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ハロウ・ストームの冒険 色烏飛行  作者: 白遠
それではみなさん
72/81

(3)

 こぽこぽと、あの音が続いていた。


 P.Pのストックの部屋には、かわいそうなP.P3065号の小さな瓶詰めの体があり、豪華な熱帯魚の水槽みたいな大きなガラスケースの中に、今にも崩れそうな

Dr.A.Aの年老いた肉体が閉じ込められていた。


 ハロウは今や至近距離でその憐れな胎児を見つめなければならなかったので、ちょっとだけ試しに部屋の中に目を泳がせて見たけれど、思ったとおり特に逃げ場はなかった。


 ピピッとP.Pがどこかに行ってしまった音が聞こえた。


「こんにちは、ハロウ・ストーム」

「こんにちは、Dr.A.A。お話……意見交換とはどんなことでしょう」

「話の内容としては二つだ。一つには、君が話した名前についてだ。ジュリエッタとは一体誰のことかな。例のスキャンダルの相手かな」

「そんなことを言いましたでしょうか」


 ハロウは無駄だろうと思いつつ一応反抗してみたが、やっぱり無駄だった。その埃っぽい研究室の中に、死にそうなハロウの声が弱弱しく、はっきりと流れた。


[リリィが危篤だって。連絡がきていたけど僕は行かなかった。僕は……ジュリエッタ……の……別荘に……]


「さて?」


 P.Pの体を借りて冷笑といってもいいくらいの不快な笑みを浮かべた老人は、露骨に眉根を寄せて不機嫌な顔をしたハロウをちらりと見た。


「そうですね。僕のスキャンダルの相手ですよ。僕はリリィが死の床にあることを知っているのに、それを記者がきちんと追っているのに、ジュリエッタの所へ行ってあらゆる人から顰蹙を買ったんです。満足ですか」

「そういう投げやりで下品な物言いはやめたほうが賢明ではないかな。大方そのようなところだろうと思っていたのだが、一つだけ驚いたことがある。渦中のジュリエッタという女性だが、彼女について調べても調べても何も出てこないのだよ。まるで最初からこの世に存在していないみたいだ。君の張り付きのウォラ・デイモンさえもその正体を知らない。

 顔、住所はおろかID番号すらわからない。ハロウ・ストーム、一体彼女はどういった女性なのかね? それとももしかして君の想像上の女性なのかね?」


 小生意気な少年の姿をした科学的悪魔はさらに続けた。


「そうだとするとうまく話が繋がるのだよ。つまり君は想像上の女性に──なんと言うのかね? 恋をして、と言えばいいのかね? 衆人環視のただなかどこかに行ってしまった。それを知った君の父は息子の精神的な破綻を隠蔽しようと一度世に出た記事を抹消したのではないかな」


 ハロウは一箇所だけ視線の逃げ場所を見つけた。天井だ。目を上にあげると、丸い例のライト兼通気孔が、捕らえられて働かされている月みたいに白く光っていた。


「そうですね」


 Dr.A.Aは憮然とした顔でハロウをにらみつけた。ハロウは「そんなはずはない、彼女は実在しています」とでも言うべきだったかなと考えたけれど、考えただけで黙っていた。


 暫くそのまま時間が非常に刺々しく流れていったが、ハロウがどうしても他には何も言わないと理解したのかDr.A.Aはふんと鼻で笑って話を変えた。彼は少しは満足したみたいだった。


「次の質問に移りたい。君は自殺を試みたと思っていいのかね? それともあれは精神的に未熟な人間が安定を図るために取る自傷行為だったのかね?」


 やれやれ。ハロウは天井に目を向けたまま考えた。どうしてこの人はこうも土足で人の心に踏み込もうとするのかな。彼にとって知りたいという欲求の前では遠慮なんていうものはそれこそちりに等しいのかもしれない。


「死ぬ気でしたよ」


 ハロウが諦めたように言うと、Dr.A.Aは妙に透き通った目を開いて、とても楽しそうに口の端を持ち上げた。


「そこがわからないところなのだがね、ハロウ・ストーム。なぜ自殺というものを考え付くのだろう? しかも君のような恵まれた人間にあって、だ。


 生物というものはね、ハロウ・ストーム、生きるということが大前提なのだよ。何をおいても生きるということが。

 わしは昔から不思議だった、なぜ人間という生き物だけは自ら死ぬということをするのかと。

 レミングという生き物を知っているかな? どこまでもどこまでも突き進み、海にまでも飛び込んで死んでしまう。でもね、あれは自殺ではないのだ。新天地を求めるあまり、生きたい(・・・・)あまりに(・・・・)死ぬのだ。わかるかね?

 私の知り合いも数人が自ら命を絶った。みんな君と違って確実な方法を選び、確実に死んでしまったため、彼らにその行動とその意味を解説してもらうことは叶わなかった。だが君はここに生きている。解説してくれないかね」


 面倒くさいなあ、とハロウはつくづくつくりものの月を眺めた。そしてそれからやっと(比較的緩慢ではあるけれど)思うとおりに動くようになった左手と、その手首にある細い白い、注意深く見ないともうわからないほどの一本の線を見た。


「死のうと思う理由なんてそれぞれでしょう」

「そういう一般的な話はわかっている。君の場合を聞いてみたいのだよ」


 僕の場合は。


 ハロウは「どうせこの人に何を言っても無駄だろう」という半ば諦めに似た気持ちにうんざりしながら仕方なくゆっくりと考えた。何を言ってもきちんとわかってもらえないような気はするけれど、仕方がない。死のうとした場所がそもそも間違っていたのだ。


「まずはじめから、僕は死のうと思っていたんです」

「はじめから?」

「そう。はじめから。一番最初です。僕がこの旅をしようと思い立った時から──というよりも、首を吊ろうとしたんですけど、ロープを掛ける位置が高すぎたのでできなかったんです。だから旅をすることにしたんです。旅というか、一般的には家出ということらしいですね。新聞では失踪と」

「ハロウ・ストーム、失礼だが、君の言うことは理解できない。なぜ首を吊ろうとしたのかね? 話を整理してくれ」

「そうだな。それはリリィが死んでしまったからです。でもそれはただのきっかけなんです。その前からいろんなことが山になって僕の目の前にあったということです。僕はそれを一つ一つ片付けるよりも、死んでしまったほうが楽だと思ったわけです」

「全く理解できない。リリィ・エウリディクは気の毒としか言いようがないが、彼女が死んだのは誰の責任でもない。また、君は何もしなくても十分な暮らしができるだけの援助を父親であるオルフェリウス氏からなされていたはずだ。もしそれがなかったとしても、求めれば応じられるだろう。一般的観点から言って、君ほど死ぬ理由のない人間もいない」


 ハロウはそれを聞いて、ほんの少し笑った。本当にその通りなのかもしれない。だけどそんな風にはいかない。


「そんな風にはいかないんです。僕がどんな立場だったとしても、僕は逃げることしか考えなかったんです。そうしていたら気がついたときには僕が支払わなければならない代価のほうが多すぎて、僕には何もなくて、積もりに積もって投げ出したくなったということです。そして僕はそんな僕自身に対して殺してやりたいくらい愛想が尽きたんです」


 言葉にしてしまえばそういうことです。


 ハロウが月を見るのをやめて自分のくつの先を見ていると、Dr.A.Aがため息をついた。


「ではどうして首吊りに失敗したときに、更に他の手段を講じるより先に君の言うところの『旅』に出たのかね」

「せっかくだから」


 Dr.A.Aはまるでどうしようもなく簡単なミスをして

大切な実験をめちゃくちゃにしてしまった馬鹿な助手を見るような目つきでハロウを見た。


()()()()()()()?」


「首吊りに失敗して、どうしようかと思ったとき、どうせ死ぬのなら、気になって仕方がないことをどんな手段ででもなくしてしまおうと思いました。リリィのパンドラ・ボックスがそれです。僕は死ぬ前にあの箱を開けなければいけないと思った。箱の中身を見ることができれば、もうこのくだらない僕自身も他のいろんなごちゃごちゃしたものも何もいらない、本当に死ぬことができると」


 Dr.A.Aはやはりいくらか「馬鹿と話をすると疲れる」といった顔つきをしていたが、眉間にしわを寄せたままうんうんと頷いた。


「つまり生きる目標が達せられたから、死んでもよいと思ったということかな」


 それはまた順番が前後している気がしたが、もう面倒くさかったのでハロウはまあいいかと思った。


「そういうことです。もう帰ってもいいでしょうか」


 とても疲れていた。何しろこの無神経なほど知識欲旺盛な老人に、自分の知りたいことをプライバシーを踏みにじってでも探り出すこの老人に、次々と無限に「生きる目標」が湧いて出てきそうな老人に、「これが終わったら死んでもいい」という気持ちをうまく伝えることなんてはっきり言って詩人ですらない自分にできるわけがないのだ。


 Dr.A.Aは虫でも払うように右手を振って見せた。やれやれ。最初からこの人はこんな印象だった。ハロウはDr.A.Aと最初に出会ったときのことを思い出した。イグナシオの教会で「聖なる柩」を調査しようと居丈高に交渉していた。


「そういえば」


 ハロウは出て行こうとドアに手を掛けたまま尋ねた。


「どうして僕をあんな風に呼んだんですか?」


 Dr.A.Aは何のことかわからないというように腕を組んだままハロウを見た。


「最初に教会で会ったときに、僕のことを『メフィースト・フェーレス』と」

「そうだったかな。記録を確かめるまでもないが、もしそう呼んだのだとしたら、君のその黒尽くめの格好が、教会に似つかわしくなかったのではないかね。その名前は1000年も昔の伝説に出てくる悪魔の名前なのだよ」


 ハロウが軽く頷いていよいよ部屋を出ようとすると、今度はDr.A.Aの方が彼を呼び止めた。


「それで君は次はいつ死ぬのかね?」


 P.Pからも似たようなことを聞いたのを思ってハロウは口の端をちょっと持ち上げた。


「死ぬ気がなんだかなくなってしまいました。やらなくちゃいけないこともいくつかできたようなので。それではさようなら、ドクトル・ファウスト」


 Dr.A.Aは今度は黙ってハロウを送り出した。




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