2.路銀を確保しよう
いつもよりさらに暗闇が広がる新月の夜。
私は伯爵家の大きな門をくぐる前で一度立ち止まった。
屋敷を眺めると、一つの窓に伯爵夫人と兄の姿が見える。私がちゃんと出て行くのか確認しているのだろう。父である伯爵の姿はどこにも見えない。
私は大きく息を吐き出した。
成人とともに追放すると宣告されてから、最後まで伯爵は姿を見せなかった。わかっていたことだけど本当にいらない子だったのだなと落ち込む。
血が繋がっているので、もしかしたら温情の言葉があるかもと心のどこかで少し期待していたみたいだ。
「わかっていたことじゃない」
母が亡くなってからこの十年間、どれだけつらい境遇に落とされても伯爵は私に何もしなかった。それが答えだ。
ミザリア・ブレイクリーからただのミザリアになった。もともと姓はあってないようなものだったけれど、今日が新たな一歩だ。
「母様、ごめんなさい。私、行くね」
母が眠るこの地を離れることは心残りであるけれど、私の力ではどうにもできない。
どんな時でも笑顔を浮かべていた母なら、気にするなと送り出してくれるような気がする。
母にまつわるものを何一つ持ち出せなかったことは非常に悔やまれるが、伯爵夫人にすべて処分されてしまっているので諦めるしかない。もしかしたら伯爵が何か持っているかもしれないけれど、どうしようもないだろう。
母が亡くなってから家族には何一つ良い思い出はないけれど、この土地には愛着があった。
この時間の門番は外され、一切合切関わるなと通達されているのか誰もいない。もちろん出て行くところは確認されているのだろうけれど、お前は見送りする価値もない伯爵家と無関係の者だととことん知らしめたいのだろう。
そんなことをしなくても十分わかっているのにねと、これが最後になるとゆっくりと門扉を押す。
「もうここには二度と戻らないわ。さようなら」
自分の気持ちの整理と決意のためにも口に出して言葉にする。
亡き母にため込むのは良くないとたまには言葉にして思いを吐き出すといいと言われていた。
母もたまにそうやっていた。可憐な印象を持つ母だったけれど、吐き出すときは口が悪くこそこそと二人で言い合い最後には笑い合ったのは思い出だ。
そうすることで鬱屈したものや、ちょっとしたわだかまりが一時的にだけど出ていく。
そうしているうちに落ち込む気持ちが前向きになっていくので、なんとか母が亡くなってから気持ちが潰れず十年間やってこれた。
十六歳で追放されることがわかっていて、これまで私は何もしなかったわけではない。
少しでも外の知識を仕入れようと、魔石採掘の仕事中に周囲の様子を観察し話に聞き耳を立ててきた。
手を踏まれ頬を叩かれたが、三日分ほどの食料とぼろぼろの衣服などの持ち出しは許された。
成果はしっかり得ている。
「とりあえず、採掘場の近くに寄って夜を明かそう」
幸い夏も近く夜中に放り出されてもなんとかなるだろうけれど、獣の心配はある。慣れた場所ならどんな獣がいるかわかるし、今からは宿探しもできないしまず路銀がない。
お金が欲しいなんて言えば食料までも取り上げられそうだったので、伯爵家で使えなくなり部屋に置いてあったくず魔石を持っていくことを願い許された。
なんとも心許ないが、これが私の全財産。
ないものを嘆いても仕方がないので、今あるもので先を考えていくしかない。
すり切れた靴でしばらく歩いていると、ふわりと私の視界に柔らかな光が灯った。
しばらくすると、私の周りをいくつかの丸い光がふわふわと浮かび上がる。
「案内してくれるの?」
昔からこの光は見えていて、小さい頃はもっとはっきり見えていたらしいけれど魔力喪失とともにたまに淡い光が見えるだけになった。
らしい、というのは五歳以前のことはうまく思い出せないからだ。
すぐに思い出せることのほうが多いので日常に支障はない。
意図的に思い出そうとすると抜け落ちているのか一貫性がない場面だけが浮かび、思い出として成り立たない。パズルのピースがところどころ足りないといった感じで、不便はないけれど違和感が残る。
ただ、この光はほとんどの者には見えず信用できない相手に話すべきではないと母に言われていたので誰にも話していない。
つらいときや寂しいときにふわっと現れるので、ひとりではないと記憶の中の母の思い出とともに励まされた存在の一つである。
「ありがとう」
お礼を言うと、ふわりと円を描くようにそれは動く。
その様子に私は笑みを浮かべ、ふわふわと光る光に導かれた木々に隠れた場所に身を潜め日が昇るまでゆっくりと眠った。
翌朝、朝露が顔に落ちてきて目が覚めた私は軽く朝食を食べ支度を終えると、さっそくブレイクリー伯爵領のすぐ隣の町へと向かった。
ベンジャミンに課題を押しつけられそういう時ばかりは家にある資料を読むことを許されたので、地理や歴史などの大まかな知識はある。
なので、この町で路銀を確保し王都に向かうのがいいだろうと考えていた。
できるだけ伯爵領から遠く離れたところへ行きたいし、人混みに紛れれば彼らに見つかる可能性も減るだろう。
人が多い分だけ仕事の数もあるだろうし、それに何より私はもう一度王都に行ってみたかった。
すべてを思い出せないけれど、記憶の中の王都はたくさんのものが溢れ賑やかで、子どもながらにわくわくしたのを覚えている。
「まずこの髪を買い取ってくれるところに売りに行こう」
長い髪はお金になると聞いているし、私の髪は毛先が傷んでいるがそこまで状態は悪くない。
それはあまりにも汚くて感染症にかかり高熱を出したことがあり、その時に身綺麗にすることは許されたからだ。
もちろん私を心配してではなく、周囲に移さない、面倒を起こさせないためであるが、清潔にすることを許されただけでも気持ちは違う。
高熱のおかげではあるけれど、あの苦しみは二度とごめんだ。
貴族が使うものより質は落ちるけれど、平民が使うものよりは良く使用人たちが使えるものは使わせてもらえたおかげでばさばさにならずに済んでいる。
どうせ旅でこれからは手入れできず傷んでいくのだから、早々に売れるところに売ろうと決めていた。
「あとはこの魔石を売ったらなんとかなるかな?」
伯爵家は高濃度の魔石のみを必要とし、それらを見つけ回収することが私の仕事の一つであった。
だが、そもそも平民はくず魔石と呼ばれる魔力がなくなりかけの魔石で魔道具などを動かすことが多いと使用人が話していた。
実際、使用人が寝泊まりする別館では伯爵家で売買する価値がないとされた魔石を使用し、その使用済みを持ち出すことを今回許されたのだ。
ほとんど魔力は残っていないとは思うけれど、大した動力を必要としない簡易的な魔道具ならそれで成り立つらしく多少の金銭は得られると見込んでいる。
ただ、相場がわからない。どれくらい足しになるのかわからないから持ち出せるだけ持ってきたが、私に何も与えたくないあの伯爵家から持ち出せたこと自体あまり価値はないのだろうとは思っている。
ひとまず王都まで行ける路銀の確保と身軽になることがこの町での目標だ。
鞄を抱え直し、さっそくこの町で一番人が多そうな通りを歩きどんな店があるのか見て回った。
それから行き交う人々、外から見える店の者の姿を観察し、自分の身なりを上から眺めた。衣服はくたびれてところどころ綻んでいるが、この町にいてもそこまで違和感がない。
店に入っても大丈夫だろうと、私は比較的人の出入りが少ない何でも屋と呼ばれる店に入った。