4話
ルチアは自室のカーテンを開け、曇天を見上げる。アーサーたちが王城を出発して2日後から降り始めた雨は5日後の今日になっても止む気配を見せなかった。
噂によると王都では小雨が降り続いているが、地方では激しい豪雨になっている地帯もあるらしい。
「アーサー、無事かしら」
聞いた話によるとアーサーが出向いている地域は豪雨が激しく、その影響で視察の日程が延びていた。さすがにこの豪雨ならば、アーサーも無理をして戻ってこようとはしないだろう。……しないと思うのだが、一抹の不安を覚えるのは仕方がない。
連絡が来なくなって3日。不安がルチアの胸を過る。落ち着かせるように深く息を吸ったとき、部屋の扉が勢いよく開けられた。
「ルチア様!」
「っ!」
いつもは冷静で穏やかなマーサが常にない様子で部屋に飛び込んでくる。その勢いに驚いたルチアはポカンと口を開けてマーサを振り返った。
「どうしたの? そんなに慌てているなんて珍しいわね」
「今、王城から早馬が来まして、殿下が……」
最後の言葉に息を呑む。マーサの指す殿下とは間違いなくアーサーのことだろう。王城からの早馬という単語に嫌でも悪い想像をしてしまう。
「早馬が何です……?」
「この豪雨の影響で、殿下が移動中に崖から転落なさったそうです。……安否はいまだ不明だそうで……」
膝から力が抜けた。崩れ落ちるように膝を折るルチアに、マーサが慌てて駆け寄って抱き留める。抱き締めたその肩が細かく震えているのを感じて、マーサは安心させるようにぎゅっと力を込めた。
ルチアはすがるようにマーサの腕をつかむ。
まるで夢の中の出来事のようだった。マーサの言っていた言葉が鼓膜を震わせるが、内容がちっとも頭に入ってこない。現実感がない、と言えばいいのだろうか。
「殿下が、行方不明……」
「大丈夫です! 殿下はすぐに見つかります!」
「え?」
力強い言葉がマーサから聞こえてきて、ルチアはぼうっとその顔を見上げた。そして思いがけず意志の強い瞳と目が合い、息を止める。
「殿下は殺しても死ななそうな方です。絶対に死んでいません」
「……そう思う?」
「はい。あんなに結婚式を楽しみにしていた方です。たとえ死んでも、あらゆる手を使って蘇るに決まっています」
ルチアの脳裏に、あの世で冥府の王を脅してこちら側へ帰還するアーサーが思い浮かぶ。そして思わずふふっと笑ってしまった。確かにアーサーならばありえそうだ。
冥府の王相手に傍若無人に振る舞い、追い出されそうな気がする。そう思ったら少しだけ肩の力が抜けた。
「そうね。アーサーならあの世からも戻ってきそうね」
「そうです。冥府の王に嫌われるに決まってるんですから! 殿下はすぐに見つかりますよ」
そう言ってマーサがルチアの肩を抱き締める。ルチアはその身をマーサに預けながら、心からアーサーの無事を祈った。
アーサーが発見された、と連絡があったのはそれから5日後のことだった。
◇ ◇ ◇
ルチアは手に持った手紙を見つめ、胸の内に広がるもやもやした気持ちをなんとか押し留めようとした。
アーサーの無事が確認されたというのに、喜ばないルチアを、マーサは不安そうに見つめる。
「姫様、どうしたんですか? まさか殿下は何か重篤なケガをされたんですか?」
「そういうわけではないわ。……いえ、違うとも言い切れないわね」
「どういうことですか?」
「アーサーは崖から転落した影響からか、記憶が曖昧になっているらしいの」
「記憶が?」
「そうよ。それに怪我をしていて身動きが取れなくなっていたところを、近くの町の女性が助けてくれたそうよ。看病もしてくれたと書いてあるわ。……その人を連れて帰ってくるそうよ」
「それは……」
マーサの顔が驚きに染まる。それから気まずそうにルチアを見た。そうよね、そんな反応になるわよね。だってあまりに似すぎている。――各国で起きている婚約破棄騒動の内容に。
城下で流行っている小説。まるでその内容を踏襲するかのような出来事に、ルチアの唇が醜く歪んだ。
「記憶が曖昧というのは……」
「分からない。書いてないの。全部忘れてしまったのか、一部分が抜け落ちているのか……」
言葉を濁したが、恐らく記憶は一部分を失っているのだろう。それもルチアに関する部分だけを。ルチアは手紙を読んでそれを察した。
はっきり書けなかったというのは、重要な機密事項であると同時に、ルチア本人に関わることだからに違いない。
そして何より気になる一文。町娘を伴っての帰還。
これはアーサー本人が望んだことだろう。そうでなければ、いくら命の恩人でも簡単には随行を許されることはないはずだ。
ひやりとしたものが胸の内を伝う。ルチアは無意識に拳を強く握りしめた。
「……覚悟を、しておくべきなんでしょうね」
嫌でも脳裏に婚約破棄騒動が駆け巡る。正直、ルチアには関係ないと思っていた。婚約破棄騒動が自分に起こるなど、ありえないとさえ思っていた。
呪いと言われるほど一途なディエリング家。一目惚れしたら、どんな美女・才女が迫ろうとも決して靡くことのない血族。それ故に、他の人に惚れる心配などしたことがなかった。
しかし、一目惚れをした相手を忘れてしまったら?
一目惚れをした相手のことをさっぱり忘れてしまったら、それは本人にとって誰にも惚れていないということになるのではないだろうか。そしてその状態で、誰か別の心惹かれる人に出会ってしまったら……。
(記憶を失ったアーサーが誰かを好きになったら、その人を一生愛し続ける……?)
その事実に思い至ってルチアは愕然とした。
アーサーが自分を呼ぶ甘い声も、遠慮のない抱擁も、三時間おきの顔鑑賞会も、隙あらば食べさせ合いっこしようとするお茶会も、休憩と称して勝手に膝枕するあの時間も全て違う誰かのものになるのだ。
ちょっと鬱陶しいな、なんて思っていた時間がいざなくなると思うと、胸に鋭い刃物で突き刺さったような痛みが走る。
なくしたくない、と強く思った。アーサーに会うのが怖いと、初めて思う。
アーサーの、ルチアを見る目はいつだって甘く溶けていた。その瞳に見つめられるのが、すごく怖かった。
「目が合ったときに、何も感じなかったら……」
私は壊れるだろう。本気でそう思う。
無感情な瞳で見つめられたら、ルチアは耐えられる気がしなかった。
アーサーに会いたい。――いいえ、会いたくない。
複雑な気持ちが胸の内で暴れまわっている。
ルチアは窓から見える城門を見つめた。あの扉が開いたとき、私の運命が決まる。逃れようのない運命が。
初めて、ルチアはアーサーに会いたくないと思った。
一週間後、当初の予定よりも大幅に遅れて王太子が王城に帰還を果たした。