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「まずその運命とやらがな。この世界があらかじめ仕組まれた物語の通りに動いている、ねえ。ハ。陰謀に首まで浸りきったじじいならまだしも、この俺がそれを信じると思うのか?」


彼の表情から内心は読み取れなかった。オルタンシアは泣きそうになりながら両足を踏ん張った。


キリアン・マルヴァルは【王の塔】に百年に渡り軟禁されている魔導士だ。百年前の王に呪われ、姿は少年の姿のまま。愛らしい見た目と異なり、その中身は皮肉屋で貴族嫌い、そして有能。百年、へたをすればもっと年を経た男である。


彼は王家との臣従の誓いにより、王の子供たちを守ることを強制させられている。本来ならその守護の対象は王太子エドゥアールであるはずだが、複雑な事情により第二王子アルノーが守られているのが現状である。そう、オルタンシアのように王子に余計なことを吹き込む存在が現れれば調査し、王に報告する義務がキリアンにはある。


「その、隷従契約。私なら解いてさしあげられます」


オルタンシアはキリアンの喉元を指さした。今はシャツの襟に隠れて見えない、鎖骨の間。そこには消えない王家の紋章が刻印されているはずだ。彼にとっては屈辱の証が。


「いいえ、私なら、ではなく正確には私を使って。私の血をあなたのそこに塗り込めば、現在あなたを監視している王宮魔導士たちへの目くらましになる。そしてゆくゆくは百年前の魔導王の呪いすら打ち破ることも、決して不可能ではないのではありませんか?」


「――どうやら、お前のいう小説とやらは確かにあるのかもしれんな。それは貴族のガキが知っていい情報ではない」


打って変わって冷徹な声だった。あ、と思ったときにはすでにオルタンシアは喉を掴まれていた。自分のそれとほとんど大きさも柔らかさも変わらないキリアンの手が、はっしと喉を包む。力はぜんぜん入っていない。けれど急所を掴まれた動物的な反応が、背中に冷たい汗を滴らせる。


「なるほど、正統な貴族の血筋、か。それは劇薬だ、魔導士という生き物にとっては。結界を解けばこの会話も王の犬どもの知るところになるが、血があれば……目くらましになる」


「はい。そうだと知ってるのです、私は。だから申し上げています、キリアン様。あなたをここから解放する手助けをいたします。その代わり、ここを出るときは私も連れて行ってください」


祈りのような声だった。オルタンシアはひたむきにキリアンを見つめた。この道しかないのだと信じ込んでいたし、事実、これ以上にオルタンシアがノアイユ侯爵家を逃げ出す方法はありそうになかった。こんな荒唐無稽な方法しか。


「ふむ。度胸だけは一流だな。だがどうするのだ? 俺がこの旨を包み隠さず王サマに申し上げ、ノアイユ侯爵家は危ないですよと告げ口するとは思わなかったのか」


「そんなの――」


オルタンシアはこんな状況なのにへへっと笑った。笑える自分に驚き、それ以上にキリアンも驚いたらしいのが接触する手が跳ねたのでわかった。


「あなたがするわけない。王家を誰より憎んでいるんだもの」


キリアンの手が放された。どさり、オルタンシアは土の上に膝をつく。そのままぜいぜい肩で息をした。


「貴族の、天使を始祖にもつ者たちの血とて万能ではない」


独白のようなキリアンの声が降ってくる。


「だが俺が喉から手が出るほど欲しい『素材』であることもまた事実。大天使の子孫である王家の呪いに対抗するには、やはり天使の血を引く者の血が一番効力を持つのだから。だが残念。もしやご令嬢、血を差し出せばどうなるか、小説とやらには書いていなかったのか?」


おそらくキリアンはとっておきの情報を切り札のように出すつもりだったのだろう。これを言えばさすがに、箱入りの侯爵令嬢なら怖気づくはずであると踏んで。当たり前のことだ。それがこの世界の常識だ。だがオルタンシアの中にはこの世界ではない世界の人生の記憶がある。四十間近。おばちゃん舐めるんじゃないわよ。


彼女はせいぜい不敬に見えるようにやっと笑って彼を見上げた。


「知ってるわよ。あなたの奴隷になるんでしょ?」


虚を突かれたふうのキリアンに、立ち上がる気力もない汗みずくでも笑いかけ続ける。


「血を介した臣従の契約。あなたにかけられているのと同じ呪いが私とあなたを繋ぐわ。でも私、そんなことなんとも思わない。あの家であんな女たちと食卓を一緒にすること自体が私への侮辱だわ。阿呆に成り下がった父親を見ることもね。――この状況から脱出できるなら、なんだってしてやるわよ。あなたの元で血袋になることだって構いやしない。矜持を傷つけられた女の執念深さを知らないだなんて、百年も生きた男にしてはそれこそ残念ね!」


キリアンは目元を抑えて笑い出した。まずは小さく、それからだんだん大きく。アハハハハ、と子供らしいきゃらきゃらした笑いが結界内部に反響する。


彼はしゃがみこみ、見守るオルタンシアに、そのぎらぎらと輝く森の瞳が近づいてくる。


「いいだろう。賭けに乗ってやる」


地獄の底から響くような低い声。おそらくは彼の地声だ。


「お前は俺に血を差し出し、俺はその代償にお前の生殺与奪に責任を負うというわけだ。交渉成立だ。血を寄越せ、オルタンシア!」


オルタンシアは右手を彼に差し出した。すべての運命を預けるような覚悟が必要だったが、躊躇はなかった。


そのときはまだ、王の法の庇護を受けない貴族の女を匿うのにキリアンがどれほどの負担を強いられるのかなんてことは知らなかった。それは外伝の三巻で明かされた情報なのだが、彼女は三巻が刊行されたころには死んでいたので。


オルタンシアは何も知らないままにキリアンを選び、キリアンは彼女を選択ごと受け入れた。運命が決定的に書き換えられ、二人の知らないところで大陸の歴史さえ変わった。もっとも、彼らがそれを悟るのはもっとずっとあとになってからのことだ。


オルタンシアの右手の手のひらに、キリアンはどこからか取り出した短剣で細く長い傷をつけた。ぷっくり浮かんだ赤い血の上で彼は手をふわふわと動かし、血液はそれに惹かれるように空中に浮かび上がる。ぴりぴりした痛みがオルタンシアにこれが現実だと知らしめた。


「俺はこれを飲む」


「ええ」


「そして俺とお前の魂は結ばれるのだ。どちらかが死ぬまで途切れることのない主従契約に。いいんだな? 覚悟はあると見做しても。逃げるならこれが最後だぞ」


オルタンシアは胸の前で両手を組み合わせた。


「逃げないわ。決して。あの家にいるよりは、これから辿るかもしれない運命よりは、あなたの奴隷の方がいい!」


キリアンの夏の森の色の瞳がぴかぴか輝いた。結界の向こうで子供たちの社交界が繰り広げられ、騎士と衛兵がそれを守り、侍女たちが忙しく立ち働く。何の気配も感じない。オルタンシアにはキリアンしか見えない。


彼は頷き、丸い円となったオルタンシアの血をぱくりと一呑みにした。どくん、と心臓が痛む。オルタンシアは胸元のリボンを握りしめて耐えた。


目に見えない無数の糸がざわざわと彼と彼女の間を結び、皮膚と骨と肉の間、そして魂と精神の間に複雑に絡みつく。編み合わされ複雑なレース飾りになった糸が二度とほどけないように、二人の間に絆が結ばれる。


キリアンの肉体の中に入ったオルタンシアの貴族の血が、天使の末裔の血が、百年前の王の呪いを少しだけ弱めた、感覚がした。たわんだ呪いの隙間にすみやかに臣従の契約が入り込み、オルタンシアへと結ばれる。


「これでひとまず王の目はくらませる」


と彼は言った。らしくなく肩で息をする美貌の少年は、それでも不敵に笑う。


「思ったより天使の血が濃いな。これなら俺が王宮から出られるのももうじきだろう。――感謝するぞ、小娘」


「……これで、契約成立?」


「そうだ。さあ立て。そろそろ茶会も解散だろう。行かなければ怪しまれるぞ」


「む、無理、肺が痛くて、」


ぜえぜえ息をするオルタンシアにキリアンはちっと舌打ちすると、小さく何かを唱えながら彼女の前髪に触れた。黒髪から額へと温かさが流れ込むような気がして、荒い呼吸と痛みが落ち着き、オルタンシアははっと顔を上げる。


「主とは奴隷の体調に責任を持つものだ。……まったく。もう行けるな?」


オルタンシアはがくがく頷いた。


「ならば、行け。呪いは完全に解けたわけではない。また血を受け取りにいく」


キリアンはにやっと獣のように笑う。


「せいぜいそれまで死ぬなよ、小娘!」



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