(あるいは旅立ち)
ぼくは窓を開けてキンモクセイの甘いかおりを部屋に入れ、ていねいに濃い紅茶を入れた。彼が戻ってくるのがわかっていたからだ。やがて控えめなくつの音が聞こえた。
こつこつとノックの音がして、扉が静かに開いた。ぼくはまだ熱い紅茶を注いでいる最中だったので、そちらを見ないで「おかえり」と言った。黒い影のような男が、するりと入ってきた。
ハロウは何も言わないで、ぼくの正面のいすにそっと腰掛けた。何も言わなかったけれど、ぼくには彼がほんの少しだけ、例によって頷いたのがだいたい予想できた。長い指をカップの耳にまきつけて、ハロウは静かな声で言った。
「長い旅でした。思っていたよりもね」
「そうかな。ぼくはもっともっと長くなるのじゃないかと思っていた。もっとどこか遠くへ行ってしまって、残したかったものがわからなくなってしまうんじゃないかと思っていたよ。君が扉をくぐったときからね」
ハロウはそのことについて、カップを空中に浮かべたまま暫く考えていた。
「さあ、どうでしょうね……。いろいろなものがこぼれ落ちたような気がするんです。その中にはきっと、残さなくてはいけなかったものもあったと思います。でも僕は、今、手のひらに残ったもので満足しています。そういう旅だったのではないかと。
手のひらから何もかもこぼれ落ちて、留めておくことはできないけれど、手のひらから何かがこぼれてしまったことを忘れないでいることはできます。それは悲しいことだけれど」
紅茶を足そうとすると、ハロウはちょっとだけ左手を動かしてそれを制した。そして口の両端をほんとうにほんの少しだけ上げて、灰色の目でぼくをまっすぐ見た。
「またぼくの扉を叩いてくれますか?」
ぼくは先生にしてはいけない質問をする子供みたいにこっそりと尋ねた。ハロウは何も言わず、例のかすかな頷きもなく、ただほんのちょっと笑ったまま帽子を被りなおし、立ち上がった。
「また冒険をしたらね」
この小説は実際には2008年の1月5日から2009年の10月10日までに書かれた小説です。
12年の時を経て、当時のブログから転載したのですが、文章を読み返して、当時はハルキストだったので今よりも語彙が多くて春樹くさいなと思いました。今となっては二度と書けない文章です。
2008年当時は最長でも数万字の小説を数本しか書いたことがなく、これが最初の十万字を超えるものでした。
当時書き切った自分に「お前根性あるな!」、当時の公開しきれなかった自分に「この根性なし!」と言葉を贈りたいと思います。
ご読了いただきました方がおられましたら、心からの感謝を申し上げます。
本当にありがとうございます。
(追記)
2022年の3月に章立てをし、文章を分けました。
1話をブログに書いていた時と同じくらいに戻したとも言えます。
今読み返せば、冗長でなんの凹凸もない話だなと思いますが、「苦しみも悲しみもあなたの持ち物で、それらは喜びに等価交換できる」という部分を読んで「ほう!」と自分で関心しました。
かつての自分の心の中、そして自分の今の世界観の根幹がこの物語です。
そういえば、章立てのタイトルのなぞなぞには本当に答えがあり、答えは「地球」でした。