝をついた。その表情は、硬く険しい。嫌な予感しかしない。
「私は、一晩だけの思い出なんかで簡単に女性を抱きません」
ああ……そうでしょうとも、堅物騎士様は。でも今は話を合わせて欲しかった……。
「レディ・アビゲイルを愛しているのですっ!! 結婚をお許しください!!」
嗚呼……もう……ぐちゃぐちゃ。
私は重たい頭を必死に押さえ、エリアス様のもとまで近寄る。
「待って、ねえ、奥様がいるでしょう?」
「いるわけないだろ。私はあなただけを見ていたんだから」
「……はい?」
さっきまでのピリついた部屋の空気が一変し、まわりから何かを期待する浮ついた空気が流れ出す。
王太子殿下は子供をあやしたまま、意気揚々と声を上げた。
「そうだったのかエリアス! この子は君の子だったんだね!」
お前の子だよバカ王子!!
クリスティアーナ様も両手を叩いて喜んだ。
「まあ! 良かったじゃない! 子供の父親と結ばれるなら何も問題ないわ」
問題だらけだろっ!!!
私はエリアス様の腕を引っ張り、部屋の隅に連れて行った。そしてやじ馬たちに聞こえないよう耳元で小さな声で話す。
「これは演技ですよね?」
エリアス様は聞き捨てならぬとばかりに俊敏に顔を私に向けた。
「本気だ。本気で君が好きだ。大好きだ。好きで好きでたまらない」
エリアス様は私の両手を掴んで、真剣な眼差しで見つめて来る。そしてやたらとデカい声で告白を始めた。
「勇気がなかった私を許して欲しい。あなたを目の前にするだけで緊張して上手く会話が出来なかった。でもまさかあなたも……アビゲイルも同じ気持ちだったなんて……もっと……もっと早く求婚すべきだった。レディ・アビゲイルっ!! 私の生涯の伴侶になって欲しい!! 二人で子供を大切に育てよう!!」
ギャラリーからはワッと声が上がり、祝福の拍手が響いた。
王太子殿下が誇らしげに私の両親に話し出す。
「あの騎士は我が国で一番の乗馬技術を持ち、剣の腕前も国内一、二を争う。
男爵家の三男だが、彼の腕前があればじきに自身の力で爵位と領地を得るだろう。逆に、男爵家の三男だから、持参金はそこまで要求されないだろうし、彼自身が裕福だし、あの通りアビゲイル嬢にべた惚れだから、持参金は不要と言うんじゃないだろうか?
人柄は私が保証するし、容姿もあの通りだ。どうだ、かなりの好条件だと思うが、レディ・アビゲイルとの結婚を許してもらえないだろうか?」
父と母は首をぶんぶん縦に振って、私に強く言った。
「アビゲイル、結婚しなさい」
諦めていた結婚が、こんな形で急に降って来て戸惑いが隠せない。したくないわけでもないが、長い事拗らせていたので、そう簡単に承諾していいのかもわからない。
王太子殿下は今度は私達の方に歩み寄って来て、私に教えてくれた。
「彼の様な有能な人物を文通の伝書鳩に酷使するのはイヤだったんだが、どうしても自分がクリスティアーナに手紙を届けたいと言って聞かなかったんだよ。交代制も提案したが、エリアスは堅物で頑固だから、全部自分で行くって。騎士団の仕事もおろそかにしないって言うから、弱音を吐くまでやらせようと思ったら、結局五年も続けたんだ。その間に騎士団長にまで昇格してるんだぞ? すごい執念だろ。今思えば、何かの原動力があったんだろうな」
王太子殿下は最後のセリフをにやにやと意味ありげに言いながら私を見た。
そんな言い方と表情をされたら、何が言いたいかなんてわかるに決まってる。
私は赤くなった顔でもう一度エリアス様を見た。彼の顔も耳まで真っ赤に染まっている。そんな顔されたら、急に意識しちゃうじゃない。
「……交代制にしたら、交代した者にあなたが取られないか心配だったんだ……」
どうやらもうまともに私と目を合わせられないようで、顔を背けて喋る姿が可愛らしかった。
クリスティアーナ様が何かを思い出したようで、急に「あっ」と声を上げる。
「ああ、そうだわ。むか~し、社交界でアビゲイルに声を掛けた殿方が、その後何かに怯えてアビゲイルを見る事もできなくなったって。アビゲイルは持参金が期待出来なくても人気だったのに、その噂が一気に広まって、皆アビゲイルに声を掛けられなくなったのよね。社交界の噂は早いから」
私は開いた口が塞がらなかった。
お前か!! お前が原因で私はこの年まで未婚だったのか!!
私はエリアス様を睨み、頬を両手でバチンッと叩き挟む。
「もっと……もっと早く……求婚しなさいよっ!!」
そしてそのまま彼の唇に勢いよくキスをした。
キスの仕方がわからなくて勢いに任せたが、どうやら彼も初めてのキスだったようで、その刺激に耐えられず気を失ってしまった。
わかる。わかるよ、その気持ち。
凄まじい電流が流れたもんね。
*
一年が過ぎた頃、私はロスベリー王国で暮らしていた。ヘイデン王太子殿下の用意してくださった、静かな場所にある屋敷だ。
腕の中にはとても小さな赤ちゃんがおり、私はあの日のクリスティアーナ様のような慈愛に満ちた笑顔をこの子に向けていた。そっと私の肩を抱き寄せるのは、私を深く愛する旦那様。私達の初めての息子を嬉しそうにあやしている。
部屋の洗濯物を取りに来た屋敷の新しい使用人が、私の抱く赤ちゃんを見て、心配して声を掛けてくれた。
「生まれて一年も経つのに、まだ寝がえりすらうてないなんて……一度お医者様に診て頂いた方がよろしいのでは?」
「いいのよ。子供にはそれぞれのペースがあるんだから。この子はエリアスに似て、時間をかけて駒を進めるのよ」
使用人はうんうん頷きながら、納得したように答える。
「確かにそうですね。慎重な旦那様にそっくりです。ヘイデン王太子殿下とクリスティアーナ王太子妃の王子様が、最近お生まれになりましたでしょ? あちらはあちらで生まれて間もなく歩いたと聞いて腰が抜けそうになりましたが、やはり神に選ばれし王家の血筋は特別なのでしょうかねぇ。
でもまあ、奥様の赤ちゃんを取り上げた主治医と産婆も、何と言っても王太子殿下ご一家お抱えの同じ先生方ですから、心配ありませんね」
まだこの屋敷に来て日が浅い使用人は、そう言い終わると、またせわしく廊下に戻って行った。
私は私の子供を抱きながら、静かに笑った。
クリスティアーナ様の言う通りだ。一歳二歳の成長の差なんて、結局みんなわからない。
のちに、大国ロスベリー王国のヘイデン一世とクリスティアーナの第一子であるヘイデン二世は、生まれてすぐに歩いたという伝説が歴史の教科書に記され、後世まで語り継がれた。
END