(2)
水の音が聞こえた。
近づくにつれて、その音は激しさを増して耳を打った。森は木漏れ日をはらみ、甘い土のにおいをさせていた。通り抜ける風はひやりとして、ハロウは汗が急に引いて、寒気を感じたくらいだった。
「ほんと、よく来たと思うよ」
ひらひらと身軽に山道を歩き、ハロウを先導していたストライクが言った。
「P.Pに聞いたら案の定、教えてくれたんです」
「まだ本を渡したい人がいるんです。あなたなら居場所がわかるんじゃないですか」
ハロウがP.Pに試しに言ってみると、P.Pは
「それはストライク・ストレイン兄弟のことですね」
と言った。彼は、双子の兄弟の現在の住所をかなり正確に教えてくれた。それはハロウの町から比較的離れた、駅に近い雑居区だったので、ハロウは汽車に乗って、今日その家を訪れた。
「驚いたね。元気になって町に出てみたら、俺とレインが死んでるんだもん。最初わけがわかんなかったよ」
「あれもP.Pの仕業らしいですね。お二人のクローン体の失敗作を冷凍して町に放り投げたようです」
ストライクはちょっとだけ首をかしげながら、ひょいひょいとさらに森の奥へ入っていく。ハロウは新しい汗が額を流れるのを感じた。
「一言言ってからにしてほしいよ。おかげでもう追い掛け回されなくて済むけどさ」
「犬のおまわりさんたちからですか」
「それも。レインからも、ソシキからもね。ソシキだって。今思うと笑っちゃうけどな」
ストライクの向かう先が、ハロウにはわからなかった。水の音がだんだん近づいてきて、ストライクの声が聞き取りづらくなる。足場も悪く、獣道に近くなっていき、ハロウは汗を手の甲でぬぐった。
「今は何をなさってるんですか」
「鍵屋。俺が開ける専門、レインが合鍵とか作ってる。なかなかうまいもんだ。昔からあいつは器用だったからね……」
ストライクはハロウの息がかなり上がっていることに気がついて、歩調を緩めた。
「結構うまくやってる。誰も気がつかないもんだな、死んだはずのやつらがピンピンして普通に町で暮らしてても」
「そう……普通そんなこと、ないですからね……」
「もう少しでつくよ」
がけの上に立つころには、ハロウの白いシャツはすっかり汗で湿って肌にへばりついていた。だけど景色は最高だった。眼前には、星が見えそうなほど深い青い空と、それを彩る力強い白い雲とが横たわり、足元で水しぶきをきらきらと上げる大きな滝つぼが、新緑の森を二つに割っていた。ハロウは大きく息をついた。
「なんだか嘘みたいだよ」
ストライクが滝つぼを覗き込みながら言った。
「いきなり何も無かったみたいにさ。ふつーに暮らしてるんだ。夢じゃないかなって思うよ。時々昔の夢も見るよ。起きたときどっちがほんとうかわからなくなる」
滝は5メートルほどだろうが、水量の多さに滝つぼの底がまったく見えない。
「レインさんとは仲直りしたんですね」
「こうなっちゃったらね」
ハロウはもののついでに、以前から不思議に思っていたことを口にした。
「どうしてレインさんはあなたを追っていたんですか?」
ストライクは両手をまるで箱を持っているように突き出し、それを滝に落とす真似をした。
「俺はね、レインに人殺しをして欲しくなかったんだ。なんとかやめさせようと思った。俺はやめろってレインに言った。そんなことしなくてもいいだろって。レインは、ストライクにばかり仕事をさせるわけにはいかないって言った。俺は盗みはできない、できるのは弓だけだって。俺だけでいいじゃないかって言った。小さいころは、サーカスにいたころはレインが稼いでただろって。逆になっただけだって。でもレインはそんなの嫌だって言ってやめなかった。俺はどうしたらやめさせられるのか考えた」
ストライクはちらっとハロウを見た。
「おかしいよな。俺みたいな泥棒がさ。人殺しはして欲しくないなんて。でも、そう思ったんだ。今も思ってる」
ハロウは例によって上げたか上げてないかわからないくらいに口角を上げた。そしてちょっとだけ頷いた。
「それで、考えたんだ。逃げようって。レインが追って来るように、その時溜り場にあった金全部盗んで。俺の代わりにレインがひどい目に遭うかも知れないと思った。でもレインはそのころには立派な唯一の暗殺者だったし、レインは責任感が強いから、自分でなんとかしようと思うと思った。それで」
「それでレインさんに自分を追わせたんですね……」
「やっぱりレインが俺の始末をつけに来た。最初にかち合ったとき、俺は話そうと思った。でもレインはまず弓をつがえた。しょうがないから必死で逃げたよ。レインはそういうタイプなんだ。徹底してる。俺の死体を持って帰って責任を取るつもりだったんだな。それからずっと逃げて、レインが俺がいた町にやって来たら見計らってまた移動して……レインが俺を見失わないようにさ、なかなか大変だったんだぜ」
ストライクがにやりと笑って、滝つぼの近くの大木のウロに手を突っ込んだ。そしてごそごそと木屑に塗れた赤茶色のチェストを取り出した。頑丈そうな南京錠がかかっていた。
「迷ったよ。逃げるとき。これを持って行くかどうか」
ストライクは地面にその箱を置くと、腰の道具入れから例の道具を取り出してかちゃかちゃと鍵穴をかき回した。
「結局置いていった。あったら楽なのはわかってたよ。でもこいつがすごく嫌で仕方なかった。あの時。俺が盗んだ金。レインが人を殺して積まれた金」
さびた錠をストライクが力任せに引っ張り上げると、鍵は力尽きて地面に落ちた。箱の中には数え切れないくらいの紙幣と、金貨・銀貨・銅貨がぎっしり詰まっていた。
「ソシキの金だよ。俺が盗み出したやつ……」
ストライクはそのチェストをぽいと滝つぼに放り投げた。チェストはその口から音もなく紙幣やきらきら光るコインを撒き散らしながら、水の泡の中に飲み込まれていった。
「いらないんだ」
ハロウはその、しぶきを上げる滝を見つめた。
「今はなんにもいらないよ」
汗はすっかり引いていた。空気は澄み切って、水の音も気にならなくなっていた。ハロウはストライクの首の、聖印に気がついた。それに手を伸ばすと、ストライクはそれを外してハロウの手のひらに載せてくれた。銀細工とトンボ玉が光を受けて輝き、森の妖精の宝物を見つけてしまったみたいだった。
「俺は泥棒だし、レインは人殺しだ。でも今は、普通に生きてる。そんなことしてなかったみたいにさ。たまに、飛び起きるんだ。捕まる夢を見てさ。レインもひどくうなされてることがある。俺たちは……このままこうしていてもいいのかなって」
ハロウは暫く考えてみた。
彼らの被害者たちは、今の彼らを見たら決して許そうとは思わないかもしれない。
でも、ハロウにはわからなかった。誰が許したら許されるのか。許されないことは悪いことなのだろうか? 本当にわからない。
イグナシオならなんと言うのだろうな。
聖印を手の中で転がしてみた。イグナシオの信じた神は、500年前の兵器だった。それでもその聖印は美しく、これまで多くの人がこの印の前にひざをつき、
唱えたはずの祈りの言葉や、教会を満たす聖歌を閉じ込めていた。ハロウにはそれを容易に感じることができた。その祈りの前には、兵器である神などどこにも存在していないはずだった。
「僕はもともと神様というものを信じてはいません」
ハロウは言葉を一つ一つ選びながら話した。
「でもたとえば、もしこの世界が何かのバランスの上に成り立っているとするなら、そういうことが神がいるということなら、だれかの取り分があまりにも多いとき、神様がきっと何かを奪っていくのではないかな……僕にはわからないけれど」
「…………」
ハロウが聖印を返そうとすると、ストライクはそっとそれを押しとどめた。
「あげるよ、ハロウ」
でもハロウはそれをストライクの首に掛けた。
「あなたたち二人は、世界を救ったんですよ」
ストライクは困ったような顔をして、首に戻ってきた聖印に触った。
「わかんねえよ。あのスイッチだって、動くかわかんないくらい古かったんだろ」
「それにね」
ハロウはずっとストライクに教えてあげたかったことを言うチャンスをようやく見つけた。半年も前から探していたチャンスだった。
「レインさんはあなたを殺そうとなんて思っていなかったんじゃないかな。最初から最後までね。だって、百発百中の魔弾の射手が、間違って足を射るなんてするはずがない。彼もまた、あなたと話す機会を作ろうとしていたのではないですか」
ストライクは納得がいかないという顔でハロウの灰色の目を見上げた。
「…………だとしても、過激すぎるよ」
「お互い様じゃないでしょうか。レインさんも、お金を全部あなたが持ち逃げして消えてしまったとき、過激すぎると思ったのでは」
ストライクはその場にしゃがみこんで顔を手で覆った。
知られざる救世主の一人は、笑っているようだった。
もう一度眼前の景色を眺めた。濃い青い空、くっきりとした雲、緑の森、葉と土のにおいの風、しぶきを上げる水と、その音。
「あなたたちの救った世界は、美しいですね」