1話
早馬が知らせてくれた手紙に目を通し、書いてある文字を読む。その内容に思わずため息をついた。それを聞いて、隣で紅茶を用意していたマーサの顔が心配そうに歪む。
「姫様、まさか良くない知らせですか? 殿下の身に何か……」
「あぁ、違うのよ。知らせ自体は良いものよ。殿下は無事だって」
「まぁ! それはよろしかったですね! 本当に良かったです……」
それがそうとも言えないのよね……と心の中でもう一度ため息をついた。
手紙に書いてある内容は行方不明だった殿下が無事発見されたというものだ。それ自体は喜ばしいことだし、読んだ瞬間に胸のつかえが取れたような安堵が広がった。
問題は続きの文章である。
――殿下は崖から転落し、記憶が曖昧になっている模様。また看病してくれた町娘を伴っての帰還となるため、戻るまでに時間がかかる予定。
「まさか、現実になろうとはね……」
ルチアは最後の文章を読んで、心を落ち着かせるように大きく深呼吸をした。
◇ ◇ ◇
巷で噂の小説がある。とある王国の王子さまと庶民の女の子をモデルとしたおとぎ話だ。
正義感あふれる王子様は王国の人気者だった。王子様には子供のころから婚約している幼馴染がいて、二人の仲は良好だった。
ある日、王子様は王国の外れに視察に行き、嵐に見舞われて行方不明となってしまった。大雨の中で従者と逸れ、帰る道を見失った王子様は森の中で行き倒れてしまう。それを救ったのは近くにすむ町娘だった。
彼女は王子様を連れ帰り、献身的に看病した。王子様は彼女の看病のおかげですっかり体調も良くなり、迎えが来るまでの間彼女の家で過ごした。
その時、二人の間に愛が芽生えたのだ。王子様は献身的に看病をして花のように笑う彼女に恋をする。町娘も優しく素敵な王子様に夢中になった。
ついに二人の元に王子様の迎えが来る。離れることは身を切り裂かれるように辛かったが、町娘は王子様のためを思って笑顔で見送ろうとした。
王子様はそんな彼女の手を取り、その場に跪く。そして彼女のことを見上げながら力強く告げた。
「僕と一緒に帰ってほしい。……僕と結婚してくれないか?」
突然のことに驚いた町娘は咄嗟に手を引き抜こうとした。しかし王子様はその手を離さない。
町娘を見つめる目は真剣で、決して逃がさないという強い決意を孕んでいた。町娘は悩み、狼狽え――最後には小さく頷いた。「結婚します」と小さく呟きながら。
こうして王子様と町娘は結ばれ、幸せな結婚生活を送った。めでたしめでたし。
普通の町娘が王子様と結婚するストーリーに、貴族のみならず一般庶民の人々までこの物語に夢中になった。しかも一部改変しているとはいえ、本当にあったお話だ。誰だって夢を見てみたくなる。
しかし現実問題としては、そう上手くいかないことも分かっていた。
この国の第一王子――アーサー・ディエリングは侯爵令嬢のルチア・ハルモリーと婚約しているからだ。それも王子からの熱烈すぎる求婚の果てに結ばれた婚約である。
アーサーとルチアはわずか5歳で婚約を結んだ。友人同士だった王妃と侯爵夫人が開いたお茶会で出会ったのがその始まりである。
ルチアは母親に促され、同い年の男の子にはにかむ笑顔で挨拶をした。
「ルチア・ハルモニーです。ご、ごきげんよう?」
「…………」
「…………?」
照れながらも一生懸命に告げた挨拶には返事がなかった。ルチアは不安になり、母親を見上げる。侯爵夫人は良くできました、と愛娘の頬を撫でたのでルチアはまたご機嫌になって満面の笑みを浮かべた。
一方アーサーはいつまでも呆けたようにルチアを見つめていた。王妃はそんな息子の背中を軽く叩き、挨拶しなさい、と促す。そこでようやくアーサーが動き出した。
フラフラとルチアに近づき、小さな腕で小さなルチアを抱き締める。物凄い至近距離で見つめ合う二人。
「ルチア……結婚してくだひゃい!!!」
「ふぇ?」
「何を言ってるの!」
突然の求婚であった。しかも緊張したためか、大事なセリフを噛んでいる。幼いルチアは結婚の意味が分からず、ただ首を傾げた。
息子の突然の暴挙に驚いたのは王妃であった。慌てて息子の脇に手を添え、持ち上げてルチアから引き離そうとする。
「…………ぐっ!!!」
王妃がこれでもかっというほどに腕に力を込めたが、その身体は持ち上がらなかった。アーサーは驚くべき強い意志でルチアを抱き締めていた。
「ルチア、結婚して? ダメ? 結婚するって言って?」
「結婚ってなに?」
「ずっと一緒にいる約束だよ。僕とずっと一緒に居て欲しい」
「ずっと? ……アーサー、お手て痛いよ」
アーサーとルチアが会話している間もなんとか引き剥がそうとしている王妃。決して離すまいと腕に力を込めるアーサー。必然的にルチアの上半身が締め上げられるようになり、苦しみにルチアの顔が歪む。
「苦しいよ。アーサー、お手て離して」
「ルチアが結婚すると言ったら離すよ」
「ほんとう? 離す?」
「ちょっと! ちょっと待って! そんなこと言っちゃだめよ!」
息子の只ならぬ様子に危機感を覚えた王妃が慌ててルチアを止めようとする。しかしアーサーの締め上げる力どんどん強くなり、とうとうルチアは耐えられなくなった。
「分かった。する。アーサーとけっこん? する!」
「あぁ! なんてこと!」
「あらあら……」
ルチアの発言を聞いて、王妃は頭を抱え侯爵夫人は頬に手を添えた。
アーサーはというとルチアの答えを聞いて満面の笑みを浮かべ――そのまま勢いよく自分の唇をルチアのそれに押し付けた。
「げっ!!!」
「あらあら!」
唇を押し付けるアーサー。それを受け止めるルチア。ちなみにルチアは意味が分からず、固まっていた。アーサーが押してくるので、上半身がどんどん反らされていく。
そろそろルチアの背骨が限界を迎えそうだ、というところで王妃が息子の頭頂部を思いっきり殴った。
「こんの、おバカ!!!」
「って!!!」
「あらまぁ」
容赦のない一撃にさすがにアーサーの唇が離れる。そこですかさず王妃がアーサーを抱き上げてルチアから引き剥がした。
「あ! 降ろせよ! ルチアから離れちゃっただろう!」
「あんたは何をやっているの! 結婚を迫ったと思ったらルチアちゃんにき、キスするなんて……!」
「ルチアに惚れた! 惚れた女には求婚して、キスするもんだって教わった!」
息子のとんでもない発言に眩暈を感じ、思わず息子を持つ手が緩む。その隙にアーサーは王妃の手から逃れ、未だ衝撃を受け止めきれず呆然とするルチアの手を握った。
フラフラとソファーに座りながら、王妃はアーサーを見つめる。
「誰がそんなことを言ったの……?」
問いかける王妃の声は震えていた。しかし不思議と目には爛々と闘志が宿っている。まるで答えが分かっているかのように。
「父さまだよ!!!」
「やはり……!!!」
「やっぱり血は争えませんねぇ」
答えが分かっていた侯爵夫人は微笑みながら、王妃の向かいのソファーに座ってすっかり冷めてしまった紅茶を一口飲んだ。
そう。何を隠そう現王妃も現国王が王子だった時に似たようなことをされて婚約者へと収まったのだ。
侯爵夫人はその出来事を覚えていたため、娘にアーサーが抱き着いてきた時点で結末が分かっていた。
幸い、娘が嫌がっていないから良いか、なんて呑気に考えているくらいである。肝心の娘であるルチアは結婚の意味もキスの意味も正しく理解していないのだが。
ようやくキスの衝撃から覚めたルチアは、引っ付いているアーサーが今更ながら邪魔くさく感じてきた。
「アーサー、さっきのはなに?」
「さっきのはキスだよ。結婚する人同士がするものだから、ルチアは俺以外の人としちゃダメだよ」
「ふぅん。なんか気持ち悪かったからアーサーともしない」
「しない!? そんなこと言わないで!!!」
「あと手、離して。あっち行って」
「なんだって……!!! ルチアにそんなことを言われたら……!!!」
ルチアから辛辣な一言をもらったアーサーが、まるで剣で胸を一突きされたとでも言うように胸を押さえる。その間もルチアは腕を引き抜こうとするが、もちろんアーサーは腕を離さない。むしろ力を込めてくる始末だ。
仕方なくルチアは腕を引き抜くことを諦め、母親の方に歩いていく。意外にも素直にアーサーはついてきた。
ソファーに上がって侯爵夫人にお菓子をねだるルチアの隣に大人しく座る。それからクッキーを頬張り始めたルチアを見つめ、思いついたという顔をした。
その手がテーブルの上のクッキーに伸びる。チョコチップのクッキーを取ると、ルチアの方へと差し出す。
「ルチア、」
ルチアは差し出されたクッキーとアーサーの顔を見る。それからおずおずと手を差し出した。
「ありがと……」
途端に引っ込められる手。追いかけるルチアの手。それを逃れるアーサーの手。
無言で見つめ合う二人。先に沈黙を破ったのはルチアだった。
「……くれないの?」
「まさか。あげるよ」
「なんで手を引っ込めるの? それじゃあ食べられないよ」
不満そうに唇を尖らせるルチアを見て、アーサーの頬が緩む。もう一度クッキーを持ち上げ、それをルチアの口元に持っていった。
「ルチア、あーんして」
「あー……?」
無防備に口を開けたルチアの口元に、アーサーはすかさずお菓子を突っ込む。ルチアは驚きに目を丸くしながらも、それを咀嚼した。ルチアの口がもぐもぐ動いていることを確認したアーサーは素早く二枚目を用意する。
飲み込んだことを確認すると、二枚目のクッキーが差し出された。ルチアはしばしの間アーサーとクッキーを交互に見つめる。やがて大人しく口を開いた。
「っ!!!」
感動したアーサーが丁寧にルチアにクッキーを与える。またクッキーを取ろうとするアーサーを制して、ルチアは飲み物が欲しいと告げた。アーサーは嬉々としてフレッシュジュースの入ったコップを手に取る。
王妃はアーサーが甲斐甲斐しくルチアの世話をしているのを見て、悔しそうに拳を握りしめ、歯を食いしばった。今にも歯ぎしりが聞こえてきそうな形相である。
「くそぅ。どこかで見た光景だわ……」
「えぇ、本当に。陛下とイレーナ様を見ているようですわね」
「まさかこんなことになるなんて……!」
まだ恋だ愛だなんて分からない歳の子である。完全に油断していた。そう考えて、王妃はため息をつく。
……いや、少しはもしかしてと思っていた。陛下の子だし、万が一があるという可能性をもっと重く見るべきだったわ。
今更考えても仕方のないことだと分かっている。しかし本当にこんなことになるとは。
「殿下のあの様子では、撤回は難しそうですわね」
「そうね……。引き剥がしたらどんなことになるか想像したくないわ……」
「幸い、身分的には釣り合いが取れなくもないですわ。良かったですね」
「そうねぇ。……待って。ずいぶん前向きじゃない? 良いの?」
のほほんと紅茶を飲んでいる侯爵夫人に王妃は胡乱気な視線を送る。自分で言うのも何だが、息子は地位や見目は将来有望だろう。しかしこのままだと面倒くさい恋人になること間違いなしだ。
そう言うと、侯爵夫人は困った顔で笑いながら頬に手を添えた。
「殿下に考えを変えてもらう方が骨が折れますわ。その際に起こる甚大な被害を想像すると、うちの娘を生贄――もとい、婚約者に据えておく方が平和です」
「今、生贄って言った? 自分の娘を生贄って言った?」
「気のせいですわ。それにイレーナ様も覚えておいででしょう? ご自身がさんざん抵抗して、どんな目にあったのか」
そう言われて王妃の顔が歪む。王妃が求婚されたときは、自分が王族に嫁ぐなんて考えたこともなくて速攻で断った。それはもうきっぱりと。
そして始まったのが国中を巻き込んだ大捕り物だった。あの時は外堀をガンガン埋められ、包囲網を狭まれていった。まるで犯罪者になったような気持ちになったものだ。
「王族の方は愛情深い一族ですからねぇ。生贄を与えておけば張り切って働いてくれますし、国民は安心して暮らせますわ」
「やっぱり生贄って言ってるよね? そんな風に思われているの? ねぇってば!」
王妃が侯爵夫人に掴みかからんばかりの勢いで聞くが、侯爵夫人は妖しく微笑むだけで答えない。錯乱しそうな王妃たちを後目に、ルチアとアーサーは仲良くお茶を楽しんでいた。
こうしてルチアとアーサーの婚約は結ばれたのだった。