王子妃教育
ジークハルト殿下の言った通り、王子妃教育は彼と会った翌週から始まった。
淑女教育は本で読んだ、バレエの練習の様だと思った。
王侯貴族の振る舞いについては本で読んで知っていた。
けれど、本で読んだのと実際にそれを体でやるのはかなり違う。
まっすぐとあるいてお辞儀をして表情筋を動かす。
ダンスの練習で腰をすらりと見せ、ステップを踏む。
語学の時間に外国語のイントネーションがおかしいことを指摘された。
王子妃教育と同じ内容の本はもう読んでいる。といっても実態はこれか。
百聞は一見に如かずという言葉が異国にはあるらしい。
まさにその通りだなと思ってしまった。
今まで沢山の本を読んできた。それで第一王子の婚約者に内定している。
そう聞いていたのに、実際私は何もできない。
知っているはずの様々な事は何もできない。
そんな落ち込みに更なる追い打ちをかけたのは午後になって教育係の一人がいった「今日から少しずつ毒に慣らしていきましょう」という言葉だった。
物語の中で口に含んだだけでそれが毒だと分かる騎士が出てきた。
薬学の辞典を読んだことがある。
けれど、自分で毒を飲んで毒で体を慣らすという心の準備はしてこなかった。
先日あったジークハルトの顔がヴィオラの脳裏に浮かぶ。
絵本の狐の様だと思ったあの男は同じことをもっとずっと幼いころに経験したのだろうか。
側妃でも旨味のある妃に比べ王子の方がきっと命を狙われることが多いだろう。
あの人はこんな風な日々を送っていたのだろうか。
口にした毒入りの紅茶は苦くて、さらに気分が落ち込んでしまった。
* * *
「お疲れ様」
毒の影響なのだろう。
ふらふらとした感じがしたまま座っていると、声がした。
ジークハルトの声だと気が付き立ち上がろうとするのを止められる。
立ち上がるのを止めるため肩に触れた手が熱い気がする。
ヴィオラは自分の体温が低くなっているのかもしれない事にようやく気が付く。
「婚約者に毎日一輪の花っていうのは定番だけど君は喜ばないかなと思って、これを持ってきた」
花は別に嫌いではない。ものすごく好きというわけでもないけれど。
そう思いながらヴィオラは手渡された物、一冊の本を受け取ってそれを眺める。
この国で本は、魔法によって原本を複製した写本に、予算に応じて表紙などの装幀を加える。
貴族の持ち物は革装本が多いが、手渡された本は、金で綺麗に細工が施されていて、それだけで芸術品の様に見える。
「本が好きだと聞いたので」
御父上に確認して持っていない本を、職人に装幀させたんだけど。
表紙を開くと、それはこの国の錬金術について書かれた本の様だった。
てっきり王子妃教育に関連するものを渡されたのだと思っていたけれど、そうではない思ったよりずっと素敵な本の様で、思わずヴィオラは笑みを浮かべた。
「素敵な本をありがとうございます」
そっと革で出来た表紙を撫でながらヴィオラがお礼を言うと、ジークハルトは「今度、ダンスの練習を一緒にしよう」とだけ言ってその場を離れていった。
その後、もうしばらくして慣らすために少量飲んだ毒が問題ないかを医師と魔術師に確認されたのち、ヴィオラは侯爵邸に帰り着いた。
ぐったりと疲れてしまい、かるい夕食を摂った後は、ベッドに座って、今日ジークハルトに渡された本をただ眺める様に読んだ。
お礼状を書かねばならないのだけれど体が重くてだるい。枕元に本を大切に置くと、ヴィオラは意識を手放す様に目を閉じた。