1-7
指定されたビルの前に、良晴は途中二回ほど迷いながらも、たどり着けた。そのビルは三階建てだった。メモ用紙には二階と書かれている。一階には、なにやらおしゃれな個人経営のカフェが入っている。
カフェの横に、コンクリートで造られた階段があったので、良晴はそれを上った。やがて、鉄製のドアが見えてきた。階段はさらに上へと続いている。けれども指定された階数は二階なので、このドアであっているのだろう。
良晴は、ドアの隣に備え付けられたインターホンを押した。すると、ピンポーンと部屋の中から音が聞こえた。
ガチャリとドアが開かれた。
京佳が出てくるのかと思っていたら、知らないおっさんが出てきた。
「のわっ!」
たまらず、良晴は声を上げてしまった。
「す、すみません」
おっさんに対してでも、さっきの素っ頓狂な声は失礼だった。
「いや、大丈夫だよ。それよりも、君が常井良晴くんだね?」
この白髪混じりで皺の多いおっさんは、にこやかに良晴の名前をいいあてた。
「そうですけど、北沢さんは……?」
「ああ、彼女ならあとから来るよ。とりあえず、中に入るかい?」
「でも……」
このおっさんは何者なのだ? 知らないおっさんの言うことをきいて、問題ないだろうか。
……おっさんは京佳の名前を知っていたのだ。ならば、京佳と何かしらのつながりがあるとみて間違いない。だが、それがどういった関係なのかは推測できない。一方的に知っているだけかもしれない。
………………。
こんなに考えても仕方がない。まあ、常識的に考えて、入っても大丈夫だろう。
「おじゃまします……」
入る決心をつけた良晴は、おずおずとおっさんが開けたドアをくぐり、部屋の中に入っていった。
まるで事務所のようだった。
少なくとも住居ではなさそうだ。
部屋の中心には、ソファが対になって置かれており、そのソファとソファとの間に小さなテーブルがあった。さらに部屋の奥、窓側には、事務机と椅子のセットが一つ。
「どうぞ座って」
とおっさんは右のソファーを指す。
言われたとおりに腰を下ろすと、革張りのソファへ身体がグッと沈み込んだ。いい座り心地だ。
おっさんは部屋の奥、ついたての向こう側に、引っ込んでいた。
しばらくすると、お茶がのったお盆を持って、良晴の方に戻ってきた。
「あっ、お気遣いなく……」
と言われてお茶を戻したら、かなり変だ。
「どうぞ」
もちろんおっさんは、良晴の言葉を聞かずにお茶を出した。
おっさんはついたての奥にまた引っ込んでいった。しかし、今度はすぐに戻ってきた。お盆をしまいに戻っただけのようだ。
戻ってきたおっさんは、良晴の向かい側に腰を下ろした。
「…………」
「…………」
ずずずと両者お茶を飲む。
良晴は思った、どうすんだこれ。
初対面のおっさんと何を話せばよいのだろう、良晴がそう考えていると、目の前にいるおっさんが口を切った。
「自己紹介がまだだったね。僕の名前は柳川というんだ」
「これはどうも。俺の名前は……」
「常井くんだよね?」
そうだ。さっき名前を確認されたのだった。
「…………」
「…………」
ずずず。
二人とも、ほっと一息ついた。何者かが調和を取っているかのように、二人はシンクロして息をついた。
しばしの間ができる。
すると、良晴の意識外に追いやられていたドアが、古びた音をたてて開かれた。
「あら、あなた、先に来てたのね」
京佳が部屋の中に入ってきた。
「やあ、来るの遅いじゃないか」
「私にだって色々あるのよ。それにあなたが早すぎる、というのもあるわ。あなた、暇なの?」
「暇かだって? ほっとけ」
京佳は、鞄をロッカーにしまうと、座っている良晴に近づいていった。
「さて、それでは話を始めましょうか」
「さっさと始めてくれ」
「……あなた、いちいちうるさいわ。少しの間静かにしてもらえるかしら」
「スイマセン」
仕切り直しのため、京佳は一度咳払いをした。
そして、良晴から見える位置に立って話を始めた。
「いきなりだけど、あなた今、能力が使えないわね?」
「うぶぶっ!」
そのことを、ピタリと言い当てられて動揺した良晴は、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。
「だ、大丈夫かい? 常井くん」
柳川さんは、良晴の噴水を瞬発的に避け、吐き出されたお茶を処理すべく、ついたての向こうから布巾とタオルを持ってきてくれた。
それに対して京佳は……、
「汚いわ」
と一蹴するばかりであった。
やがて、噴出されたものの片付けが終わる。
「で、なんで能力がなくなったこと、知ってるんだよ」
「それも含めて、今から話を進めるわ。もうお茶、吹き出さないでね」
「わかっとるわ。吹き出したくて、吹き出したんじゃない」
こほんと、京佳はまた咳払いをする。
「実は、私たちはある結社の一員なの」
「はぁ……。結社……?」
「そう、結社。結社の名前は『流氷と月光』。ドイツに本部があって、世界各地で活動しているの。結社の目的は、能力の研磨と研究。決して怪しい組織ではないわ」
自分で「怪しい組織ではない」とか言っちゃうのかよ……。
「それで?」
「それで、一ヶ月前、本部の研究室から奪取の補助機——補助機名は『癒着した霧』——、が何者かによって盗まれてしまったのよ」
「ちょっと待て、結社の話までは理解できた。だが、補助機……? の話から急に理解が追いつかなくなった。そもそも補助機ってなんだ?」
良晴は補助機という言葉を今初めて聞いたのだ。
「そうね、そこの話もしなければならないわよね」
「そうだー。してくれー」
「……うるさいわよ?」
キリッと京佳は睨みをきかせた。
「はい……」
鋭き眼光に射抜かれて、これには良晴もおとなしくならざるを得ない。
「補助機というのは、能力に作用したり、能力を利用して作動したり、他にも色々な種類の……なにかしら………………おほん! とにかく能力に関する機械なのよ。これらは我が結社で開発されているの」
結社の業績を他者に紹介できると、京佳は誇らしげに胸を張りながら、補助機の説明をした。
「へー」
だが、補助機の説明を聞いても、良晴は特に大きな反応を示さなかっため、京佳は少し落胆してしまった。
「ごほん! では話を戻すわね。補助機を盗まれた結社は、血眼になって捜査を行ったわ。そしてある一人の人物をあぶり出したのよ! ああ、なんという捜査能力! さすが我が結社だわ! 他の組織ではこうはいかないでしょうね」
いつの間にか、京佳の口には熱が入っていた。彼女は自己の結社を、誇りに思っているのだ。それゆえ、結社の業績は彼女の業績であり、結社の過失は彼女の過失でもあった。彼女は自己を考えるとき、結社を考えずにはいられないのだった。それほどまでに、自己と結社を結びつけていた。
「それで盗んだのは誰だったんだ?」
「それは……! こいつよ」
京佳は制服の胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
この顔に良晴は見覚えがあった。先日、たい焼きを買った帰り道に、衝突を起こした人物だ。
「こいつ……」
「あなたは知っているでしょうね」
問いかけに、良晴はコクリと頷いた。
「そして、この人物の盗んだ癒着した霧は、能力を対象から切り離し、機巧内部に閉じ込めるの」
……ああ、そういうことか、合点がいったぞ、俺がここに呼ばれたわけが。
「つまり、俺が能力を失った原因は」
「この男に奪われたからよ」
能力を奪われた。人に能力を奪われた。そんなことが可能か? 可能……? 俺は能力を失っているのだ。それなのに可能もクソもあるか! それを考えるのなら、能力が消えることなどありえるのかを考えるのだな! ははははは! ここ最近、驚きの連続だ……! 信じられないことばかりだ。疑うことが多い。信じられないなら疑うしかない。だが、疑うばかりが能ではない。現実的に考えれば、疑いは無意味であり、捨てるべきなのだ。それを現実が証明しているのだ。
「あなた、大丈夫?」
良晴の瞳は貪欲に見開かれていた。まるで瞳が、世界を吸収しているようだ。大気すら……、物質すら……。
「ああ、大丈夫だ。気にしないで話を進めてくれ」
「そう、大丈夫なのね? ……それじゃ、話を進めるわ。この人物の名前は、菊池省吾というの。菊池が日本、それもこのあたりの地域に逃亡してきたというので、私たち、流氷と月光日本第五支部は、彼を捕縛するよう本部から命じられたのよ。そして、ここからが重要なの、あなたにとっても」
良晴の喉がゴクリとなった。脅すような口調で、一語一語焦らすように、京佳が区切りをつけて言ったのだ。
「変に緊張させるなよ……」
手に汗がにじんでいた。それに気づいた良晴は、左手を軽く開閉させた。
「ふふっ、ごめんなさいね。そんなつもりはなかったのよ。さて、あなたはこの男に能力を奪われてしまった。なのでしばらくは、私たちと行動を共にしてもらいたいの」
「共にって……、四六時中?」
「さすがにそこまでは要求しないわよ。あなたには、私たちの不祥事で迷惑をかけてしまった。そして今後、菊池があなたにちょっかいをださないとも限らないでしょう。なので、あなたを守るために、本当は私たちの手の届く範囲にいて欲しいの。
でも、四六時中私たちと一緒にいたら、疲れてしまうでしょう? なので、たまにでいいの。気が向いたときにぜひ、この第五支部に顔を出して欲しい。そうすれば、あなたが無事だって確認できるから」
京佳の声は哀願するような調子になっていた。良晴に何かあったら、純白な結社の名に傷がつく。そんなことあってはならない。
良晴は良晴で、この申し出を受け入れるか考えていた。
こんな奇っ怪な事件に巻き込まれているのなら、誰か頼りになる人に助けてもらったほうがいい。これはその絶好の機会だ。
「ああ、分かった。たまに寄るよ」
「本当? 嬉しいわ!」
良晴の手がガシッと力強く握られた。そのままブンブンと上下に激しく振られる。
「わかった、わかったから。手放してくれ! 腕もげる!」
「ごめんなさい……」
パッと放たれ、右手が自由になる。
「これで私たちの話はお終いよ」
やっと話が終わったみたいだ。特に疲れはしなかった。
彼らが話をしている間、柳川さんはお茶を飲みながら、のほほんとしていたようだ。
「そういえば、俺が能力を奪われたとどうやって知ったんだ?」
結社が持つすごい情報網とか?
「それは……」
突然、階段へつづくドアが勢い良く開かれた。
良晴はビクッと身をすくませたが、他の二人は平然としており、関心を寄せなかった。
何事かと思い、良晴はドアの方を振り返った。するとそこには奈緒が立っていた。きょとんとしてしまった。いきなり現れた彼女、彼女の存在を認められないでいた。認められないでいた、というのは少し大げさかもしれない。だが、なぜ彼女がここにいるのだろうと、一瞬でも彼女の存在を否定しようとしたのは確かだ。
良晴の動揺に反して奈緒は、
「やあ」
と何気なさそうに言った。
「やあ……?」
「………………」
「………………」
「やあ、じゃなかったら、こんにちは?」
「こんにちは?」
「こんにちは」
端から見るとなにがなんだか分からないやり取りを、彼らは大真面目にしていた。良晴は「こんにちは」と返されて全てを納得した。彼女の「こんちには」は、落ち着きを帯びていて、日常の効力を持ち、良晴に日常を伝染させた。驚きが拭い去られ、彼女との関係は思い出された。
だが、彼らにとっては真面目でも、他人にとっては意味不明だ。意味不明なやり取りを断滅すべく京佳が一歩乗り出した。
「あのね……」
「なに? 京佳ちゃん」
「あなたたちはそれで通じ合っているの?」
「うん。通じ合って、 」
「 いるよ」
連携して喋る奈緒に、京佳はため息をついた。
「あっ、そうか。村江が北沢に伝えたのか」
これまでの脈絡を断ち切るように良晴が言った。先ほど中途半端になってしまった話の続きだろう。つまり、能力がなくなったのを、京佳がどうやって知ったかについて。
良晴は能力が使えなくなったと奈緒に相談したのだった。
「そうよ。彼女は我が結社の一員なの。彼女がいなかったら、補助機の被害に遭った人——つまりあなたを発見できなかったでしょうね」
「いや〜、そんなに褒められても〜」
「誇っていいわよ、奈緒」
「えっへん」
飼い馴らされている!
「これからも頑張ってね」
「うん、頑張るよ! ありがとう、京佳ちゃん」
しかもエサ代は安い! 褒めるだけだ!
奈緒をあやし終わった京佳は、改めてと良晴に向き直った。
「まあ、なにはともあれ、これからよろしくね。常井くん」