蜂蜜の乙女と塚の男神、そして大烏の女神
むかし、昔。
真夏の空を映した湖面のような瞳をした乙女がありました。
大きくも小さくもない家で、家族と畑の仕事をしながら日々を過ごしていました。小さな、目が届くかぎりで生きて、死ぬ、そんな昔のこと。乙女もまた、今日に今日を重ねていました。
乙女の暮らす村には、神の塚がありました。
塚の男神は、まれに村に姿を現して、暮らしに役立つことを伝えて下さる善い神でいらっしゃいました。
ある時、いつものように塚を出てきた男神は、朝陽を受けて輝く蜂蜜色の髪の乙女を見かけ、一目で心を奪われてしまったのです。
男神はすぐに乙女に求婚し、自分の塚に住まうように言いましたが、乙女は土に埋もれたその場所で暮らしたいとまったく思いませんでした。
そこで乙女は言いました。
「村の人すべての重さを合わせた黄金があれば、わたしは安心して村を離れることができるでしょう。」
「かなえよう。」
男神は、地中から金の鉱脈を呼び出しました。
「田畑に水を運ぶ手が一人欠けてしまいます。皆が豊かに暮らせるように、あの川の流れがもっと村の側にあると良いのですが。」
「かなえよう。」
男神が手を振ると、川はたちどころに流れる場所を変えました。
「黄金があって肥沃な土地を持てば、悪い者がやってくるかも知れません。」
「かなえよう。」
村は、高い堅固な壁に囲まれました。
「そなたの父を王に、きょうだいを王子にして、村の者たちを屈強な兵士と為して守らせよう。」
そうして、乙女は翌朝、神の塚に入ることになりました。
立派なお城で、立派な服を着た家族が、見たこともない御馳走を並べて、乙女を祝ってくれました。
けれど、その真夜中、乙女は一人涙にくれていました。そこへ、塚の男神の妻であった女神が大烏に乗ってやってきました。
塚の男神より位の高い大烏の女神は、若く美しい乙女の様子に機嫌を損じた顔をしましたが、その頬を静かに濡らしている涙により心を動かされたようでした。
「乙女よ、そなたは我が夫であった塚の男神を慕っておるのか?」
「大烏の女神様、塚の御方があなたさまの夫であるとはつゆとも知らず、お許しください。」
「よい。我らが夫婦であったのは、大神さまに従い、この界に降りる以前のこと。新しき伴侶を得るというから、昔の友として祝福を授けようとまかり越したにすぎぬ。しかし、そなたのその気落ちした様子はどうしたことであろうか。我にもいささか覚えのある、婚姻前の憂鬱にしてはすぎておるように感じるぞ。」
「畏れ多いことでございます。」
「言うが良い、乙女よ。」
大烏の女神に命じられ、乙女は恐る恐る言いました。
「大変大きな御力を有つ御方にございます。財も、村の実りも、家族の地位も、わたしの願いを聞き届けてくださいました。なぜ、否やが申せましょう。」
女神は鼻を鳴らしました。それはとても人間らしい表情でありました。
「借金の形のようではないか。我は気に入らぬ。」
乙女の背後で喧騒が立ち上がりました。大烏の女神の来訪に気づいて、塚の男神らが駆けつけてきたのです。女神と男神は、乙女たちには分からぬ神の言葉で会話を交わしました。男神は分の悪そうな表情で目を反らしたのに、女神はにやりと笑うと、どこからともなく現した大杖を掲げました。
「我が夫に言い寄った人の子よ。そなたは許し難し。いずこへなりとゆくがいい。」
嫉妬を溢れさせた物言いで、女神はその魔法の杖で乙女の体を打ちました。すると乙女の体はその場でするすると溶けてしまい、水たまりになってしましました。
慌てた男神が、同じように取り出した杖をもって女神に打ちかかりましたが、時は既におそし。さらに、女神と男神の杖が打ち合わさると、炎と熱が起きて、水たまりは瞬く間に蒸発してしまったのです。
女神と男神の諍いに、当人たちも含めて取り囲む誰もが目を奪われて、蒸発していく水たまりが最期に芋虫に変わり、そして蜜色のちょうになったのを見ていませんでした。
ちょうは神々の杖と杖が打ち合わされて起きる風に吹き飛ばされるように、高く高く空へと上がっていき、すぐに見えなくなりました。
ちょうは、思うままに飛んでいきました。
なんて世界は広いのでしょう。
なんて空は高いのでしょう。
見たこともない、多彩で鮮やかな花。雲を纏う山脈と、朝もやに光る森。
海には果てがないようで、白い波がさざ波立ち、きらきらと光っています。
嵐で羽がボロボロになっても、落ちて浮かんで、それでもちょうは飛び続けました。
乙女は自由で、ただ幸せでありました。
※
※
「・・初めて聞くお話だわ。」
膝の上の我が子にせがまれて、夫たる男が話し始めた物語に、レースを編みながら耳を傾けていた妻は訝し気に言った。
「そうか?」
子の髪を撫でながら、夫は微笑んだ。
「頭に浮かんだものをただ喋っただけなんだが、」
「まあ、あなたの創作ですの? そんな才もお持ちだったとは。」
妻は感心したように言ったが、夫は今一つ腑に落ちない様子で、
「・・創作ではなく、昔どこかで聞いた話だろう、きっと。」
と、結論付けた。
「ちょう、」
興味津々とばかりに目を上げて、舌足らずに娘が問うてきた。
「ちょうは、どうなったの?」
「さて?」
男は柔らかく微笑み、少し遠くを見ながらまた話し始めた。
「ちょうになった乙女がいたということを誰も覚えていない、昔、むかし。」
※
※
海辺の国の王妃さまは、蜂蜜色のちょうがお腹に入る夢を見ました。そして月が満ちて、真夏の空を映した湖面のような瞳をした王女さまを産み落とされました。
蜂蜜色の髪をした王女さまはすくすくと健やかに、賢く、美しく育ちました。麗しい王女さまの噂を聞いて、周辺の国の王様や王子様は、ぜひ妃に迎えたいとこぞって結婚の申し込みをしました。使者は列をなして、何とか王女さまに自分の妃になってもらおうと贈り物を王女さまに捧げました。
例えば。人が登れないほど高い山にしか住まない白い獣の毛皮で作ったコートを。
例えば。燃える炎を閉じ込めたような宝石で作ったブローチを。
例えば。貝の中から稀に見つかる黒珠で飾った宝石箱を。
王女さまはとてもよく笑う快活な方でしたが、絶えない求婚の使者を前にすると、とても物憂げな表情を浮かべるようになりました。
「王女や、どうしてそんなに暗い顔をするのだね? そなたを妃に望んでいる者達は、だれもが高い身分を持ち、それぞれとても裕福だ。誰を選んだとしても、きっと何不自由のない生活をさせてくれる。」
「わたしは贅沢な暮らしがしたい訳ではないのです。」
王女さまは首を横に振りました。
「わたしはどなたに嫁ぐこともしたくないのです。」
「それはいかん、王女よ。いまは我々が守ってやれるが、我らは必ず先に死ぬ。女に国は継げぬゆえ、次の王は我の弟たちの息子のだれかとなるであろう。そなたの居場所になる夫を迎えてもらわねば、我らは心配でいてもたってもいられぬのだ。」
父の気持ちに涙した王女さまでしたが、それでも、なかなか頷くことはなかったのです。
王はとうとう王女さまに言い渡しました。
「王女よ、次の舞踏会にそなたとの結婚を特に熱心に望んできた五人を招くことにする。そなたはその者たちと踊って、きっと夫を選ばなくてはならない。」
「もしも選ばなかったのなら?」
「誰を選んでも申し分のない方ばかり。そなたが選べぬというのなら、藁のくじを引いて、神の選択を聞くよりない。」
王は断腸の思いで言い渡しました。王女さまは深く俯きました。
「分かりました、お父様。」
やがて王女さまは強い瞳で父王を見返しました。
「わたしは舞踏会で、わたしに相応しい方を見つけましょう。」
王と王妃は肩の力を抜きました。けれど王女さまはさらに言葉を重ねたのです。
「そのために。どうぞわたしの望みを叶えてください。」
王女は、五十人分の同じドレスと、自分と同じ色に染めたかつらを用意させました。そして、自分と同じ化粧をさせて、五十人の王女が舞踏会に現れました。
五人の求婚者が、五十人の王女の中から、本物の王女を選ぶことができたのならば、その人と結婚をする。間違えて選んだのなら、代役を「王女」として本物と等しい待遇で必ず迎え入れるように、と求婚者たちに試練を持ち掛けたのでした。
代役達には貴族の姫もいれば、職人や商人の娘もいました。同じように化粧をしたところで、王女さまと瓜二つになるわけではありません。
王女を見つけることは難しくないと思われました。求婚者たちは我こそはと奮い立って舞踏会に赴き、これはと思う「王女」の手を取って踊りました。
神秘的な湖の国の国王は、真夏の空を映した湖面に似た瞳の色の王女に心惹かれました。
賑やかな港町から来た王子は、商人と渡り合えそうな機知を感じさせる王女に。
いずれ公爵になる騎士団長は、芯の強そうな眼差しの王女に。
砂の国の族長は、俊敏な動きをする王女に。
学問の都から来た若様は、歌うように話す王女に心を癒される思いがしたのです。
王女たちは、王妃の姪と宰相の姫、女教師、騎士の娘、宮廷楽師の娘でありました。
求婚者たちは残念には思いましたが、納得して選んだ「王女」に満足していましたから、約束通りその手を取って仲良く帰っていきました。
さて。残された四十五人の中に、王女さまはおりました。
「わたしがいい、という方はどなたもおりませんでした。皆さま、自分の御心にかなった王女こそ最上として連れ立つことに、お声を上げられる方はいらっしゃいませんでした。」
王女さまはせいせいとした口調でしたが、王と王妃は悲しげでした。
「それでは、そなたの心はどうすれば満たしてやれるのだろうか?」
「わたしの心を満たすことができるのはわたしだけです。」
王女は高らかに言ったのです。
※
※
幼い娘だけでなく、妻も編み物の手を完全に止めて、食い入るように聞いていた。
「それで、王女さまはどうなったの?」
話を止めた夫に、待ちきれないとばかりに妻は続きを促した。
「どうなったと思う?」
「まあ! よもや覚えていないとかおっしゃいますの!?」
「忘れたぁ~!?」
ぺちぺちと娘も先を促すべく腕を叩いてきた。
「結末は複数ある。」
こら、と揺すり上げて笑わせてから、再た膝に戻した。
「一つ。王女は自分の側仕えの騎士を夫に選び、旧令を廃して女王として戴冠し国を豊かに治めた。」
「まあ、身分違いの許されない恋を実らせたのですね。」
自分と重ねたらしい妻が、うっとりと言った。
「二つ。王女の奇計を助けたのは、改心した塚の男神だった。まだ一途に思い続ける男神と王女は今度こそ結ばれた。」
妻は、まあまあ納得した顔だったが、娘はつまらなそうに唇を尖らせた。
「おれのお姫様はどんな結末がいいんだ?」
「ちょうになりたい!」
未来の時間をたっぷりと持つ、幼い娘は迷いなく、そう言った。
※
※
むかし、むかし。
「わたしはわたしのために生きたいと思います。誰かの妃とかそういうものになるためではなく、わたしを生きていきます。」
王女さまは晴れやかに笑いました。王と王妃は悲しそうな顔をしましたが、やがて黙って娘を抱き締めました。
王女さま---いいえ、旅人は最初の一歩をそっと踏み出して、青い空と緑の梢を見上げて、弾む気持ちが抑えられない笑みを浮かべました。
数歩歩いたところに、それは使いやすそうな、木の長い杖が一本突き刺してありました。
その上には白と黒のまだらな羽の烏が一羽とまっていて、旅人を見て一声鳴きました。
「持っていけ、ということ?」
その通りとばかりに、翼をばたつかせます。
旅人が杖を握ると、あつらえた様に手に吸い付いて馴染みました。
一度空に舞い上がった烏が、まるで飾りのように杖の上に再びとまって、人懐こく声を上げました。
「いいよ。」
旅人は歌うように言います。
「おまえが付いてきたいと思うところまで一緒に行こう。」
そうして旅は始まったのです。
心の赴くまま----今度こそ、自分の意思で旅を始めたのです。
蜂蜜色の髪の、真夏の空を映した湖面のような瞳の旅人は、いつか世界の涯てにも着くかも知れないと心躍らせて、ちょうが風に遊ぶように足取り軽く、遠く遠くへと歩いていきました。
こちらは、連載中の『五花陸の物語~世「界」の底から紡がれる~ 天智なる盾と謳われた傭兵の肩書は世「界」一多い⁉ 国王の親友で公爵で新都総督で世継ぎの王女の夫で神剣の保有者である。』の世界観の中に落し込んだ童話です。
とある親子が何の憂いもなく幸せだった頃の挿話でもありますが、そうなんだ、くらいで大丈夫かと。
でも、もしよろしければ、本編もお読みください。