(6)
草原は緑のじゅうたんのように青い空の下をどこまでも広がっていた。
崩れかけた建物の残骸が茶色く遠くに見えたが、それさえもこの草いきれの中にあっては希望に満ちた何か別なもののようだった。
アルフは細く背の高い一本の広葉樹の下でうとうとと眠っていた。アルフの黄色いタクシーはすぐ横に停められ、彼(あるいは彼女)もまた持ち主と共に居眠りをしているように見えた。
風が緑の大地をやわらかく撫で、太陽が頭の中まで侵食しそうなほどに輝いていた。茶色と灰色のちょうど真ん中くらいの色をした研究所も、この青い空と緑の草と強力な太陽の下では、その不吉な印象をとどめてはいられなかった。
小さな白い人影が二つ、音もなく複雑な輪郭を残して開いた扉から現れた。久々に見るP.Pは少し背が高くなったのと、ずっと背が低くなったのとがいた。ハロウは目をしばたいてその模様を見つめたが、混乱するだけ無駄な場所だったことを思い出した。
「こんにちは。久しぶりですね」
少し背が高くなったほうのP.Pが口を開いた。
「ご無沙汰しています」
ハロウはなんと言ったらよいのかわからなかったので、とりあえず挨拶を返した。
「今日はどうしましたか。ハロウさん、本の出版が5月12日でしたね。発行部数は6万部。とても中途半端であるとしか言えない部数です」
P.Pは一回り小さなP.Pを連れていた。小さいほうのP.Pは丸坊主で、モノクルはなく、さんさんと降り注ぐ光の中、マネキンのように白かった。額の真ん中からうなじにかけて、頭を縦に半周するほどの縫い目が続いていた。
「………その通りです、P.P、この子は……えーと、P.Pなのかな?」
「そうです。これはP.P3065号です」
「はじめまして、フィリップ・プロトタイプ3065号です」
小さいP.Pは無表情にハロウに頭を下げた。小さなP.Pはそれまで何も聞こえていないみたいにどこか青い空のずっと遠くをみていたので、ハロウは突然まともに挨拶をされて少し面食らってしまった。
「どうしたんですか? その、P.P3065号くんは?」
ハロウはめまぐるしく3,4ヶ月前のP.Pの研究室でのことを思い出した。水槽の中の何百人のP.P。
「先日までフィリップ・アンテノワの記憶を謄写していた固体です。しかし、Dr.A.Aの死亡に伴い、フィリップ・アンテノワの完全な複製を作る必要性がなくなったと判断し、謄写を中止しました」
「Dr.A.Aの死亡?」
花アブがほおのあたりを掠めていった。甘い花のにおいがした。どこかで何かの花が咲いているのだろう。違う世界の話を聞いているみたいだった。
「Dr.A.Aは死なないのはではないですか?」
ハロウはなんとなく思ったことをそのまま口に出した。あの胎児のような、屍蝋のようになってなお生きて知らなくてよさそうなことまで手を突っ込んで引きずり出していた老人を思い出していた。
「Dr.A.Aはあなたの話を聞いて暫くして、生きることをやめました。あなたにメッセージを残しています。今聞きますか?」
「ほんとうにDr.A.Aは死んだのですか?」
混乱していた。別な世界の話みたいだ、とハロウはもう一度強く思った。P.Pが二人になっている。Dr.A.Aは死んでいる。別な世界みたいだ。
「生命活動を完全に停止しました。遺体は本人の希望で硝酸により分解されました。Dr.A.Aのメッセージを聞きますか?」
ハロウは青い空と広がる草原と点在する廃墟を、意識的にゆっくりと呼吸しながら眺めた。夢の中みたいだ。アルフは少し離れたところの木の下に身を横たえたままぴくりとも動かなかった。もしかしたらこの世界は彼の夢の中なのかもしれない。
ちがうな。アルフならもっとましな夢を見るだろう。
「聞きます」
P.P3062号はいつもと変わらない顔で軽く頷いて、モノクルにちょっとだけ触れた。P.P3065号がふとこちらを向き、ハロウの目をまっすぐに見た。P.P3062号と同じ、奇妙に透き通った明るい目をしていた。きっとフィリップのオリジナルもこんな目だったのだろう。
P.P3062号のまだ幼い口から、Dr.A.Aのしわがれた声が流れ出した。
「ハロウ、君がこのメッセージを聞いている頃には………なんという陳腐な言葉だろうか。しかし致し方ない。我慢してもらおう。さて、わしは死ぬことにした。いわゆる自殺ということだ。君が一度わしの研究所で試みた行為だ。わしの場合は成功するだろうがね。
君の行為をわしがよく理解できていないと君はあの時思っただろう。しかし君の言わんとしているところはわしにも理解できた。自分が嫌になった、という部分は依然として不明であるが、ある目的を達成したから、死ぬという行為に移行するという点は理解できた。それを理解したとき、わしがすでにわしの人生において成すべきことをほとんど達成してしまっているということに気がついた。
すなわち、フィリップ・アンテノワを復活させるということだ。わしの人生の大半は──183年の人生のうちの130年だ──そのことに費やされた。何度も失敗を重ね、わしはついにP.P3062号を作り上げた。それと同時に、そうまでしてもわしはフィリップ・アンテノワを復活させることはできなかった。
わしにはP.P3062号を作り、君の自殺についての話を聞いて初めて決定的に理解できたのだ。フィリップ・アンテノワはすでにこの世界に存在していないのだと。どんなに精巧なフィリップ・アンテノワの複製を作ったとしても、それはフィリップ・アンテノワ本人ではないのだと。そしてまた、P.P3062号ほど完璧な複製はないと。従って、わしの目的はすでに達せられ、また、永遠に達せられないのだと。
これを絶望と呼ぶのだろうか、ハロウ・ストーム。
だがわしはそのことについて悲哀を感じているわけではないのだよ。つまり、わしに成したいことはもう何もないということに君の話を聞いて気がついたということだ。わしはすでに人生の目的を可能な限り達成したということだ。その他の欲求など取るに足らないものばかりだったのだ。もう何も残ってはいない。
これは素晴しいことではないかね、ハロウ・ストーム。
君はあの時わしのことを『ドクトル・ファウスト』と呼んだ。まさにわしはこれまで自分の欲望の果てに気がつかなかったファウスト博士そのものだったのだ。わしはすべてをやり終えた。
そこでわしは生命活動を停止しようと思う。さようなら、ハロウ・ストーム。わしは新たな地に踏み出そう。君にはこの別れの言葉がふさわしいだろうか。
時よ止まれ、と」