◆伯爵家の崩壊 絶望
「もう、何をするのよ! 痛い、痛いって」
「俺は知らない。何も知らない。知らないんだ」
妻のグレタと息子のベンジャミンが第一騎士団長のアーノルドに連れられてきた。
「横暴すぎるわ。あなた……っ、ひぃ」
どんと二人は突き飛ばされ、ネイサンたちはひとまとめにされる。
むき出しの剣を無言で首に当てられ、血まみれのネイサンを見てさすがにグレタも黙った。
ベンジャミンは頭を抱えながら、ぶつぶつと現実逃避をしている。もともと一人では何もできない小心者だ。
チェスター自身も余裕がなかった。下半身を濡らしたまま、圧倒的な力を前にずっと震えが止まらない。
突きつけられた剣よりも、先ほどの騎士団総長の動きが恐怖として脳裏にこびりついていた。
あまりにも美しく人間離れをし、人を造ったとされる神を前にしたかのようにどれだけあがこうがわめこうが決して太刀打ちできない存在。
あそこでミザリアが名を呼ばなければ、確実に切られていただろう殺気。
生と死が隣り合わせの瞬間。チェスターの命を瞬きほどの間で奪ってしまえるモノを前に何もできない絶望。
それは消えることのない恐怖としてチェスターに根を張った。
今はこちらを見向きもしない。
だけど、少しでも動けば死ぬのだと殺意が常に向けられていることをひしひしと感じていた。
――こんなはずではなかった……。
脳と身体の連携がおかしくなり、じわりとまたチェスターの下半身を濡らす。
この半年間の荒れ狂うような苛立ちがぴたりと止み、眩しいほどの光を前にして奈落の闇に落とされ希望が抱けない。
魔物がばりばりと人を食う姿を前に公爵に脅されても、恐怖で逃げ出したくなりながらもそれでもどこかでなんとかなると思っていた。
そもそも利すると思ったから公爵と手を組んだ。相手の目論みを知った上で乗ったのだ。人対人ならば、どれだけ強者であっても必ず隙があり見誤らなければ死にはしない。
生きて金さえあれば何とでもなる。
魔石があったから。金があったから。チェスターはチェスター・ブレイクリーのままでいられた。
自分の嗅覚を信じ今まで好き勝手やってきた。
精霊と繋がりがあるという男爵の美しい娘を脅し自分のものにしたのも、その娘に子を産ませ己の手足となる者を増やそうとしたのもそうしたかったからだ。
自分の娯楽や価値ある未来のために、どこで誰が犠牲になろうとどうでもよい。
楽しむだけ楽しみ、その後は望んだ効果が得られなければ捨てればいいだけだった。
邪魔だった兄弟たちを蹴落とし、そうやって己の欲望に目を凝らし掴んできたから欲しいものを手にここまでやってきた。
なのに、捨てたはずのものがチェスターの人生を今かき乱していた。
使えないと無視し、魔力がなく完全に利用価値がないと判断し追い出した途端、足下が崩れだし何をどうあがいても上手くいかなくなった。
絶対的な強者に抱えられ、ミザリアが血を吐いた。それから総長と話していたが、しばらくしてだらりと身体が弛緩し動かなくなった。
総長がミザリアの脈を確認し、鋭い声を上げる。
「ホレス」
「ほいほい。ここにおりますよ。片付けた連絡とともに、この老いぼれをこんなところまで引っ張り出して休む間もくれんとは相変わらず」
「ミザリアの脈が弱い」
ぶつぶつと文句をいいながらもミザリアの診察を始めた老人をチェスターは知っていた。
ホレス・スモールウッド。治癒士、そして医師として最高位に位置する人物。歳を取り体力の衰えを理由に現場をすでに引退しているが、その腕は衰えておらず現在も王族専用医師だ。
王族が許可しなければ、彼を動かすことはできない。王都が混乱しているなか、そんな重要人物をここに連れてくるほどのことが起きている。
騎士団総長が直々に駆けつけ、個人的な恨みをぶつけるような殺気とともにミザリアを守りに入った時もそうだったが、ここにいた時の価値と騎士団での価値が大分違うようだと突きつけられる。
いつ突き落とされるかわからない崖に立っているチェスターたちと、弱りながらも強者に守られ安全な場所にいるミザリア。
半年前と立場が、周囲の扱いが、未来が、完全に逆転していた。
ホレスはミザリアの瞳孔などや胸に手を当てて魔法で確認し、それから小瓶を拾い検分し、ふむふむと頷いた。
「どうなんだ?」
「嬢ちゃんは大丈夫だ。精霊が守っている。この瓶の中身を飲まされたようだが、効力は弱まっている。その血は毒を吐いたのだろう。治癒をかけておいたから直に目を覚ますだろう。ただ、衰弱しているからしばらく安静だがな」
ホレスの言葉を聞いた騎士たちがそこでほっと息を吐き出した。
「それはよかった。思わずここで殺してしまいそうなところだったからな。いい加減に黙れ!」
第一騎士団長のアーノルドがぶつぶつうるさいベンジャミンの前に剣を下ろした。
刃はベンジャミンの顔すれすれを通り、パサリと前髪が落ちる。
「ひぃぃっ」
「親子揃って汚いな。お前、ミザリアに暴力振るっていただろう? これくらいでビビってどうする? ああ、前髪だけがないのは格好がつかないな。左右も切ってやろう。動くなよ」
「やめて!」
下半身を濡らしたベンジャミンと息子の危機に声を上げたグレタにアーノルドが侮蔑の眼差しを向けると、右肩めがけてまっすぐに振り落とし肩に触れる寸でのところで止まる。
宣言通りぱらりと右の髪が落ち、そのまま同じように左側にも剣を振った。
続けざま行われる愛する息子の扱いにグレタは泡を吹いて失神し、ベンジャミンも恐怖に耐えきれずそのまま昏倒した。
「もう気を失ったのか。ミザリアに長年してきたことをこんなもので許されると思うなよ」
「アーノルド。それくらいにしておけ」
ぺちぺちと剣で頬を打ちながらベンジャミンたちを見下ろす騎士団長は、どこかの盗賊の頭のようであった。
殺意を込めた視線で射殺してしまえるほどの鋭い眼光を向けていたが、総長の一声にふぅっと深く息を吐き出すとその殺気を引っ込めた。
「どうせここを出たら俺たちは直接手を下せないのですから、これくらい脅しておいてもいいんじゃないですか。こういうやつは人のせいばかりにして自分の責任なんてとれない。逆らうと怖いと思わせるほうが早い」
自分たちに向けられた剣先に隙はないまま、口調は軽快なものへと変わる。
「俺もその意見には同意だけど、一般人には理屈がわからないその剣技はただただ恐ろしいだけだろうね。彼らは十分植え付けられたと思うな。確かにこんな簡単に倒れられても困るけど、直接手を下せないというだけで王都でもやりようはいろいろある。足りないと感じたら手を回せばいい」
第二騎士団の服、銀の髪、フェリクス騎士団長がそこで声を上げた。
肩を竦め、チェスターに視線を向けると続ける。
「それにディース様もミザリアが止めてなかったらあのまま伯爵を殺ってましたよね? むしろ、よくあそこで止めたなと感心します」
「…………」
「まあ、気持ちはわかります。だけど、そう簡単に楽にさせない。何の償いも後悔もしないまま死んで終わりなんて楽すぎる。そうでしょう?」
フェリクスがすっと目を眇めうっすらと笑みを浮かべた。
そこにはこれ以上ないほどの侮蔑が含まれており、チェスターはぶるりと肩を揺らす。
どう足掻いても敵わないとチェスターに絶望を与えた総長も、一つ間違えば耳や鼻を切ってしまうほどギリギリに髪を切ったアーノルドも、何をしかけてくるかわからない魔法に長けたフェリクスも、ミザリアのためなら国の騎士ではなく個人としてチェスターたちを手にかけることを厭わないと告げている。
総長が愛おしそうにミザリアの頬や頭を撫でた。
「ああ。そうだな。ミザリアはここまで神経をすり減らしながら最後まで頑張った。諦めず私たちを信じて戦っていた。有耶無耶に終わることは許されない。後は俺たちが始末をつける」
「そうですね」
全員の冷たい視線がチェスターと、横にいるネイサンへと向く。
そこでようやくチェスターはネイサンの存在を思い出し、視線を投じた。
止血のみ施され痛みに堪えるように歯ぎしりをしながら、ネイサンはミザリアをキツく睨みすえている。
同じように悲嘆に暮れているものと思っていたチェスターは、思いもよらぬネイサンの表情に目を見張った。
「忌々しい精霊め」
呪詛のように吐き捨てられた言葉とその憎悪にチェスターはあらゆる衝撃を受け、恐怖で支配されていた思考がわずかに動き出す。
「精霊? やはり加護はあったか」
ホレスも口にしていたが、その後のアーノルドの動きに圧倒されて忘れていた。
だが、ネイサンが再びはっきりと口にし、しかも以前からミザリアと精霊の関係を認識していたことを物語っていた。
チェスターの声にネイサンが反応する。
面倒くさそうにしかも蔑む視線を向けられ、そんな視線をこの執事長から向けられたことのないチェスターは再び衝撃を受けた。
「なんだその目は」
「はっ。この状況でも威張れるとは……」
それから、長い年月をかけてネイサンに裏切られてきたことを知る。
積年の恨みを淡々ともっとも信頼し任せていたネイサンに聞かされ、裏切りの理由を聞いても、チェスターはその娘を思い出すことができない。まったく記憶にかすりもしなかった。
思いのまま過ごしてきて捨てたものを、しかも気まぐれに手を出したものまでいちいち覚えていない。
「お前が唆さなければ」
ミザリアの母親の話を聞き、血が繋がっていないことを知り、そして聖魔法を使えないように忘却の術をかけていたことを知り、頭が煮えそうになった。
血が繋がっていなかったことは今更どうでもいい。ただ、ネイサンが企てなければ、聖魔法は今頃自分のものだったはずだ。
そうすれば公爵の企てに巻き込まれることもなく、安全に稼げ栄光ある未来を歩めていた。
それを潰されてきたと知り、ようやっと暗闇の中怒りの向け先を見つけチェスターは腹の底から叫んだ。
「――殺してやるっ!」
そうだ。チェスターの人生を狂わせたのはネイサンだ。
己がしたことなどすっぽりと忘れたまま怒りを覚えるチェスターは、今の不幸はネイサンのせいだと罵る。
そうしないと今の状況に耐えられなかったこともあるが、チェスターは元来そういう気質であった。
「できるのならすればいい。そうしたところでお前の人生は終わりだ」
「使用人風情がっ!!」
「そんな使用人にずっと騙されていたのは誰だ! 娘を弄び殺した罪。精霊相手に何もできなかったことは非常に残念だが、所詮人間には及ばない領域だということはわかった。やるだけはやった。後悔なんてない。お前に仕えてきたのは何のためか。確実に地の底に落とすためだ。今までの悪事の証拠は部屋に大事にしまってある」
嘲笑を含む声とともに鋭い視線に射貫かれ、それが嘘ではないことを知る。
その事実に、怒りに染めていた感情がぽきりとあっけなく折れた。
執事として雇い、その有能さを気に入り執事長となってからはあらゆることに関わらせ、時には全てを任せてきた。
それもこれも同じ狢であり、ネイサンは自分を主として敬っていると信じて疑っていなかったからだ。
だが、いったいどうしてこれほど信じるようになったのか。
ミザリアの母親のことも含め、その辺のきっかけが思い出せない。
憤怒で一度奮い立たせたが、現状は変わらなかった。一時の虚勢は虚しくさらに絶望へと意識が向く。
騎士団の前での暴露に、逃げ道をさらに塞がれ額から滝のように汗が出る。
――真っ暗闇だ。
それを認識すると絶望から、さらに深い奈落の底に突き落とされたような無限の暗闇を感じた。
未来も、過去も、現在も。どこを向いても暗くて道が見えない。どこにも行けず、今ここに立っている以外の何も見えない。
チェスターは己が何なのかわからなくなった。
あれほどあった自信も、築き上げてきたものも、成し遂げたはずの功績も幻のごとく霧散し、少しでもここから動けば落ちる恐怖。
認めたくない。誰かに踊らされた人生だと。全て自分の手でやってきたはずだ。欲しいままを手にすることが許される立場であったはずだ。
ごく限られた選ばれた者の特権は、他者にそうやすやすと踏み躙られていいはずがない。使用人ごときに壊されるようなものではないはずだ。
あ、あ、あっと反論もできずただ声を出すだけの威厳もへったくれもなく醜態を晒す姿は、それとほど遠い。
ネイサンはチェスターの姿に満足そうに口の端を上げると、ははははっと高笑いした。
「本当、胸くその悪い時間だった。地獄でお前たちを待っている」
そう言うと、がりっと音をがしてネイサンがビクビクと身体を痙攣させ泡を吹きながら息絶えた。
「奥歯に毒を仕込んでいたか。べらべらよく喋ると思っていたら、もとから助かるつもりはなかったようだな」
ホレスが脈を確認し首を振ると、はぁっとアーノルドが髪を眉間にしわを寄せた。
「裁判にかけて執事長も罪を負わせたかったが、今回の規模を考えるとこいつの刑はひっそりと行われていただろうしな。すべて吐いていったってだけでもマシか」
「ああ。伯爵たちは償わせるまで死なすなよ。執事長のしたことは許せないが、ミザリアの両親や彼の娘のような被害者は他にもいるのだろう。それらもできるだけ洗って、傷つき泣いて諦めてきた者たちの心を少しでも晴らそう」
フェリクスはそう応えると、チェスターを見下ろした。
総長は大事にミザリアを抱え上げると、団長に任せるつもりなのかホレスとともに後ろに下がった。ミザリアを見る時以外は無表情のそれにチェスターの顔が青ざめる。
フェリクス騎士団長は総長から何かを受け取ると、チェスターの目の前に立った。
「チェスター・ブレイクリー。このたびの反逆の騒動の一端を担った罪は重罪であり、その家族、関係者含めこれより王都へ連行する。大人しく従うように」
「私は、何も知らなかった」
ネイサンが隠してきたもののせいで今まで隠蔽してきたことがバレるとしても、公爵の反逆については言い逃れできるはずだ。
チェスターは魔石を供給してきただけ。自分だけが魔石を供給してきたわけでもないし、魔物のことも反逆のことも知らないと貫き通せば死刑は免れるはずだ。
「本当どこまでもクズだな。そういうと思って証拠も持参した」
見せられたのは手のひらほどの大きな魔石。
「あっ」
「これはすでに身分を剥奪された元公爵、マイルズ・ランドマークを守っていた魔物に埋め込まれていた魔石だ。石は採れる土地によって含む成分は変わる。頭に埋め込まれた魔石は伯爵領で採れるものだと判定は出ている。お前はランドマークが魔物の実験を行っているのを知っていて魔石を供給していたな。これも王都で尋問を受けたランドマークが供述している。魔石が二つある魔物はほぼここの魔石が使われていた」
チェスターもこれについて見覚えがあった。
ミザリアが出て行った直後に納品したもので、この魔石があったことで大層気に入られさらに公爵に目をかけられることになったものだ。
チェスター自身も滅多にない大きさと純度に手元に置いておきたかったが、ベンジャミンと公爵の娘との婚約をさらに推し進めるために差し出した。
あの時の魔石がこのような形で戻ってくるとは考えもせず、確信しているフェリクスを前に声が震える。
「そんな……」
それから次々と証拠を挙げられ、さらにネイサンの置き土産が追加されればかなり重い刑になるだろう。
第一騎士団長のアーノルドがこれ見よがしに剣を前に突き出し、鋭い声を上げた。
「あと、騎士団寮の魔物襲撃に際してミザリアを拉致したことをどう釈明する? 物忘れが酷いようだが全ての罪をつまびらかにしたのち、裁かれることになるだろう。言い逃れも、逃げることもできない。大人しくしておけ」
簡単に死なせないと言われたが、今よりさらに絶望を味わわせたその後は? どうにかなりそうなほど不安に押しつぶされそうで震えが止まらない。
ネイサンの死体が横に転がっている。恐ろしい時間を過ごした後、いつか自分もあのように死ぬのだと突きつけられているようだ。誰でもいいから縋りたくなった。
「助けてくれ!」
「今まで大勢の者たちがお前にそう言ってきただろうな。ミザリアも彼女の両親も。だが、その全てをお前は無視をした。誰も助けてはくれない」
見届けるように静かに立っていた総長の絞り出した声によって無情に一掃され、チェスターは枯れ木のように項垂れ壊れたおもちゃのようにひゅうひゅうと喉を鳴らしながら連行された。




