(4)
「それで?」
茶色い長い髪の毛が5月の光に透けていた。ステンドグラスを通り抜け、赤や黄色や青に染まった光が、ほっそりとした栗色のスーツを着た理知的な女性の顔を彩っていた。
ハロウはハロウの母親がかつて弾いていた古いピアノの前に腰を下ろしながら、その女性に椅子を勧めた。その椅子はハロウが家出の時にステンドグラスに振り下ろした樫の椅子だった。ナニーがティーセットをひとそろい、椅子と同じ一枚板の樫の木で作られたとても重いテーブルにそっと置いて出て行った。遠くで子どもたちが遊ぶ声が聞こえた。
「ねえ、私、お茶を飲みに来たんじゃないのよ」
ウォラ・デイモンはピアノの前に腰掛けているハロウに向かって言った。ハロウはなんとなく埃を被ったピアノのふたを開けてみた。鍵盤を覆う赤いフェルトのカバーが驚くほど新しかった。
「でもどうぞ、座ってください」
ウォラは一つため息をつくと、ごとんと重い音を立てて椅子を引いた。
「聞きたいことがあったの。一つ二つ。まず記者として、ハロウ・ストーム、ジュリエッタは誰?」
ハロウは鍵盤を試しに叩いてみた。グワーンと割れたような耳障りな音がとても大きく響いた。調律しないといけない。でも調律したとして、一体だれが弾くんだろう?
「真面目に聞いているの」
「はい」
元通りにフェルトをかけ、ふたを閉じると、ハロウは少しだけ考えた。
「ある人は、僕の妄想の産物だと」
ウォラ・デイモンは片方のまゆを上げて、ハロウを見た。ハロウは一面のステンドグラスを眺めた。
一番はしのステンドグラスには、ハロウが家出のときに叩き割った穴が開き、板で塞がれていた。ウォラが怒っているのがわかった。もうこれ以上怒られるのを先延ばしにするわけにはいかない。
「でもね、ジュリエッタ・マチュは実際に存在する女性です。その女性はかつてこの家によく来て、このピアノを弾いていた。その人はこの家のある男と恋に落ちた。しかし彼女は色々な理由で男と結ばれることができませんでした」
ハロウはドアの傍に飾ってある、バラの花瓶を見た。今日の朝ナニーが置いていった、ふちが濃いピンク色で、中心に近いほどクリーム色に見えるバラの花だった。まるで造花みたいだ。ウォラはとても落ち着いた様子でメモを取っていた。
「それで? その男はジュリエッタ・マチュに幼い少女が待っているのを放り出して会いに行ったのかしら?」
そこは間違っていないなあ、とハロウは思った。ただし、彼女が思っているのと立ち位置が違う。
「ジュリエッタは一人の子どもを産んだあと、精神病の療養所に入れられました。彼女は資産家の有名人との間に望まれない子どもを作ってしまったという事実と、周囲の視線に耐え切れなかったのではないかな。
外聞を恐れた男の一族が、彼女のIDや、市民登録や彼女に関するあらゆる記録を消しました。男はその後、女優のツィガーヌ・シャルルマルランと結婚し、ジュリエッタとの間に生まれた子どもをツィガーヌと自分の子どもであると発表しました」
ウォラはペンを止めてハロウを見た。
「小さい頃から母のいる療養所に、ナニーに連れられて行ったものです。子どもを産んだのに、引き離されたということはわかるようで、子どもがいなくなったと言って暴れて手がつけられなくなってね。そのたびに僕は『ジュリエッタ』の家まで『遊びに』行ったんだ」
遠くからまだ子どもたちの遊ぶ声が聞こえていた。初夏の風が色ガラスの向こうで緑を揺らしていた。とても気持ちのよい午後だったので、ハロウはこんな話をしていても思ったより気分が落ち着いたままだった。
「あの日もそうだった。ジュリエッタが暴れて、自分の体を傷つけていると連絡が入ったんです。僕はリリィのことを考えました。でもリリィはジュリエッタに会ってからでも間に合うかもしれない、ジュリエッタはきっとすぐに落ち着くから、それからすぐリリィのところに行こうと。リリィのことは後回しにしようと思ってしまった」
ウォラ・デイモンは唇を震わせてハロウをにらみつけた。ハロウはその茶色い髪の毛をとても悲しく眺めた。
「ごめんなさいって言わないでね」
ウォラ・デイモンは目を赤くして言った。
「わたしあなたを責められなくなるじゃない。ごめんなさいって言わないでね」
ピアノの上に埃がゆっくりゆっくり積もっていった。ハロウは光に満ちた空気の中を漂い、音もなく降り積もるちりを見るともなく見ていた。
「はい」
樫の椅子に腰掛けた美しい上品な女性は、手で顔を覆って肩を震わせた。リリィと同じ色の髪が、リリィの髪と同じようにさらさらと流れた。リリィがもし健康で、成長していたとしたら、彼女によく似ていただろう。
「あの子のパンドラ・ボックス、開けた? あなたが……持っていったんでしょう? 知らない振りしたけど、あなたしかいないもの」
「はい。嘘をついてすみません。あの時はまだ開いていなかったものだから」
「開いたの?」
「開きました」
「あなたのお話じゃなくてね?」
「僕のお話じゃなくてね。ユージーン」
女性は涙を指で押さえながら少しだけ微笑んだ。
「リリィのお墓に行ったの。そしたらあなたの原稿があったでしょう。絶対読まないと思ったの。あなたの書いたものなんて読むもんかって。でもね」
涙はつるりとした頬を伝ってぽろぽろとテーブルクロスに落ちた。
「リリィなら……きっと読みたがったと思って。リリィならね、中身を知りたかっただろうと思って。読んだの」
ハロウはピアノに寄りかかって意識的にステンドグラスの向こうを見た。去年と同じ暴力的なくらいに生命力溢れる緑の草木が、風と日差しの中をきらきらと踊っていた。
「破り捨ててやろうと思ったの。でもできなかった。こんなもので許すもんかと思ったの。でも……」
旅に同伴した、リリィとユージーンの父親が作ったトランクがピアノの足元にそっと置かれていた。ぜんまいを巻き、スイッチを3個入れてつまみをひねると、かくりと側面が大きく開いて一つの銀色の箱がハロウの手のひらに転がり出た。
「ユージーン、これをどうぞ。本物のリリィのパンドラ・ボックスは、僕がもらいます。これはある人に作ってもらったレプリカですが、リリィが作ったものと内容は同じです。パスワードはついていない」
「本物は返してもらえないの?」
「はい。あれは僕のものです」
ユージーンはもう一度微笑んだ。
「それが一番いいのかもしれないわね」
ウォラ・デイモンという記者であるところのユージーンは、銀色の小さな箱を静かに見つめると、大事そうに黒い、かっちりとしたかばんに入れた。
「あの原稿は、誰かに読ませるつもりではなかったのだけど。まさかあなたが読んで、出版社に掛け合ってくれると思わなかった」
「そうね。私もそんなことするつもりじゃなかったの。なんとなく持って帰って、なんとなく記者の仲間に見せたら、引っ込みがつかなくなってしまったのよね。むきになってしまったというか……気がついたら本になっていたの。ハロウ・ストームの2作目の本を私が出版するなんてね。ところでねえ、ハロウ、あれはなんなの?」
ウォラ・デイモンは白い細い指で天井を指した。
ハロウが見上げると、シャンデリアから首吊り縄がぶら下がっていた。
「……うーん……チケットの半券のようなものです」
それを聞いたウォラはくすりと笑った。
「相変わらずわけがわからないわね。あなたは。でもあなたの原稿、仲間の中では割と評判よかったわよ」
ハロウが口をへの字に曲げてウォラ・デイモンを見ると、ウォラは意味ありげに目を細めた。
「誤字脱字が少ないって」
ハロウ・ストームはそれを聞いてにっこりと笑った。
「どうもありがとう」