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駅前は騒がしかった。人々が行き来し立てる靴音、バスやタクシーがロータリーを走る走行音、電車が放つ甲高いブレーキ音、そして人々の話し声、これらが入り混じり一つの波長を作り出していた。その波長は鈍くぼんやりと、良晴の耳に届いていた。
たいやき屋は、西口から少し歩いたところにある。建物の一階一角に設けられた店舗では、おっさんが街路から見えるかたちで、たい焼きを焼いていた。焼きあがったたい焼きは、金属製のスタンドへ順々にセットされ、強制的に立たされていた。
平日の夕方なので、他に客はなかった。
店の立て看板にはメニューが書かれていた。この店のたい焼きの名前は、『逃げないたい焼き』(略称は『逃げたい』)である。たい焼きの中身は、あんこの他にカスタードとチョコレートがあった。
良晴が奈緒に頼んだのは、正統派であるあんこのたい焼きだ。
おっさんのもとに、奈緒が近づいていった。
「いらっしゃい!」
「こんにちは。たい焼き七つください」
注文するときに、商品名を言う人と、その食べ物の名前を言う人がいる(この場合、商品名は逃げないたい焼き、または逃げたい、食べ物の名前はたい焼き)。奈緒は後者だった。
「はいよ」
おっさんはすでに焼いてあったたい焼きを紙の袋に詰めていく。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ……。
「あっ……」
奈緒は自分も食べたかったので、良晴と同じあんこのたい焼きを二つほど余計に買ったのだが、彼の分と自分の分、一緒の袋に詰められてしまった。彼女は二つの袋に分けてくれるのが当然だと、何故か思い込んでいた。もちろん、事前に伝えなければ、そうしてくれるはずはない。おっさんはせっせとせっせと仕事をこなすので、奈緒は口をはさめなかった。
おっさんは七つ目を詰め終わる。
「はいよ、九一〇円ね」
奈緒は一〇〇〇円札をおっさんに渡し、お釣りの九〇円とたい焼きを受け取った。
たい焼きが入った紙袋は、ビニール袋の中に入っているので持ちやすい。左手にそれを提げながら、奈緒は良晴のほうへ戻っていった。
「ほら、買ってきたぞ」
「はやくくれ!」
焦る良晴、まるで猛犬。
こんなに欲しがっている良晴を見ると、奈緒は意地悪をしてみたくなった。
「まだ、ダメだ」
「はぁ? なんでだ……」
良晴が言い終わる前に、奈緒は次の言葉を放つ。
「そんなに欲しいのか?」
「欲しい、欲しい!」
「常井、本当に犬みたいだな。試しにワンって鳴いてみ?」
「ワンワンワン!」
彼の辞書に羞恥心という言葉はない。食欲は何ものにも勝るのだ。ああ、至福がすぐそばにあるのに、なにを躊躇う必要があろう。ワンワンワン!
「ほら。ご褒美だ」
奈緒は袋をゴソゴソとやり、たい焼きを一つ取り出した。それを良晴の目の前に差し出す。
良晴は待ってましたと言わんばかりに、すぐたい焼きにぱくついた。
……ぱくつけなかった。歯型をつけるすんでの所で、奈緒がたい焼きを引いたのだ。良晴の歯は虚しく空を噛む。
「……わん?」
という奈緒の問いに良晴は、
「ワンワンワン!」
とやけくそ気味に答えた。
良晴は今度こそたい焼きにありつけた。
自分が賭けに勝ったのに、なんでこんな目に遭わなければならないのだろう、と良晴は微かに思ったが、たい焼きを一口食べると、そんな思いは遥か彼方に飛んでいってしまった。
たい焼きを買ったので、良晴たちは今日の目的を果たした。今はあてどなく街を散策している。このままでいたら日が暮れるまででも、散策を続けるだろう。それはそれで時間を無駄にしている気がすると、良晴は感じていた。
村江と話をしどこに行くか決めるべきだろうか。……いや、このままのんびりぶらぶらするのも、いいかもしれない。
彼らはどんどんと駅から離れていく。
歩きながら食べるのもはしたないと思ったので、彼らは一人一つずつ食べ、残りのたい焼きには手をつけないでいた。
たい焼きは良晴の手に移っている。
文房具屋が目に入ったとき、良晴は今日の授業中、シャープペンシルを壊してしまったことを思い出した。
文房具屋の前を通って良かった。すっかり忘れていたので、買い忘れるところだった。今ここで文房具屋を見なければ、家に帰ってからもシャープペンシルが壊れていることを、思い出さなかっただろう。
すると、明日の授業は、教室に転がっている鉛筆でこなさなければならなくなる。それは辛い。鉛筆は使っていると芯が太くなり、書きづらくなる。鉛筆のさきっぽは丸まるが、使っている本人はトゲトゲしくなる。
小学校のころはよくこんなものを使えていたなと、良晴は大変不思議に思った。
「ちょっと文房具屋寄っていってもいいか?」
「ああ、構わないけど」
「今日、シャーペン壊れたんだ。まったく、ヤワな野郎だったぜ。ちょちょいと使っただけで、すぐ壊れやがる。あれを買ってからまだ六ヶ月しかたっていないのに……。あれとの関係は一体何だったんだ。あんにゃろう、俺を裏切りやがって!」
良晴はシャープペンシルに対する不満を、グチグチと語った。
「ハッ!」
奈緒はそれを一笑にふした。
「六ヶ月で壊すなんて物使いが荒いなぁ。シャーペンなんてどうやったら壊れるんだ。私は一度も壊したことないぞ。常井の扱いが悪かったから、シャーペンも愛想つかしたんじゃないか?」
「ちげーよ! 俺は乱暴に扱っていない! 極めて一般的に使っていた! 俺の扱いに関係なく、前からガタが来てたんだ。そして、そのガタが今日になって爆発しやがったんだ!」
「それで、その壊れたシャーペンはどうしたんだ?」
「教室のゴミ箱につっこんできた」
良晴は物事にあまりこだわらない質なので、シャープペンシル選びはすぐに終わった。彼は、今まで使っていた三〇〇円のものより二〇〇円高い、五〇〇円のシャープペンシルを買った。
良晴が文房具屋を出ると、外で待っていた奈緒が「そろそろ戻るか」と言ったので、彼らは駅の方へ足を向けた。
歩きながら彼らは会話を続けた。そして会話に気を入れすぎたために、良晴は前から近づいてくる男性に気づけず、肩と肩とをぶつけてしまった。
男性の身長は、一八〇センチメートル程と、良晴よりも高かった。冷たく、全てを見透かした石のような瞳で、男性は良晴を見た。その瞳には感情がこもっていなかった。ただ冷淡に物事を識別しようとする瞳であった。しかし、決して穢らわしいものではなかった。
「失礼」
良晴が謝るよりはやく、男性は気遣いの言葉をかけ、何事もなかったかのように去っていった。
良晴は呆然としていた。予期しない出来事に驚いたからでもあるが、それよりも彼には、高所から地面を窺ったような不安定さ、そして身体の芯を掴まれたようななんともいえぬ感覚があった。
その感覚はどこから来たものなのか、なぜ感じたのか、彼は考えてみたが、結局知ることはなかった。
やがてハッと意識をとり戻した。
「大丈夫か?」
心配した奈緒が、調子を訊いてくる。
「ああ、ちょっとぶつかっただけで、大したことはない」
良晴が受けた影響といえば、先程の異質な感覚だけであった。けれどもその感覚はもう過ぎ去ったので、特に問題はない。
「なら良かった。きちんと前向いて歩かないからだよ。それにしても、さっきの人、やけに冷静だったな。まるでぶつかれと命令された機械のようだったよ。新手のスリかもしれんぞ」
良晴は、素早く財布を確認した。男性の姿はもう見えないので、財布がなかったら完全敗北だ。
……大丈夫、取られていない。
「……あったか?」
「……あった」
二人はほぅと息をつく。
焦りが少しもなくなると、良晴はざわめきを感じた。先ほどのよりは軽度な感覚なのだが、気にしないで良いものではない。何かを忘れているような、ぽっかりと何かがなくなった感覚。
「あっ!」
良晴はその正体に気づき、自身の手元を見た。
しっかりと握られていたはずのたい焼きは、どこかにおさらばしていた。
俊敏に周囲を見渡すと、陸に打ち上げられ、通行人に踏み潰され、見るも無残な姿へと変わり果てたたい焼きを発見した。
男性とぶつかった拍子に、良晴の手から離れてしまったのだろう。袋に入ったまま着地してくれれば、なんとか食べられたものの、たい焼きたちは、自由気ままな旅をしたかったようだ。待ち受けるものが身の破滅だとしても、人間に食べられるよりはマシだというのか! なんという反抗的なたい焼きだろう。
「ノオオオオオオオオオオ!」
良晴は踏み潰されたたい焼きを見て叫びを上げた。
ああ……、俺のたい焼きが……、これからの至福の時間が全て無に……、なんでこんな……。
「こらっ、うるさい」
お仕置きのげんこつが良晴にとぶ。
「あだっ!」
変な学生がいると、皆々様は二人をチラチラと見た。
自分たちを見ている視線に気づいた奈緒は、こんな辱めはないと思い、少し紅くなった。
「アホみたいに大声を上げるな! おまえは何なんだ! ふざけているのか! このクズ野郎め!」
「す、すまない」
良晴と奈緒との付き合いは、入学してからのものであるのだが、良晴は未だにこの罵倒の連撃には慣れなかった。彼女は感情が高ぶると、なんの躊躇もなく相手を抉るのだ。
「たい焼き、残念だったな……。また買ってやろうか?」
暴言を吐き静まった奈緒は、彼の落胆を推し量り労った。
「いや、いいんだ。これも俺がたい焼きに好かれなかったのが悪いんだ。来世では好かれる存在になりたいな……」
これは本格的にまずい。全くもって意味不明だ。
うぐっ……、めんどくさいことになったな……。とりあえず話合わせておくか。
奈緒はそう思い、彼が言っている内容を詳しく考えずに、会話を進めようとした。
「そうだな、なれるといいな」
「ああ……」
良晴が受けた傷は、思いの外深かった。