7話
ルチアはアーサーの私室で、いつも二人でお茶をしていたソファーに腰をかけていた。向かい側にはにこやかな笑顔のアーサー。アーサーと笑顔でお茶をするのはいつものことだが、アーサーの顔に浮かぶ笑顔は余所行きのもので、そのことが少し悲しい。
「どうしました?」
「え?」
「表情が一瞬、曇りましたよ。何か気になることでもありましたか?」
相変わらずルチアに関しては気持ち悪いほど察しが良いアーサーである。ルチアを含め、部屋に居る全員が「本当に残念なくらい変わらないな」とため息をこぼした。
「あなたの心を曇らせているのは、ご婚約者のことですか?」
「え? そう言われると、そうなのかしら……?」
「そんなにあなたに想われているなんて、本当に羨ましい。……妬ましい」
心の声が駄々洩れである。ニコニコ笑いながら距離を詰めてくるアーサーを見つめながら、ルチアはアーサーの顔色を眺めた。
怪我をしたと聞いていたが、顔色は悪くない。一部の記憶を失った以外はすこぶる健康のようだ。早い段階であの少女――ミレニアが見つけてくれたらしい。それに関してだけは、あの少女に感謝するしかないだろう。
「……あの、」
「え?」
戸惑ったような声が思いがけず近くから聞こえ、ルチアの意識は目の前の何か――アーサーに向かう。どうやらルチアは無意識にアーサーに身を寄せ、右手で頬や後頭部を撫でていたらしい。本当に怪我が治ったのか、確認したくなってしまったのだ。
そのことに気が付いて「……失礼しました」と言ってルチアは恥ずかし気に離れようとする。はしたない真似をしてしまったわ、と思っていると、アーサーがルチアの手を握って引き止めた。
「気にせず、気の済むまで触っていただいて結構ですよ!」
「……大丈夫です」
「遠慮なさらずに!」
「いえ、本当に大丈夫です」
きっぱりと断ると、アーサーの顔がしょんぼりとうなだれた。本当に変わらない。いつものアーサーそのものだ。
やっとアーサーが帰ってきたことを実感して、ルチアは笑いを抑えることが出来なかった。ホッとしたように笑うルチアを見て。アーサーが首を傾げる。
「何かおかしなこと、ありましたか?」
「いいえ、ごめんなさい。ただ安心して」
「安心?」
「あなたが無事に戻ってきたことが。怪我をしたと聞いたときは本当に心配しました」
「……心配? あなたが?」
「えぇ、もちろっ!?」
急に手を引き寄せられてルチアは驚いた。抵抗する間もなくアーサーの胸に引き寄せられる。そのままきつく抱き締められた。苦し気な息がルチアの頬をくすぐる。
「くそっ!」
「殿下?」
「そんな笑顔で俺のことを心配してくれるなんて、もう離すことができそうにない……!!!!」
アーサーの腕の中できつく抱き締められ、ルチアは不思議な安堵感に包まれた。なぜだかようやくアーサーが『ここ』に帰ってきたという気がした。
ルチアはアーサーの抱擁に抵抗せず、抱き締められたまま胸元に顔を押し付ける。そのことに動揺したのがアーサーだった。
いくら好ましい――むしろ狂おしいほど愛おしく思っている女性に、抵抗なく受け入れられているとはいえ、この距離感はまずい。何より相手は婚約者が居るのだ。
アーサーは理性を総動員してルチアの背中に回した腕を解こうとした。努力はすごくした。不思議なことに、腕は離れなかった。
「おかしい。溶けてくっついたのか?」
もちろんそんなことはないのだが、アーサーは真剣だった。もぞもぞと手を動かすアーサーに気が付いたルチアがそっと身を離す。
「あっ」
「え?」
「いや、なんでもない」
離れようとしていたのだが、実際に相手が離れると悲しい。アーサーは空っぽになった自分の腕を見て少し項垂れた。それから意を決してルチアを見つめる。
強い眼差しで見つめられ、思わずルチアが一歩下がった。その距離を詰めてアーサーがルチアの手を握る。
「ルチア!」
「はいっ」
「あなたに一目惚れをしました! 私の妻になっていただきたい!」
「それは……」
「分かっています。あなたに婚約者が居ることは……。それでも諦められません。私にはあなたしか居ません! 婚約者からあなたを奪ってみせます」
アーサーの目は真剣だった。力強い決意がその瞳には浮かんでいる。まったく必要のない決意だが。
どう説明したら良いものか。ルチアは悩んだ。困ったような顔で視線をさ迷わせる。口ごもるルチアを見て、アーサーは歯噛みした。ルチアの表情は、そのまま婚約者への気持ちを表しているように感じたのだ。
つまりルチアは婚約者のことが好きで、アーサーの気持ちは迷惑に思っていると。
「俺の気持ちは迷惑ですか? 迷惑ですよね。でも諦められません。とりあえずあなたの婚約者を教えてください」
「聞いてどうするつもりですか?」
「それはもちろん脅して……真摯に説得します」
漏れ出た本音が全てを台無しにした。そしてアーサーなら必ずやり遂げるだろう。
さて、どうしようか。ルチアは困った。――というか、少し腹が立ってきた。
あんなに好きだ。愛していると言っていたのに、一向に思い出す気配がない。本当にアーサーは自分のことが好きなのだろうか、と拗ねたくなった。
ルチアはアーサーから少し距離を取る。そしてにっこりと笑いかけた。
「ご自分で探してください」
「ん?」
「ご自分で探して、ご自分で説得してください」
思いがけないルチアの言葉にアーサーの目が丸くなる。
「俺が調べて説得して良いんですか?」
「構いません」
「説得出来たら、婚約者になっていただけるのですか?」
「なります」
ルチアはきっぱりと言い切った。はっきりとした回答にアーサーの方が驚いた。しかしルチアがはっきりと約束をしたことに、次第に目を輝かせ始める。
アーサーの脳裏にルチア奪還計画がすさまじい勢いで展開されていく。こうなってはアーサーは止まらないので、ルチアは帰ろうと思って扉の方に歩き出す。
「あ、殿下」
「はい、なんでしょう?」
どんなに考え込んでいてもルチアの声は聞き逃さないアーサーは、素早く振り返ってルチアの近くに侍る。
「全てを思い出してから、会いに来てくださいね」
「全て、ですか? 記憶に関してはお約束しがたいのですが……」
「いいえ。思い出してください。大丈夫です。調べていくうちに、思い出したくなりますから」
まるで予言のような言葉を残して、ルチアは立ち去った。後には奇妙な顔をしたアーサーが残される。
アーサーは少しの間、ルチアの残した言葉の意味を考えていたが、とにかく婚約者を調べなくては! と動き出す。
――アーサーがルチアの言葉の意味を正しく理解したのは、このすぐ後だった。
◇ ◇ ◇
遠くから馬の嘶きと、大地を力強く踏み締める蹄の音が聞こえる。それがやがて大きくなり、屋敷の玄関の前で止まった。制止する声が聞こえるが、相手は止まらないようで玄関の大扉が開けられる。
「来たわね……」
「門扉を突破したようですね。門兵が大慌てで走っているのが見えますよ」
困ったような声でマーサが紅茶の用意を始めた。無礼な訪問者の正体を察したのだろう。ルチアも手に持っていた刺繍を片付ける。
ティータイムの用意があらかた整ったころ、部屋の扉が大きな音を立てて開けられた。
「ノックもなしとはご挨拶ですね。お招きした覚えはありませんよ?」
「……ルチア、」
「っ!」
囁くような声がルチアの耳に届いた。懐かしい、親しみと愛おしさの籠った声。
ルチアは部屋に入ってきた無礼者――アーサーを振り返った。
「約束、覚えていますか?」
「…………」
「その様子だと、説得は出来たようですね」
「ルチア、」
「思い出したんですか? 全てを」
アーサーはルチアとの距離を一気に詰めた。長い腕で力強く抱き締めてくる。いきなりのことで驚いたが、抱き締める腕がわずかに震えているのを見て、ルチアは大人しくしていることにした。
しばらくぎゅっと抱き締めた後、アーサーが腕の力を緩める。見上げたその顔は今にも泣きそうな顔をしていた。
「思い出したみたいですね?」
「ルチア……本当に申し訳ない」
「何に対してですか?」
「何もかも。忘れたことも、変な女を連れてきたことも」
本当に心から落ち込んでいるのが分かって、ルチアは苦笑した。仕方ない。少し意地悪するのをやめるか。
キノコが生えそうなほどじめじめとした空気を纏ったアーサーをソファに誘導する。隣同士に座ったところでマーサが紅茶を用意して手渡してくれた。
「記憶は戻ったんですか?」
「何もかも。ルチアと出会った日から今日までのことを全て思い出したよ」
「私の婚約者、説得できました」
「勘弁してくれ……」
悲壮感漂う顔でアーサーが天井を仰ぎ見る。意地悪しないでくれ、と泣きそうな声で抱き着いてくるのでルチアはもう終わりにすることにした。
何より、記憶が戻ったことにルチアが一番安心していることに気付いたから。
自分を抱き締める腕が永遠になくなったらどうしよう。本当は今日、この瞬間まで心配していたのだ。
身体の力を抜いて、自分に身を預けてくるルチアに、アーサーは心からホッとした。全てを思い出したとき、文字通り身体から血の気が引いた。
心から愛おしいと思う存在を忘れていたこと。ルチアのことを他人と思って接していた自分が居たこと。ルチアの見知らぬ女を連れて帰ったこと。
自分がルチアの立場だったら、絶望で気絶するだろう。特に記憶喪失で自分のことを忘れられたら。
「本当に思い出せて良かった。あのまま忘れていて、ルチアを失っていたら俺は間違いなく発狂していた」
「……それはどうでしょうね」
もう離さない! とばかりにぎゅうぎゅうに抱き着いてくるアーサーを見てルチアは首を傾げた。マーサも微妙な表情で二人を見つめる。
「なに? ルチアは俺の愛を疑うの?」
「いえ、疑っていません。むしろ疑っていないからこその感想なんですけど……」
「うん?」
「あなたは私のことを忘れたままではいられないでしょう?」
思わせぶりに囁いてから、とても高飛車な言葉だなと思った。アーサーもきょとんとルチアを見つめる。しかし言葉の意味を呑み込んだ後、アーサーはにやりと笑った。
「そうだな。俺がルチアのことを忘れていられるはずがない。こんなにも好きなんだから」
そう言ってアーサーの顔が近づいてくる。ルチアはそれを見てそっと目を閉じた。
唇に優しい温度が触れる。軽く唇を食まれた後、それは名残惜しそうに離れた。目を開けるとアーサーが額をルチアのそれに押し当てて笑う。
「やっと帰ってきたって感じがする。俺にはルチアしか考えられないな」
「殿下……」
「ルチアが居れば、何にも要らない」
それはアーサーの心からの言葉だった。いつも思っていたけれど、今回のことで改めて実感したことだった。
いつもだったら恥ずかしそうに離れるルチアが身を任せてくる。それを良いことにアーサーはルチアを抱き締めて心ゆくまでルチアを堪能した。
「殿下、」
「うん? どうした?」
「私も、殿下のことをお慕いしています」
「……うん?」
聞きなれない言葉が聞こえてきた。アーサーは身を離してルチアの顔を覗き込む。
ルチアの頬は赤く色づき、瞳は少しうるんでいる。常にはないその様子にアーサーは狼狽えたが、ルチアは構うことなく、アーサーの顔を見つめた。
「好きです、アーサーのことが。……思い出してくださって、良かったです」
「っ!」
突然の告白にアーサーは息を呑み――そのまま意識を失った。その事態が予測できていたマーサは侍従を呼んでおり、倒れたアーサーを寝椅子に横たわらせるように指示を出す。
アーサーは常にルチアへの愛を叫んでいるが、それにルチアが応えるのは稀である。故にルチアが愛を返してくれることに耐性がないアーサーは、よくひっくり返っていた。
ルチアは離れようとしたが、アーサーの手ががっちりと手を掴んでいるので、離れられない。仕方なく、同じ寝椅子に腰かけてその寝顔を見つめた。
どこか幸せそうな顔をしているアーサーに、ルチアの心も温かくなった。
やっと、アーサーが帰ってきた。ルチアもそう思えた。
◇ ◇ ◇
巷で人気の小説がある。恋愛小説だ。
とある国の王子様は、幼いころに自分の国の侯爵令嬢と婚約をし、二人は幼少期を仲睦まじく一緒に過ごした。
ある日王子様は地方に視察に行き、そこで事故に遭ってしまった。
事故に遭った王子様は地元の心優しき女性に助けられた。しかし命を助けられたが、婚約者のことを忘れてしまった。
王子様は女性の献身的な支えにより回復し、王城に戻った。
記憶をなくしていた王子様は婚約者である侯爵令嬢を見つけ――再び恋をした。
侯爵令嬢に今一度一目惚れをした王子様は、愛の力で全ての記憶を取り戻し、再び侯爵令嬢に求婚をした。
王子様は侯爵令嬢に愛を囁き、それはもう鬱陶しいほど囁き続け、やがて二人は結婚をして幸せに暮らすという内容である。
どこかの国で起こった、幸せな二人の恋人がモデルだというのは、まことしやかに流れる噂である。
―END―