4-2
隣を歩く奈緒は、いかにも平然とした様子だ。黙っている京佳のことを、気にもとめなかった。京佳のように内心であれこれ考えず、慌てても仕方ないと観念していた。
奈緒は京佳からの電話で、この第二支部へ呼び出された。
良晴が帰ってくるまでの沈黙に、京佳は一人で耐えられなかった。誰か側にいて欲しかった。
柳川さんは、能力を超過使用してしまったため、自宅で寝込んでいる。こちらは、三日も横になっていれば、全快するだろう。
京佳たちは今、支部長室に向かっている。良晴について話したいことがあると、長宮に言われたのだ。
長々と続く蛍光灯の廊下は、京佳の不安を募らせるばかりであった。
「支部長室」というプレートの貼られたドアの前で、京佳は立ち止まった。
この間、京佳と奈緒とのあいだに会話はなかった。
ドアをノックすると、
「入っていいいぞ」
と部屋の中から返答があった。
「失礼するわ」
「どうもこんにちは」
京佳は、先程の不安に飲み込まれた姿から打って変わって大胆に、奈緒は、控えめに挨拶をした。
支部長室の広さは、第五支部と同じくらいだった。
「そこに座ってくれ」
長宮は、向かい合って設置されたソファの片方を示した。
彼女らが座ると、長宮も向かい合ったソファに腰を下ろした。
「それで、常井くんの様子はどうなの?」
「いきなり本題に入るのか」
「当たり前でしょう」
京佳は苛立ち気味に言った。良晴の状態をいち早く知りたかったのだ。まどろっこしい話はしていられない。
なんで長宮は、こんなにのんびりとしていられるのだろう。仲間が倒れたという大変な事態なのに。
この人には真剣みが足りていない。もう少し緊張感をもったらどうなのだ。
常井くんは無事なのかしら。どうして倒れてしまったのだろう。
……常井くんが倒れてしまったのは、私が守りきれなかったせいだ。私はとんだ役立たずだ。彼を初めて結社に招き入れたとき、迷惑をかけてしまった彼を守ると、約束したではないか。私は約束を守れなかった……。
だから私は、彼のために全力を尽くさなければならないのだ。なんとしても、彼を元の生活に戻してみせる。
「そうだな、彼は安全であるといえば安全であるのだが、危険な状態であるといえば危険な状態だろう」
「何よそれ、意味が分からないわ」
ぶっきらぼうに京佳は言った。
長宮のからかっているともとれる発言に、京佳の苛立ちは加速していった。
抑えようのない苛立ち。
世界の不真面目さを呪った。
もうたまらない。このまどろっこしさに我慢ならない。早く常井くんを元の状態に戻してあげたい。
「言葉そのままの意味だ」
「ふざけるのもいい加減にしなさいよ!」
「ふざけてなどいない!」
全てを絶する勢いで、長宮は言い放った。
この反撃は鋭かった。京佳の身体をピシャリと打つように寸断した。断面から冷水が流しこまれる。
「君の欠点は予期せぬ事態が発生すると、周りが見えなくなってしまうことだ。上に立つ者としてそれではならない。僕の前では動揺を隠しているつもりだろうが、全く隠しきれていない。動揺に上乗せされた虚栄が、却って動揺を際立たせている。自身でこの欠点に気づき、徐々に直してきたつもりだろうが、まだ完全には直しきれていない。少なくとも他人の前では、心を静めるんだ」
京佳はしばらくの間、動けなかった。
私は冷静さを欠いていたのか。そうだ、確かに普通ではなかった。でもこれは常井くんのために……。
それは言い訳だ!
常井くんを担保に免罪符を発行しているだけだ。私の欠点を偽装する哀れな証書たち。そんなもの破り捨ててしまえ。
「ごめんなさい……」
京佳は素直に謝った。
「いいや、構わない」
あの京佳ちゃんと長宮さんが和解しているなんて珍しいなと思いながら、奈緒はこの情景を見守っていた。
「それで肝心の常井の様子はどうなのですか?」
「ああ、さっき僕は、『安全であると言えば安全であり、危険であると言えば危険である』と言ったな。あれは嘘ではない。北沢に説教するために言った装置だと思われては困る」
「あなた、装置だなんて……、そんな気があったの……?」
「装置ではないと、言っているだろう」
「本当かしら。でもそんな発想はあったのよね」
「……言ったあとに気がついたのだ」
「あの……、話を進めて下さい」
喧嘩しそうな雰囲気が感じられたので、奈緒は先の説明を促した。
「そうだな。こんなこと言っていても仕方がない。話を進めよう」
「ええ、不服だけどそうしていただきたいわ」
「…………」
長宮は不服という言葉に反応し、ぴたりと動作をやめてしまった。
「ささ、お話しを続けて下さい」
このままだと本当に喧嘩が始まってしまうと思ったので、奈緒は滑らかに動作を開始させた。
「まず、どのような点が安全であるか。彼は徐々に回復しつつある。いずれ目を覚ますだろう」
「本当……?」
京佳はおそるおそる訊いた。彼女にとって、良晴が目を覚ますかどうかは、重要な事項だ。全ての憂いの元凶である。これがクリアされれば、彼女の気持ちはもっと軽くなるだろう。
「ああ、本当さ。いくら僕でもこんなことで嘘はつかない」
「そう……」
京佳は安心したように息をついた。
「さて、次は危険だという点について。彼が倒れた原因につながることなのだが……」
「原因が分かったの?」
京佳は思わず口を挟んでしまった。良晴が倒れた原因は、京佳が知りたがっていたことの一つだ。
「ああ、分かるさ。常井くんが倒れたと聞いたとき、おおよその見当はついていた」
「そんなに分かりやすい原因だったの?」
「いいや、目に見えないものが原因となっていたので、分かりやすいとはいえないだろうな。その推測がパッと思い浮かんだだけだよ。そして彼の身体を調べていくうちに、推測は確信へと変わった」
「それで、その原因は?」
「原因は、能力に対する恐怖だ」
「恐怖?」
京佳はもちろん意味が分からなかった。
能力に対する恐怖とは、一体何のことだろうか。
私はそんな恐怖、感じたこともない。
能力に恐怖するなど、普通の考えでは思い至らない。
我々は人間に恐怖するだろうか? ——しない。
我々は太陽に恐怖するだろうか? ——しない。
我々は草木に恐怖するだろうか? ——しない。
それと同じように能力とは、身近にあるものであり、あって当たり前のものだ。決して恐怖の対象にはならない。
無論、能力を使って罪を犯す者もいる。だがそれは、人間の狂気に能力が使役されているだけであり、能力自体に恐怖することはない。
「詳しく言おう。
補助機によって能力子を奪われた彼は、他人の能力子が発するオーラ……とでもいえばいいのかな? に対して無防備になった。自身の持つ能力子が、他人のオーラに対する免疫となっていたのだ。能力子はオーラを打ち消していた。
能力子を失った彼は、オーラを打ち消せず、恐怖に侵食されていった。能力子を失い異質となった彼は、正常な、能力を持つ者を本能的に恐れた。それも無意識のうちに。身体が拒絶していたともいえるだろう。
そして溜まりに溜まった恐怖は、北沢が菊池の住み処で能力を使用したときに、爆発してしまった。能力子に対する恐怖は堆積するのだ。蓄積した恐怖は、限界値に達し爆発した。
正常な人間ならば誰しもが、能力子を持っている。それはαであれεであれ同じことだ。能力を使用できないεでも、能力子自体は体内に存在しているのだ。なので他の人間を恐れることはない。
誰もが所持している能力子を失った彼は、世界で唯一の能力子不所持者となった。こんな人間、我々は見たことも聞いたこともない!」
長宮の饒舌はここで終わった。
「つまり彼は、正常な能力所持者に対して、恐怖を感じるようになってしまったのだ」
と長宮は付け足した。
京佳と奈緒はしばらくの間ぽかんとしていた。長宮の言ったことを理解するのに、時間がかったのだ。
「まあ、大体の話は理解できたわ。信じられないけど」
恐怖だとかなんとか言われても、実感がない。
「僕だって信じられないさ。でも実際はそうなっているんだ。それで、危険だという点は、このまま能力子が戻らなかった場合、彼は外を歩くことができなくなってしまう。外で他人と顔を合わせるたびに気絶していたらたまらない。一人や二人ならまだ持ちこたえられるだろうが、それ以上になるともうダメだ。すぐさま病院行き」
「それは危ないわね。常井くんが引きこもりになってしまうわ」
「ふふっ、常井が引きこもりなんて、ふふっ、それはそれで面白いかもな、ふふっ」
「こらっ」
京佳のげんこつが奈緒の頭に炸裂する。
「あだっ!」
「面白いわけないでしょう。あなたも能力子を失いたいの?」
京佳は、背筋も凍るような恐ろしい笑みで言った。もちろん冗談だろうが……。
「そ、それは勘弁だ」
奈緒が反省したのを見届けると、京佳は長宮に向き直った。
「能力子を失ったのが、恐怖を引き起こす原因なのなら、能力子を取り戻せば、常井くんの恐怖は消えるのよね?」
「おお、鋭いな。まさにその通りだ。今、常井くんには少量の能力子が戻っている。だがあれではダメだ。全ての能力子を戻さないと、彼は回復しない」
京佳は、能力子を取り戻そうと、密かに計画を立てることにした。