12.いてもいい
気の遠くなるような静寂。
深夜、妙に目が冴えて眠れず私は裏口から外へと出た。
少し離れた所に小さな噴水がありその手前にベンチが置いてある。
すっかり夏になったとはいえ夜は肌寒く上着を持ってきたらよかったなと思いながら、長時間いるわけでもないかとそのまま座って背もたれに背を預け頭上を見上げた。
三日月が夜空に浮かび上がり、星々が瞬く。
澄明な空気が頬を撫で、息をするたびに肺まで綺麗になっていくようで静かに呼吸を繰り返した。
今日の昼は伯爵領から出て初めて王都の街を散策をした。
今まで休みはあったのだけど、少しでも早く業務内容を覚えたくてこそこそ仕事をしていたら、そのことがばれてフェリクス様に怒られたのが昨日。
朝は騎士たちの食事の準備などもあるので気になると言ったら、昼からは絶対休むことを約束させられた。
最初は仕事が気になってそんな気分ではなかったけど、徐々に王都の街に行くことも楽しみにしていたことを思い出した。
せっかくなのだからと楽しもうと気持ちを切り替え、うきうきとした気持ちのまま出かけた。
「いまだに信じられない」
今、ここにこうしていることが。
ひとりになると余計にそう感じる。
憧れの地。ずっとこの日を夢みていたと、店構えだけでもオシャレで見ているだけで楽しかった。
そもそもそういったこととは無縁の生活だったので、やっと自由になれたのだと感動とともにようやく王都に来たのだと実感できた。
だけど、記憶に残る母と一緒に並んで買った当たりくじのあるアメを購入してその場で食べただけで終わった。
しかも、今回ははずれでそれ以上何かあるわけでもなく、他に何かを買うということもなく帰ってきた。
物も人も多くどれもこれも興味深い物ばかりだったけれど、見ているだけで思考がぐるぐるする。
目端が利くフェリクス様が必要だろうと用意してくれた可愛い服を着て、誰に監視されることもなく好きなようにしていい。一か月前までの自分では考えられないようなことだ。
ずっと伯爵家から出られたら何をしよう、何ができるかなと夢想していた。
だけど、いざそうなると具体的なものが浮かばない。
無事王都にたどり着き職を見つけることもできて自由なはずなのに、その自由に、身動きできる現実に、怖くなった。
そう怖くなったのだ。
ただ、私はあの場から逃げたかっただけ。いつもギリギリのなんかを感じそれが壊れる前に離れたかっただけ。
――劇的に何かが変わるわけじゃないのね。
部屋にしまっている石を思い出し、小さく息をついた。
王都で倒れていた時に持っていた石は、母の機転で伯爵たちに見つかることなく奪われることもなくここまで持って来ることができた。
王都に来たかった理由には、その石が何か導いてくれるかもと思ったのもあった。
母も最終的に何かあったら王都に行ってみなさいと言っていたのもあって、家を出るなら王都一択だった。
一度来たことのある王都なら何か見つかるかも、夢中とは言わなくても好きなものが増えたら人生が楽しいものになるのだろうかと思った。
けれど、王都にという目標を達成した後は何もない。そこから特別な欲求は生まれない。
感情を出さないように生きてきたから、どれだけ綺麗なものを見てもどこか他人事のようにそれらを見ている感覚があった。
疑いもなく日常ががらりと音もなく変わる経験は、どれだけ前を向こうと意気込んでいても根付いてしまって、楽しもうと思ってすぐ楽しめる性格にもなれず変われるものではないのだろう。
それを自分で分析してしまっていることが、なんだか虚しい。
もっと素直にいろいろ喜びたいのにすぐに思考してしまう自分に嫌気が差す。
「ふぅー。そう簡単にはいかないのね」
環境が変わったからといってすぐにコミュ力がつくわけではないように、生きていくだけで精一杯だった私に物欲がすぐに湧くわけでもなかった。
いつか奪われるかも、壊れるかもと思うと、楽しむ気持ちがしぼんでしまった。
いざ手に入れると手に入れた分だけ今の騎士たちによくしてもらっている安穏な生活が壊れてしまうのではないかと怖じ気づいた。
今、何か新しいものを手に入れることでそういったことが減るわけではないのに、褪せてしまうようなどうしようもない気持ちが支配して店に入ろうと踏み出していた一歩を地につけることなく引き返していた。
「なんで、こうなっちゃうのかな」
この前泣いたことだってそうだ。
私の気持ちなのに、喜ぶ気持ちがあるのに、尻込みするような感情が湧き出てくるのを止められない。
私が昼から王都の街に出ると知った騎士たちは楽しんでおいでと言ってくれたのに、心の底から楽しめなくてせっかくお出かけ用の衣装までを用意してもらったのにと思うと申し訳ない気持ちになる。
夜空に浮かぶ淡い光をぼんやりと眺めていると、頭上に影が差した。
「夏とはいえ夜は冷える。薄着でこんなところにいると風邪を引く」
その声に私は慌てて姿勢を正すと、ふわりと優しい香りが広がり肩に上着をかけられる。大きな上着は動くとすぐにずり落ちそうになったので慌てて襟元を掴んだ。
影になりよく顔は見えないが、声は間違いようがない。
「ディートハンス様」
「眠れないのか?」
柑橘系のほんのり甘く爽やかな総長の香りに包まれ、圧倒的な存在感にさっきまで感じたあらゆる気持ちが吹っ飛ぶ。
「はい。王都の街を散策して興奮したみたいです」
センチメンタルになっていたのを誤魔化すようにへへっと笑うと、総長は無言で少し離れて同じベンチに腰を落とした。
二人でぼんやりと目の前の整備された道と広場を眺める。緊急時にここから馬でかけられるよう、寮内の道幅は広く取られ整備されて街頭までもがあり街の一部のようだ。
だけど今は夜の影が伸び、ぽつぽつと灯す街灯があるだけで何も目新しいものはない。
「…………」
「…………」
そして無言。
寡黙な総長とコミュ力なしの私では会話が続かない。
――でも、今はそれが落ち着く。
話すわけではないけれど、そばに誰かがいるというのはそれだけでさっきまで落ち込んでいたことから浮上する。
人一倍存在感はあるのにうるさくないというか。いや、目の前に立たれたら気にせずにいられないけれど、そばにいることに無理な肩の力が入ることがない。
不思議な人だなと思う。
「仕事は慣れたか?」
「はい」
せっかく話しかけられたのにまた会話が終わってしまう。
私は何か話題、話題と頭をフル回転させた。そして、共通の話題というか、伝わるというか、伝えたいことは感謝なのだなと思い口を開いた。
「あの、私はここに来ることができて、皆様にお会いできて本当に良かったです」
意気込みすぎて思ったよりも大きな声が出た。
うわっ、恥ずかしいと総長の上着を引き上げ顔を隠そうとあたふたしていると、ぽつりと柔らかな美声が落ちる。
「そうか」
真摯に受け止めてくれたとわかる声音に、そわっと身体の奥が震えた。
ディートハンス様からすれば唐突な宣言であっても、決してたくさん話してくれるわけではないけれど、静かに受け止められたことが嬉しい。
――そっか。そうだったんだ。
私は唐突に己の心情を納得した。
自分で思考しているつもりでも、本当の気持ちは自分でもわからないものだ。
何も欲求が湧かないと落ち込んでいたけれど、私はすでに欲しいものがあったからなんだ。
彼らに認めてもらいたい。黒狼寮の一員になりたい。大それた目標だけれど、少し受け入れてもらったことでそれは私の中に確実に芽吹いた望みだった。
すぅっと息を吸い込むと、彼の甘く優しい匂いが広がる。
どしっとした安定感が心地よくて、この匂いを嗅いでいると自分の気持ちも大きくなっていくようだ。
「ここにずっといたいです」
自分を認めてくれる場所。
魔力なしの役立たずでも、役に立つのだと言葉や態度でたくさん気にかけてくれる優しい人たちの力に少しでもなりたい。
たくさんの優しさの分、私も力になりたい。そのためにもここにいたい。
物が増えるよりも、外で遊ぶよりも、彼らのために働いているほうが、少しでも力になれるように動けることのほうが嬉しい。
「いればいい」
「本当ですか?」
お試しにといって働きだしたのでそのお試しの期限はいつまでなのか聞かされていなかったし、手伝ってもらうことの多い身では聞くのがはばかられていた。
それなのにあっさりと一言。
――いてもいい? これからも?
一気に気持ちが膨れ上がる。こんなに私は望んでいたのかと、気にしていたのかと今気づいた。
「とっくに皆は認めていると思うが?」
目を見張りディートハンス様を振り仰ぐと、真剣な顔で言葉を続けた。
「悪い。私の魔力の件を話した時点で理解しているものだと。もちろん私も認めている。だから、いたかったらいればいい」
「はい!」
胸の奥がじんわりと熱くなる。
また大きな声を上げてしまったのに気づいて慌てて総長の様子を窺うと、ふっと彼が笑ったがすぐに口元を隠すように手を当てた。
――あれっ、気のせい?
一瞬すぎて核心が持てない。
今はいつもの無表情なのでやはり気のせいなのかもしれないけれど、言われたことは心に残った。
いたかったらいてもいい。
何度も心の中で繰り返す。
その一言がすごく嬉しかった。多くを語らないそれはすとんと私の中に落ちてくる。
追い出されて早々フェリクス様に出会い成り行きでここに働かせてもらって、もしここが合わなければ働き口を紹介してくれるなんて、本当にありがたいことだった。
感謝しているし、魔力なしでも役に立てると知れて嬉しかった。
だけど、お試しである間はずっと仮だ。もしもの時は他の職場を紹介するということは、彼らにとって私はどっちでもいいということ。
それは当然なのに、配慮してもらっているとわかっているのに、必要以上に落ち込んでいた。
自覚していなかったけれど、頑張らないと、認めてもらわないといけないと意気込んでいたようだ。
自分で気づかなかったそういった感情も見透かされながら、恥ずかしいと思うこともなく大きくすくい上げてもらったような心地よさがあった。
竦んでいた心がほっと緩むのを感じる。
――私、ここで頑張っていきたい! 役に立ちたい!
前よりも強く、強く思った。
「ゆっくりでいい」
「ありがとうございます」
整った美しい顔ではあるけど、その白い肌と黒い髪という色彩、さらにほとんど変わらない表情に加え、今みたいに真顔だとさらに冷たい印象を受ける。
黙して語らずを貫くご尊顔に気後れしてしまうけれど、見てくれているとわかる言動は特に落ち込んでいた今は余計に胸に響いた。
ごそごそと動き、この今までにない嬉しい気持ちをどうにか伝えたくてベンチの上に正座する。
手の指先を揃え、今日の吸い込まれるほどの静かな夜空のように静かに月と星が輝く、恐ろしいほど深みのある瞳を見つめた。
「騎士様たち、そしてディートハンス様のために、今以上に精一杯仕えたいと思います。なので、お願いがあります。私に触ってください」
伝え終わると、私は額をつける勢いで深々と頭を下げた。
読んだことのある資料に書いてあった。遠い異国ではこのように座って敬意を込めて頭を下げることもあるのだとか。
手の甲に額がつくと同時に、切ることがなく伸びた髪がはらりと落ちる。
この髪も守ってもらったものの一つで、ここの人たちには見えるものから見えないもの、たくさんのものを守ってもらったのだなとしみじみと思う。
動作と気持ちが完全に一致していてこうべが垂れた状態でいると、頭上で息が落ちた。
「ふっ」
その笑ったような声にゆっくりと頭を上げると、至近距離に戸惑いとそして慈しむような優しさを乗せたアンバーの瞳があった。
それからややして眉を寄せたディートハンス様の耳がわずかに赤くなった。
「ディートハンス様?」
「……この流れで触ってくれと言われるとは思わなかった」
不躾すぎただろうか。
そう不安になったけれど、深みのある低い声がどうしても優しく聞こえた。高揚感からか、私は思いのほか素直に言葉を口に出していた。
「すみません。黒狼寮で働く私の利点はディートハンス様の近くにいれることなので、ならばどこまで近づけられるか知りたいです。私はたくさん役に立てるようになりたい。どうかお願いします」
「ミザリアは潔いところがあるんだな」
ディートハンス様はそこから考えるように黙り込んだ。
さわさわと木々の葉がこすれる音がする。
静寂が耳につくと私はだんだん冷静になってきて、『触ってください』なんて総長にとって二重のプレッシャーではと自分の大胆さに顔が熱くした。
出してしまった言葉を今更なかったことにできないので、羞恥に耐えながら自分の指先を見つめていると、さわっと風で揺れたくらいの感触と気配がした。
わずかに視線を上げると、そろりと伸ばされた手が私の頭に触れていた。
総長が目元を緩めると私を見た。そして初めて触れられた二重の驚きに固まって見上げるだけの私に、一度離した指先を再び私の頭上に置いた。
――本当に触ってる!?
自分でお願いしたのだけれど実際されてみると驚いて、今までにない感情が渦巻いてなんだか泣きそうになるほど感動した。
まるで初めての生き物でも触るような、髪の上のほうがさわさわと触れるだけの感触に目を細めると、総長はゆっくりと髪をすくように差し入れ撫でてきた。
ディートハンス様の上着から香る匂いに包まれ、ものすごく優しい手つきで滅多にない総長のスキンシップに私は心地よくなって目をつぶった。




