1.魔力なしはいらない
バシャン
カン、カラッ、カランッ
隅に寄せていたはずのバケツが蹴られ、中に入っていた水が床を濡らしていく。
屈んで磨いていたためスカートの膝から下が濡れ、不快感を覚えながら磨いていた廊下が水浸しになったのを眺めた。
私、ミザリア・ブレイクリーは、魔石の産地で有名なブレイクリー伯爵家の娘である。
ただし、王都で行われる五歳の魔力検査以降、ブレイクリーの家名を名乗ることは許されておらず、また名乗る機会もないまま使用人のように働きひっそりと息をすることを許されていた。
今は亡き母と同じピンクベージュの髪と春先に萌え出た若葉のような鮮やかな萌黄色の瞳で、美人であった母と顔立ちが似てきたらしい。
忌々しいと伯爵夫人が顔を合わせるたびに吐き捨てるので、きっとそうなのだろう。
「ちっ、邪魔だな」
大きな舌打ちとともに水の上を踏み、被害がなかったところにも足跡をつけながら男の靴が私の目の前で止まる。
ああ、と何とも言えない気持ちで手が震えそうになるのをぎゅっと爪が食い込むほど握りこんだ。
広がる水や足跡を眺めながら気づかれないように嘆息する。
薄汚れた水に濡れ匂いまでスカートに染み込んでくるようで気持ち悪い。
「おい、返事もできないのか?」
「申し訳ありません」
苛立つような声に顔をしかめそうになるが、ここで少しでも反応すれば顔に張り手が飛んでくることもあるのでぐっと我慢する。
邪魔にならないように端に置いていたバケツをわざと蹴ったことはわかっているし、これはいつものこと。いつものことだからと言い聞かせた。
感情を見せるとさらに理不尽に難癖をつけられる。かといって、下を向いたままだとまた怒られる。
私はさらに手に力を込めた。
「相変わらず、陰気くさいやつだな」
「……っ」
追い打ちをかけるように、ぞうきんとともに床についていた手をぐりっと踏まれる。
かかとで遠慮なく踏まれ、下を向いていた私はぐっと下唇をかみ痛さと悔しさを我慢した。反論してもろくなことがないと、この数年の仕打ちでわかりきっている。
「魔力なしの価値のない役立たずなんだからこれぐらいすぐにやれよ。ぐずめ! 廊下を拭くだけでどれだけ時間がかかってるんだよ。迷惑ばかりかけやがって。これと半分でも血が繋がっていると思うとぞっとするな」
頭上から降り注ぐ悪意ある声に、小さく息を吐き出すときゅっと口を引き結び立ち上がった。
水を吸って重くなったスカートが気持ち悪いが、気にする素振りを見せればさらに怒声を浴びるだろう。
「すぐにやります」
半分血が繋がっている二つ上のベンジャミンに向かって私は頭を下げる。
兄は茶色の髪に瞳、若い時の伯爵に似てそれなりに顔立ちは整いそれなりにモテて遊んでいるらしい。
吊り上がった目に酷薄そうな薄い唇のベンジャミンに対し、どちらかと言えば少し下がった目尻とふっくらとした唇の私たち兄妹はまったく似ていない。
「ふん。魔力なしの恥知らずめ!」
右手の人差し指をぴっと弾くように動かし、私の目の前に溜まっていた汚れた水を私に向けて跳ねさせた。
ぴしゃっ、と弾け散った水が胸元までかかる。
「何も役にも立たないお前なんて早く出て行けばいいのに。成人するまでとかくそだりい。ああ、それも三日後だったな。時間が変わったと同時にすぐに出て行けよ」
「……」
最近、ベンジャミンに婚約の話が持ち上がっていた。
詳しくは知らされていないが、伯爵家が望んだ家柄のご令嬢なのだそうだ。ベンジャミンも非常に乗り気で、恥ずかしい魔力なしである私がいることでそれらが上手くいかなくなることを危惧していてここ最近一層当たりが強くなっている。
――言われなくても出て行くのに……。
ベンジャミンが望むように、私もその日が待ち遠しい。常に監視され、こき使われ、理不尽に当たられて息が詰まりそうだ。
さらに深く頭を下げながら、これはもしかしてチャンスなのではと思考をフル回転させる。
「おい。聞いているのか?」
「はい。……ただ、旅の支度に持ち出せるものはどこまでお許しいただけるのか気になったので」
「お前なんかに与えるものはないに決まっているだろう」
「それは……、領内で私になにか問題がおこっても、行き倒れているところをお相手の方に見られるようなことになっても構わないのでしょうか?」
醜聞がたってもいいのかと視線で訴える。
すると、顔を赤くしたベンジャミンにパシンと頬を叩かれた。
「おま、生意気だなっ!」
反論すれば激怒されることは予測していたのである程度構えていたけれど、痛いものは痛い。
じんじんする頬とは別に口の中が鉄くさい。打たれた拍子に歯が当たり、頬と内側が少し切れてしまったかもしれない。
震える手で頬を押さえながら、視線を外してなるものかとベンジャミンを見つめた。
手を出したことで鬱憤を晴らせたのか、思案するように顎に手を当てて私を睨んでいる。
――やっぱり、ベンジャミンは私という問題の完全排除を望んでいる。
この先私がどうなろうと気にはしないだろうけれど、領地で噂になるようなことは婚約に影響を及ぼすと思っている。
ここが私にとっての正念場だ。
何も持たずに放り出されれば、それこそ先ほどの言葉は冗談ですまされない。
かといって、勝手に持ち出せば出発する寸前に荷物を取り上げられてしまう。なら、先に話をつけておくしかない。
私を確実に出て行かせたい、婚約を上手く運びたいと思っている今なら勝機があるはずだ。
「ですが、何もなければそうなる可能性は小さな子どもでもわかります。役立たずな私ではこの領を出て行けるかもわかりません」
「ちっ。そんな目で俺を見るな。そうだな。確かにお前は魔力なしの役立たず。価値もないお荷物だ。どこにいっても役立たずは役立たずのままだろう」
価値はない。そう何度も何度も聞かされてきた。私はブレイクリー伯爵家にとっていらない子。
言葉で肯定しても否定してもえらそうにと先ほどのように怒られるので、話は聞いていると示すように小さく顎を引いた。
ベンジャミンは腕を組みながら指を苛立たしげに動かしながら私を忌々しげに見ていたが、指の動きを止めると口元を歪めた。
「そうだな。今後一切この家に関わらないというのなら少しの温情は与えてやろう。俺は優しいからな。部屋にあるもの、数日分の食料。それでどうだ?」
部屋にあるものを持ち出す許可、そして食料。正直、食料がもらえるとは思わなかったが、よほどこの領内からさっさと出ていってほしいのだろう。
ならばと念を押す。
「伯爵夫人にもお話ししていただけますか?」
「ちっ。今日はよく喋るな。ああ、俺から母に言っておいてやろう。いいか、三日後にはお前は伯爵家とは縁も縁もないただの小娘だ。さっさと俺から見えないところ、伯爵領から出て行けよ」
「はい。恩情いただきありがとうございます。三日後の夜、すみやかに出てきます」
「ふん。さっさと片付けておけ」
再度、バケツをけりつけると苛立たしげにベンジャミンはその場を後にした。
その姿を見送りほっと息をつく。バケツを戻し、その上にスカートの水を絞りそっと肩の力を抜いた。
魔力なしと言われているが、生まれた時の私はかなりの魔力を持っていたらしい。母は美しくその上特別な魔力を持っていたそうで、目を付けた伯爵に手を出されて産まれたのが私だ。
貴族は魔力があればあるほど好ましいとされるので、ブレイクリー伯爵は私の誕生を大層喜び伯爵家で育てると決め、母子ともにブレイクリー家に迎え入れられた。
貴族の魔力検査は生まれた時、そして五歳の時には正式に王都の教会でするのが通例だ。
その五歳の時に、私の魔力が消失していたことがわかり状況は一変した。
魔力なしと言っても私に全く魔力がないわけではない。あまり魔力を必要としない魔道具を使えるくらいならある。
魔力鑑定に反応しない者は総じて魔力なしと呼ばれる。
貴族の魔力なしはいらない子。扱いは家にもよるが、私はこの家でそう判断された。
ブレイクリー伯爵家の領地は決して大きくないが、質のいい魔石が定期的に取れるため金に困らなかった。
その金で権力者との繋がりを維持してきた伯爵家は見栄っ張りで、力もなく自慢にもならない魔力なしは使いものにならないいらない子だった。
母はすでに潰れた元男爵家の娘と身分も低く、私には後ろ盾もない。
どこかの貴族に嫁がせるにも魔力なしは必要とされない。その辺に売るには伯爵家の血が流れている。
そこから私は役立たずの不要の子、身分の低い母の扱いも悪くなり、もともと丈夫ではなかった母は心身ともに弱りその一年後に亡くなった。
母がいなくなって、伯爵の関心は全く私に向けられることがなくなった。
完全に伯爵から見放された私は、ずっと私たち親子の存在を面白くないと思っていた伯爵夫人と兄にいじめられ役立たずと罵られ、使用人のようにこき使われ続けてきた。
伯爵は魔力なしの子はなかったことにし、私が生まれてからは放置気味だった長男で後継者となるベンジャミンを可愛がるようになり、屋敷内では伯爵夫人が幅を聞かせるようになった。
それから地獄の日々が始まった。
伯爵は一度引き取ったためか貴族の体裁を気にし、十六歳の成人までは屋敷に住まわせることを許した。
その決定後、どうせ出て行く子なら教育も必要ないと伯爵夫人に屋敷の隅に追いやられた。
その間は使用人のような仕事やブレイクリー伯爵領の名産である魔石の採掘作業など、無給で使える労働力として扱われてきた。
「あと少し」
屋敷の外に出る不安はある。私は自分が力ない者だと認識しているつもりだ。現にこの屋敷では役立たずで何もできなかった。
外の世界をろくに知らない世間知らずの小娘が、いきなり外に出て何ができるか想像なんてつかない。
けれど、幸いこの家でこき使われ身についた家事スキルがあるし、魔石を見つけるのは人より得意ではあったので、職を選ばなければなんとかなるだろうとも思った。とういか、なんとかするしかないという気持ちが強い。
少なくともこの家にいるよりはマシであるはずだ。
ブレイクリー伯爵家のミザリアではなくただのミザリアになる。
それはやっと新鮮な空気を吸えるような清々しい気分でもあった。
ぐっと背筋を伸ばし、外を眺める。
木々が風に吹かれさわさわと揺れ、その合間からはこの場所を囲む壁が見える。その向こう側にはまだ見ぬ知らない世界が広がっているのだ。
ゆっくりと目をつぶり、大きく深呼吸を繰り返す。
踏まれた手と叩かれた頬の痛みを誤魔化すように何度か撫でると、これ以上怒られないようにと私はいつもの仕事に取りかかった。
誕生日を迎える夜。
突如、私に使うことを許された物置部屋に伯爵夫人とベンジャミン、そしてロマンスグレーの髪をピタリと後ろになでつけた執事長のネイサンが押しかけてきた。
執事長は伯爵の代わりに定期的に私の状態を確認しにくる人物で、今夜のこともきっと伯爵の耳に入るのだろう。
使用人にやらせず自分たちで確認し行うという徹底したやり方に、彼らにとってよほど自分の存在が目障りなのだと思い知る。
夫人はベッドに座っていた私を見て嫌そうに眉を跳ね上げた。
ネイサンの名を呼ぶと、執事は抱えていた袋をさっと私の前に置いた。
適当に詰め込まれたのか硬いバケットや水が袋の外にはみ出しており、置いた拍子にばらばらと中身が溢れ出た。
味気のないものばかりだけれど、カビなど傷んでいないようなのが見てとれほっと息をつく。
――これで数日は大丈夫ね。
兄は伯爵夫人に話を通してくれたのだ。
あの様子だと実行されるとは思っていたけれど、気分屋なのでいつ撤回されるか気が気でなかった。伯爵夫人が了承するかもわからなかった。
出た中身を入れ直していると、伯爵夫人の侮蔑のこもった声が落ちる。
「施しはこれで最後です。感謝なさい」
「ありがとうございます」
これまで伯爵夫人は私たち親子が憎いとばかりに、少しの休憩も許さないとあらゆる仕事をふっかけてきた。
施しを受けるのだから働いて当然。魔力なしだから。役立たずだから。どれだけつらくても、私は私を管理する伯爵夫人に言われた通りやらなければ生きていけなかった。
「最初から最後まであなたたち親子は本当に迷惑で役に立たずだったわね。今後一切家名を名乗ることは許しません。どれだけ困っても助けを求めないことね」
「わかりました」
パチリと扇子を閉じると、伯爵夫人は私を見るのも忌々しいと早々に部屋を後にした。
この部屋は窓もなく常に薄暗くほこりっぽいので長い時間居たくないのだろう。ベンジャミンも睨むだけで、すぐに夫人の後を追いかけ執事もその後に続く。
「――無事、やり過ごせた……」
母との思い出のものは全て処分された。この部屋にあるものは、くたびれた日用品ばかり。
ベンジャミンがこの部屋のものと言ったのは、ろくなものが置いていないことがわかっているからだ。
ただ、ひとつだけ。彼らに見つかれば取り上げられてしまうだろうものがあった。
それは見たこともない宝石のかけら。透明度が高く、そこに見える色は日によって変わる不思議な石だった。
私はぎゅっと不思議な石を握りしめ、ふうっと息をついた。
出て行くまであと数時間。少しでも体力を温存しようとぺたんこのベッドの上に身体を丸めた。