6話
目が合ったのは一瞬だった。ルチアがすぐに視線を逸らして顔を伏せたからだ。
情けない。どんなことがあっても、顔を上げて全てを受け止めるって決めたでしょう。心の中で自分をそう叱咤したけど、顔を上げることができなかった。
アーサーの瞳になんの感情も浮かんでいなかったら、と考えたら見続けることなんて出来るはずがない。
アーサーがルチアを見るときは、瞳にまでその愛情が滲んでいた。甘く蕩けそうな視線をルチアに向けていたのだ。それがなかったら、それが指す意味は――。
(運命は、変えることができないの……?)
各国で起こっている婚約破棄騒動。逃れようのない運命。一度巻き込まれたら、待っているのは決まった結末だけだ。
王子様の婚約者に決まった瞬間、ルチアの運命は決まっていたのかもしれない。それならば、どんなに足掻いても、結末はルチアの望まぬほうに転がってしまうのだ。
(アーサーを失う……)
想像したこともないような喪失感がルチアを襲う。深い絶望がルチアを包もうとしたとき、何かがルチアの手に触れた。
「え……?」
驚いて顔を上げれば、手を取っていたのはアーサーだった。その瞳には何故か怒りが浮かんでいて、アーサーからは受け止めたことのない感情に、ルチアは反射的に一歩離れようとした。
しかしアーサーはルチアの手を離そうとしない。それどこか、離すまいと握る力を込めてきた。
「…………どうして、」
「え?」
「どうして俺はこの素敵な女性について、何も知らないんだ!」
「…………は?」
想像もしていなかった叫びに、ルチアを含んだ全員がポカンとする。そんな周囲の反応を他所にアーサーは髪を掻きむしらんばかりに取り乱し始めた。
「信じられない! こんな素敵な人を見逃していたなんて! 俺の目は節穴か‼」
「えーと、」
「ハルモニー侯爵令嬢、でしたか? どうか愚かなこの私にぜひお名前を教えてください」
「ルチアですけど、あの、」
「ルチア! なんて素晴らしい響きだ! あなたにピッタリですね」
そう言ってアーサーが微笑む。なぜかルチアの腰を抱き、アーサーはどんどんルチアとの距離を縮めてきた。ルチアにとっては、いつものアーサーの距離感なので何も疑問に思わずそれを受け入れてしまう。
それを良いことに、アーサーはどんどんルチアに迫っていった。ちなみにミレニアのことは放置である。すでにアーサーの頭から、その存在は消えていた。
「ルチア、素敵で素晴らしい君のことだ。もちろん婚約者はいるんだろうね?」
「婚約者? えぇ、そうね。居ると言えば居ますね……?」
「やはりか……。ちなみに結婚の話とかどうなっているのかな?」
「一年後に挙げる予定ですが……」
「なん、だと……!」
もうそんな具体的に決まっているのか。時間が足りない。早急に手を打たなくては。アーサーがぶつぶつ言いながら思案する姿に、ルチアはホッとしたような、泣きたいような気持ちになった。
行動そのものはアーサーのままだが、ルチアのことは完全に忘れてしまったらしい。自分が婚約者だとは夢にも思っていないようだった。
「あなたは、その、相手のことを想っているんですか?」
「はい?」
「そうですよね。想っていますよね! くそっ。あなたに想われているなんて、想像するだけで相手を八つ裂きしたくなる。……いや、八つ裂きでは足りないな……」
物騒なことを言っているが、アーサーの言っていることを実行すると、アーサー自身が細切れにされて豚の餌にされてしまうのだが。
思ってもみなかった反応に、アーサー以外の全員が固まっていた。いち早く正気を取り戻したのは、ミレニアだった。彼女は慌てたようにアーサーの腕に取りすがる。
「で、殿下! 私のことをお忘れではないですか?」
「ん?」
ミレニアの顔に完璧な笑顔が浮かぶ。状況が違えば、目に映る人々の全てを魅了するような微笑みだった。
しかし目の前のアーサーには効かない。というか、その存在をすでに忘れかけていた。
沈黙したまま動かないアーサーの様子を見て、ルチアが助け船を出す。
「殿下を助けてくれたお嬢さんですよ。お礼をするためにお連れしたんでしょう?」
「あぁ、そうだった」
「良かった! 思い出してくれたんですね。私、とても楽しみにしていたんですから!」
まさにウキウキといった様子でミレニアがアーサーの腕を引っ張る。しかしアーサーは動かなかった。その腕はルチアの腕に巻き付いていて、そのせいで妙に三人の距離が近い。
王妃はミレニアの言葉を耳聡く聞きつけ、チャンスとばかりにアーサーに質問した。
「アーサー、ミレニアさんへのお礼には、何をするつもりなの?」
「ミレニアは生まれ故郷を出たことがないそうで、一度王都に行ってみたいと言われたんです。観光の案内も約束していて……」
「そうなんです! 殿下と二人で! 出かける約束をしたんです!」
ミレニアは勝ち誇った顔でルチアに大きく宣言した。ミレニアは遠回しにデートの約束をしたとルチアに伝えたのだ。それを聞いて、ルチアが何か言おうと口を開く。
しかしそれを遮る者が現れた。なぜかアーサーがルチアの前に立ち、ミレニアに頭を下げている。
「申し訳ない。ミレニア嬢、一緒に城下へ行くことは出来ない」
「え?」
「もちろん、観光ができるように手配する。私の代わりの者を用意し、その者に心行くまで案内させる」
「そんな……! 殿下が一緒に回ってくれると言いました! 私だけのために時間を作ると!」
約束をしたのに! と追いすがるミレニアを、アーサーは心苦しそうに――見る人が見れば分かる面倒くささを滲ませた瞳で見る。
「本当に悪いと思っているよ。でもやることが出来てしまったんだ。一分一秒も無駄にしている場合ではない」
「やること? なんですか、それ。私と出かけるよりも大事なことなんですか!?」
「はるかに大事だ!!!!」
大声を出して断言するアーサーに全員がびくりとする。しかしミレニアは諦めない。ある意味、アーサー並みに根性が据わっていた。燃えるような目で睨みつけられても、見つめ返すミレニアに、ルチアも近衛兵たちも感心する。
「私より大事なことってなんですか?」
「ルチアのことに決まっている!」
「ルチア? それってそこの女のこと?」
急に話題に出てきてルチアの心臓がどきりと跳ねたが、二人はお構いなしに会話を続ける。
変だ。ルチアも当事者なのに、ルチアを置いて話が進んでいっている。しかしルチアは賢明にも黙っていることを選択した。下手に会話に参加して、余計な混乱を避けるためである。
「そこの女だと? なんて失礼な女なんだ! いや、今はとにかくそんなことに構っている場合ではないんだった」
「ちょっと! 説明してよ! そうじゃなきゃ納得できないわよ!」
「俺はこれからルチアの婚約者について調査しなくてはならない。相手を徹底的に調べ上げて、後ろ暗いところを暴き出しルチアの婚約者から追い落としてやる。そして落ち込んでいるルチアを慰め、俺との婚約を……」
「ちょっと待ちなさい。腹黒い思考が駄々洩れているわよ」
妖しい笑みを浮かべて怪しい計画を述べ始めた息子に、王妃が待ったをかける。アーサーは慌てて口をつぐんでルチアを見た。長年の経験からルチアは何にも知りません、という顔をしてアーサーに微笑む。
ルチアが何も気づいていないという表情をしていることに安心すると同時に、俺に向かって微笑んでいる! という事実にアーサーはウキウキし出した。分かりやすくニコニコしてルチアの周りをウロチョロするアーサーに王妃は頭を抱えた。
「アーサー、ちょっと良いかしら」
「なんです? 今大事なところです」
「あなた、ルチアのこと何も覚えていないのね?」
「……どういう意味ですか?」
王妃の言葉に怪訝な顔をするアーサー。その表情は、完全に意味の分からないことを言われたという表情だった。どうやら本当に記憶から消えてしまったらしい。
これはどうやら話し合いが必要なようだ。そう考えた王妃は、侍従に目配せをした。意味をくみ取った侍従がアーサーに近づいていく。
「殿下、お部屋にお茶の用意をしております。こちらへどうぞ」
「そうか? それじゃあルチア、行きましょう」
「うん?」
アーサーが流れるような仕草でルチアの腰元を抱き、エスコートを始める。それを見て黙っていないのはもちろんミレニアだ。
「ちょっ――」
しかし近衛兵たちがその動きを防ぐ。ミレニアはアーサーたちに近づくことが出来ず、二人はさっさと姿を消した。
後には呆然と二人を見送るミレニアと、国王夫妻が残された。
「なんで……? だって物語では王子と一緒になれているのに」
呟いた言葉は思いがけず大きく響いた。やはりミレニアの脳裏には巷で人気の小説が浮かんでいたようだ。そしてあわよくば、と思っていたのだろう。もしかしたら、小説みたいな奇跡が自分の身に降りかかるかもしれないと。
考えたくはないが、アーサーを助けたのも純粋な善意ではなかったのかもしれない。そこは深く掘り下げることはしないが。
所在なさげに佇むミレニアに、王妃がなんて声をかけようか迷ったとき、それまで置物のようだった国王が口を開いた。
「ディエリング家の呪い、という言葉がある」
「え?」
ミレニアがぼんやりと顔を上げた。そんなミレニアの顔を国王が見つめ返した。
「そんなものがあるのかは知らない。だがディエリング家の男は惚れた女を変えることはない」
「惚れた女……」
「一生を懸けて愛し続ける。相手のことをかけがえのない半身だと感じるのだ」
ディエリング家の男児は惚れた女を間違えることはない。どんなことがあっても変えることはない。たとえ不幸な事故で相手と結ばれることがなかったとしても、他の誰かを愛することは出来ないのだ。
「かつて先祖は言った。私は己の運命に出会った、と。運命ではないそなたはあいつの伴侶になることはあり得ない」
ミレニアが力尽きるように膝を突く。それを見て国王は興味を失ったらしく、王妃の腰元に手を添えて、歩き出す。王妃も連れられるまま、歩き出した。
後には呆然と、現実を受け止めきれないミレニアが残されたのだった。