34.甘やかされてばかりは嫌です
開け放たれた窓から爽やかな風が通る午後。それはいつものちょっとした会話から始まった。
私には正当な主張で大事にするようなことではなかったのだけど、ディートハンス様がえらく反応した。
「どうしてダメなんだ? 理由を教えてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
じりじりとにじり寄ってくるディートハンス様に追い詰められ、私はとうとう壁際まで追いやられた。
とん、と肩がつくとすぐそばに両手が置かれひゅっと息を呑む。
「リアは甘やかすなと言うけれど、甘やかしたからと言ってリアが仕事をさぼるわけがない。そうだろう?」
「そうですが……」
もちろん任されたことはこれからもするつもりだ。
お手伝いも多少のことなら厚意なのだと受け止められるけれど、ディートハンス様の場合その甘やかしの頻度が問題なのだ。
言い切られ信じてくれていることに心を擽られながらも、ここで押し負けてはいつもと一緒だ。
どのように言えば伝わるのかと考えている間に、ディートハンス様がさらに顔を寄せた。
「私はリアをたくさん甘やかしたいしもっと触れ合いたい。困っている顔も、照れている顔も、喜んでいる顔も、私の行動によって見られるのならそれは私のものだ。だから構うことはやめられない。なんなら」
「ストーップ!」
深く清らかな双眸に見つめながら語られる言葉に耳を貸していたけれど、耐えきれなくなって私は慌ててディートハンス様の口を塞いだ。
なんなら、の後は何を告げるつもりだったのだろう。
きっと恥ずかしい言葉に違いなくて、聞きたい気もするけれど顔が真っ赤になってしまう予感にこれで正しいのだとぴんと腕を伸ばした。
ディートハンス様はスイッチが入ると饒舌になり、こちらが赤面するようなことを平然と告げてくる。
そのため、私も周囲もそわそわと落ち着かない気持ちになったことは数えられないほどだ。
しかも、本人は自覚もなく悪気もないので、どれもこれもドストレートな言葉は始末に負えない。
「可愛い」
今も本心から出たのであろう声が私の頬を熱くさせる。
真顔でそんなことをのたまうディートハンス様は、わずかに目を細めると私の手をぺろりと舐めた。
「ひぇっ」
生々しい感触に思わず手を引っ込めると、ディートハンス様は身をかがめ私の唇を奪っていった。
ちゅっ、と可愛らしい音とともに唇を離すと、驚きで目を見開いた私の目元にもキスを落とす。
「…………!?」
「顔が赤い」
指の背で頬を撫でられ、私を見る眼差しは熱っぽくてディートハンス様が醸し出す空気に圧される。
なんだかんだとディートハンス様の手数が増えてきた。
いったいどこで覚えてきたのかと突っ込みたくなるけれど、ディートハンス様のことだからこれは本能的にしている。
ただでさえも色気のある人が、隙あらば私を甘やかそうとしさらに愛しいと表現してくるのだから厄介だった。
私の恋人が最強すぎて、どこから手をつけていいのかわからない。
「構うなとは言いません。ですが、窓拭きも私の仕事です」
今日は窓拭きをしようとバケツに水を入れている時に帰ってきたディートハンス様が、当たり前のように手伝いを申し出てくれた。
それを断るとディートハンス様はしゅんと項垂れ、そんな顔をさせてしまうことが申し訳なくて結局絆されてしまうまでがいつものやり取りだ。
だけど、いつまでも流されてばかりはいけないと、甘やかさないでほしいと主張したら追い詰められた。
よもや、そんなやり取りからこんな甘い空気になるとは思いもしない。
朝から外に出ていて夕方また出て行くと言っていたので、その間はゆっくりしてほしいと思っただけなのにと眉尻を下げた。
困らせたいわけでもないし、構いたいと堂々と宣言されたが構われることを嫌がっているわけでもない。
これが二人きりの時ならば、私も素直にディートハンス様に甘えている。
だけど、ディートハンス様たちが寛げる空間を維持することが私の仕事なので、今譲るのは違うと思うのだ。
「リアはよくしてくれている」
「でしたら」
だけど、ディートハンス様はどこまでも真剣に主張する。
その上、触れる手つきはどこまでも甘く、私を誘惑するように見つめる眼差しは熱かった。
「だが二人ですれば早く終わる。高いところは私のほうが効率がいい。それに終わればその分一緒にいられる」
確かにそうなのだけど、以前にも増して荷物持ちや掃除の手伝いなどしてもらっていて、騎士団総長、しかも第二王子殿下にさせていいことではない。
ディートハンス様含め騎士たちに、気持ちよく過ごしてもらえるようにするのが私の家政婦としての仕事だ。
「ですが、今は仕事中です。これは甘やかしすぎなのでは?」
賃金だってもらっているし、もし同僚がいれば明らかに不満案件だ。
そう言うと、ディートハンス様は考えるように顎に手を当てた。
目を眇め沈思していたが、目を見開くと顔に穴が空きそうなほど見られる。
「だが、家政婦はリアだけだ。それにリアは私のお世話係でもあるだろう?」
「………………えっ?」
久しぶりの『お世話係』という言葉にぽかんと口を開ける。
そこまで月日は経っていないがその間が濃かったので、忘れてはいないけれど終わったことだという認識だった。
「確かにお世話係に任命されましたが、それはディートハンス様の看病という名のもとだったかと」
「だが、終わりだとはまだ誰も言っていない」
そう言えばそうだ。
だけど、ディートハンス様の不調は改善されたのだから、終わったものという認識は間違っていないはずだ。
「確かにそうですが」
「リアは私のお世話係でもあるのだから、私の要望は聞くべきではないか? 仕事を奪っているわけではない。私が一緒にいたくてやっているのだから悪いことではないはずだ」
どこまでも真面目に告げるディートハンス様。
堂々とされると、そうかもと思ってしまうから不思議だ。
主張も不快になるようなことではないからか、私自身がディートハンス様の思いを無視したくないからか、どうしても流されてしまう。
「それを甘やかしというのでは……。私は少しでもディース様たちがこの寮で安らげるように働けたらと思うのですが」
「リアは勘違いをしている。もちろん、リアがこの寮を管理してくれているから私たちは寛げている。だが、私が何よりリアのそばにいたい。そばにいることが一番の安らぎだ。仕事の邪魔はしないから追い出さないでくれ」
ああ、なんでこんなに胸をくすぐってくるのだろう。
愛おしくて、全力で甘やかそうとしてくるディートハンス様がかわいくて。
「ずるいです」
そんなふうに言われると、その手を突っぱねることはできない。
仕事を抜きにすると、私だって一緒にいられることは嬉しいのだ。
「それにお世話係は万全になるまで見てくれるんじゃなかったか? リアがいないと万全ではないからずっと私から目を離してはいけない」
だから一緒にいようと私の髪をするりと取るとキスをし、ディートハンス様はにこりと微笑んだ。
以前、ストレートの言葉は真顔のほうが恥ずかしいと思ったけど、この微笑の破壊力は災害級なのではないかと思うくらいやばかった。
仕草も甘すぎて、かけてくる言葉もとことん甘くて、そうすると決めたディートハンス様には敵わない。
それでもやっぱり甘やかされてばかりはと、仕事なのにと思う気持ちはあって精一杯の抵抗を試みる。
「お世話係は私だったはずなのですが」
これだと私がお世話されている立場になってしまう。
よしんば一緒にいるのはいいとして手伝うのは控えてもらえたら……、それも落ち着かない気もするけれど、何でもかんでも流されていると際限がなくなりそうだ。
「お世話されることもお世話係の仕事だな」
「屁理屈では?」
普段あまり語ることをしないのに弁が立つ。
むっと頬を膨らませると、ぷにっと指で押された。
「リアの雇い主は私だ。それにフェリクスたちもあれから何も言っていないだろう?」
「それは、そうですが」
確かにそれについて言及は誰もしていないけれど、フェリクス様たちも忘れているのではないだろうか。
「なら、これからも私のお世話係だ。お世話係は私の要望にできるだけ応えること。私はリアがいると調子がいい。つまりそれは騎士団としてもいいことだ。リアはいるだけで十分仕事ができていることになる」
誰かこの人を止めてくれと思いながら、私は折れそうになる。
結局、好きな人が嬉しそうなのを妨げる気にならない。
「ディートハンス様の休息の妨げにならないのであれば」
苦笑とともに告げると、ぱぁっと表情が明るくなった。
よく見ていないとわからない変化で、大きく表情が変わったわけではないけれど、目がキラキラしているというか、とにかく嬉しそうなのを見ると私も嬉しい。
互いに笑みを浮かべ見つめ合い、またディートハンス様の顔が近づいてくる。
「話がついたかな?」
「!?」
もう少しで唇が触れるというところでかけられた声に驚いて振り返ると、騎士服姿のフェリクス様たちがいた。
「俺たちもディース様と一緒に帰ってきたのだけど、なんかいい雰囲気で話していたから出るに出られなくって」
「ああ。ユージーンを止めるのが大変だった」
フェリクス様がにこにこと笑顔でそう告げる横で、アーノルド団長が苦笑する。
「今までは面倒だと言ってあまり帰ってこなかったのに、最近は任務を終えたらすぐ帰ってくるようになって。ユージーンがここまで積極的になるなんて珍しいよねぇ」
そんな団長の後ろではがたいのいいレイカディオン副団長がユージーン様の襟元をひっつかみ、寮のムードメーカー的存在であるセルヒオ様がにやにやと笑った。
ユージーン様は彼らの言葉や扱いなど気にせず、ディートハンス様にじと目を向け不満を口にする。
「ディートハンス様ばかりずるいです」
ユージーン様は私が精霊王と契約していると知り、以前より積極的に話しかけてくるようになった。
ユージーン様独特のルール、精霊と契約している人間に悪い者はいないということで、人嫌いであるユージーン様のお眼鏡に叶ったらしかった。
わかりやすい態度の変化に、気に入られているのだろう自覚はあった。あと、単純に精霊が好きなのだろうなというのもわかる。
今回の拉致騒動でもとても心配をしてくれ、ぶち切れたユージーン様は己の精霊に死刑を免れた罪人には一日三百本髪が抜けますようにとお願いしたようだ。
以前、話していた『呪詛をめいいっぱい込めた』とは髪の毛のことだったらしい。
刑は執行されているけれど、悪いやつらには精神的なお仕置きをとふはははっと笑っていた。
新たな一面を見てしまってちょっとビビってしまったのは秘密だ。
毎日髪が抜けていくなんて呪いのようではあるが、精霊のイタズラ好きを刺激しただけであって嫌だったら行わないとのこと。
つまり精霊の意志でイタズラの範囲だから心配ないとのことだった。
飽きたらやめるし、もしかしたらなくなるまでやるかもって、それはそれでどうかと思うけれど変な呪いではないのならと思わないでもない。
今のところ私を苦しめたと精霊はとてもご立腹で、ユージーン様の契約精霊以外も嬉々として行っているらしい。
それは男女とも関係なくものすごく地味な嫌がらせで、日に日に髪が減っていくのは精神的にキツそうだ。
伯爵やベンジャミン、特に伯爵夫人が発狂する姿が目に浮かぶが、それらはざまぁというよりはご愁傷様という気持ちのほうが強い。
だけど、止めようとは思わない。精霊に強制させているわけでもなく、本人以外に他の誰にも影響はないならそれでいいのではないだろうか。
私のように大切な人を亡くした人たちは多い。
刑は執行され公正に裁かれたけれど、それでも悔恨は残るし気持ちは簡単に片付けられない。
同じ目に遭ってほしいと思っているわけでもないし、これ以上彼らのことを考えたいわけでもない。
でも、脳裏を過ると少しでもこの苦しさを当人たちに届いてほしいと思ってしまう。
男性陣は過酷な環境で身体を酷使した労働を強いられるが、体力のない夫人はまた別だ。
現在の環境に不平不満はあるだろうけれど、両親を死に追いやった彼らが、悲嘆や文句はあっても後悔するかまではわからない。
だが、髪のことは目に見える変化で、彼らは絶対、特に女性である夫人は思うことはあるはずだ。
私が望むような反省や謝罪する気持ちがなくても、少しでも後悔する気持ちが、悔しさが彼らにもたらされるとわかることは、少しばかり晴れやかな気分になる。
そんなことを考えていると、ディートハンス様が私の腰に手を回した。
「リアは私のお世話係であり恋人だ。何もずるくない」
「独占するんですか?」
態度とともに主張するディートハンス様に、ユージーン様が呆れた。
でも、ユージーン様も首根っこを掴まれたままで、その理由が堪え性がないからということだからどっちもどっちというか……。
「当然の権利を行使しているだけだ。それにユージーンはリアの手をよく握っているだろう? 私はそれがいつも気になっている」
「器と聖力のバランスを見るためであって、そういった気持ちはないと知っているでしょう?」
「それをわかっているから我慢している。でも、気分はあまりよくないな」
話の流れが変わってきた。なんでこんな話になっているのだろうか。
仕事をしていたはずなのに、と二人から視線を外すとそこでフェリクス様と目が合った。
すると、フェリクス様は頬を震わせ、堪えきれずにあはははっと豪快に笑い出す。
「二人ともミザリアが困ってますよ」
「困らせてすまない。だけど、これも私の本心だ」
それに対して、私の頭上にそっとキスをして謝るディートハンス様。
どこまでも甘く接してくるディートハンス様を見上げると、その双眸は柔らかに慈しむように私を見ていた。
「それを言われて俺はどうしたら?」
ユージーン様が頭をがしがしとかく。
「あはははっ。初めは見ているこっちが恥ずかしかったけど、ストレートすぎて清々しいというか、ディース様の嫉妬はじめじめしてなくて聞いているほうはなんか楽しくなってきた」
「向けられた俺はそうはいかないんだけど?」
フェリクス様は目尻に涙を溜めながら実に楽しげ笑うと、ディートハンス様、そして私へと視線を移した。
頭上にキスを受けながらのその視線に、私は苦笑するだけだ。
「ディース様は理性的だよね。好きな女性に触れる異性がいたら気になるのは当然だし。今も仕方がないとわかっているから、ただ気持ちを告げただけ。やめろとも言ってないし」
「本当にそれだよ。余計にやりにくいんだけど。確かにミザリアは性格もいいし俺も気に入っているが、総長のは今までと変わりすぎだ」
「それはユージーンもだろう。確かにディース様がこんな甘々になるなんて想像もしなかったが、俺はディース様に大事な人ができたこと自体が嬉しいが」
アーノルド団長がそこで目を細めた。
ディートハンス総長が幼い時からそばにいたと言っていたので、魔力暴走で苦しんでいたことや人と距離を開けなければならないことも含めて、本当の家族のように現在の状況を喜んでいるようだった。
兄のように見守り、ディートハンス様の幸せを願う。
ディートハンス様が幸せだと周囲が認識していることが、私がディートハンス様の横にいることを認めてくれているということで。
こんな会話をしていても、表情は皆明るく穏やかで、それが何よりも嬉しい。
大事に思い合う彼らの温もりが、絆が眩しくて。
そしてその中に自分の居場所があると感じるたびに、胸が熱くなる。
腰を抱かれる腕の力が強くなり、些細な気持ちの変化にも寄りそうような行動にぎゅうっと胸が引き絞られて瞼を伏せた。
「ミザリア」
フェリクス様に真剣な口調で名を呼ばれ、私は顔を上げる。
奥の深さが知れない透き通る湖面のような水色の瞳と視線が交差し、私の肩はぴくりと跳ねた。
フェリクス様は今の幸せに至るきっかけをくれた人。
伯爵家から追い出された先で出会い、騎士団寮の家政婦を薦められた時のことを思い出す。
ただ、あの時のように見定めるような厳しさはなくどこまでも穏やかだ。
「家政婦業はもちろんのこと、ディース様のお世話係はこれからもよろしくね。ディース様の幸せが騎士団をさらに安全安心、そして最強の集団にする。頼むよ」
アーノルド団長が兄のような立ち位置なら、フェリクス様はディートハンス様の友人だ。
そして彼らは主従関係でもあり、ディートハンス様に忠誠を誓うとともに、ディートハンス様の人柄や実力にも惚れており、相当な苦楽をともにしてきたこともあってディートハンス様への思いは強い。
ディートハンス様を大事に思っているフェリクス様に言われてしまえば、私は頷くしかない。
命の恩人でもあり好きな人の幸せを思う気持ちは同じで、周囲がそうすべきだと判断し、何より本人が望んでいるのならと思う。
「……はい」
こうして、私は正式に『総長のお世話係』も追加され、しかもそれには期限もなく半永久的なものとなった。
「リア。これからもよろしく頼む」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
正式なものとなったのならば、今のようにお世話されるだけにならないようしっかりディートハンス様のためになることをしていきたい。
意気込んで見つめ返すと、生気に溢れる綺麗な瞳とかち合った。
溢れんばかりの優しさと、トロリと滲むだけでは物足りず溢れ出る甘さ、そしてほんのちょっとだけ飢えたような獰猛さが覗いている。
熱っぽさはどこまでも甘く溶かすと告げていて、包み込むためならどこまでも手を広げる意志も感じ、最近の手数を思うと心許なくて気合いを入れ直す。
――甘えすぎてしまわないように頑張らなければ。
どこまでも甘いディートハンス様から仕事をすべて奪われないように、家政婦業もお世話係も、そして恋人としても頑張ろうと私は胸に誓った。




