(4)
しわくちゃのDr.A.Aの体が床にはめ込まれたように薄青い液体のプールの中に浮いているのがつくえ越しに見えた。イグナシオはそっとその白いような灰色いような「聖なる柩」に手を伸ばした。
「触るな。まだ生きているかもしれないんだ」
Dr.A.Aの厳しい声がP.Pの口を借りてぴしゃりと飛んできて、伸ばされた白い指はびくりと空中で止まった。
生きているだって? 一体何が?500年も?
ストライクはそっとイグナシオの背中からイグナシオの横顔を見、「柩」の中を覗き込んだ。イグナシオの横顔はぞっとするくらい蒼白で、無表情だった。そして「柩」の中には──
なんだかよくわからない機械が入っていた。
モニタが左上に付いていて、緑色の世界地図と赤い点がいくつか、その赤い点から赤い輪が同心円状に繰り返し打ち出され、まるで波紋が広がる様子みたいだった。心臓が脈動しているようにも見えた。
生きているんだ。
あとは大きな赤い丸いスイッチと、その横にいくつかつまみのようなものがあって、記号みたいな文字と数字が少しだけ書かれていた。
「なんだこれ?」
「歴史の遺物だよ。それこそが失われたアークだ」
Dr.A.AがP.Pの顔でとても愉快そうに笑っていた。P.Pがハロウの治療にかかったときのいきいきとした様子に少しは似ていなくもなかった。
「第4次世界大戦の終結のきっかけはなんだったのか? 今のこの世界を見れば見当は付く。地球自体が壊滅されたからだ。当時の記録はほとんど残っていない。だからこそわしは無理にでもそこの聖職者の管理していたその『聖なる柩』について調査したいと思った。時期的にその『柩』の存在は第4次世界大戦において何らかの意味を持っていたとしか考えられなかった。
それは一体何か? 中を見てみたまえ。そこに記されているシリアル・コードは、恐らく秘密裏に作られ月と共にこの地球の周りを公転している衛星を指していると思われる。そのボタンは起動スイッチだろう。教会におけるその『柩』の伝説によると、それは神の奇跡そのものが入っているということになっている。
さあ、イグナシオ氏、これをどう説明して頂けるのかね? 君の観点から見て? そのモニタの赤い点の位置を確認するといい。500年前の大都市の中心地を指している。そのうちのいくつかは未だに大都市であり続けている。心当たりがあるだろう?
そのスイッチを押すと恐らくは衛星に信号が送られ、『神の奇跡』とやらが──恐らく高圧力のレーザー照射が、それらの街を焼き払う。500年前、それが使用されたのかどうかはわからない。ただ言える事は、それを今現在君の教会が保持し、中身を偽って君に管理させているということだ。それとも君はその機械仕掛けの箱がまだ神の奇跡だと思うかね?」
ストライクの後ろに誰かがそっと立った。
レインだった。ジョーのカプセルをP.Pが出してくるときに一緒に出てきたのかもしれない。
レインはちらっとストライクの顔を見てからイグナシオの背中を向いた。ストライクも釣られるように、その重々しい濃い紫のローブに包まれた後姿を眺めた。
奇妙な静けさだった。床には大きな胎児の浮かぶ青いプールがあった。神殿に聳え立つ柱のように、パイプとチューブが高い天井に向かって伸びていた。背徳的な画家がこんな絵を描きそうだ。でもここには画家はいない。自分の詩が嫌いな詩人と泥棒と暗殺者とタクシードライバーと黒猫と現実的な科学者しかいない。
「──私は騙されていたということですね」
イグナシオはぼそりとそれだけつぶやいた。ふとハロウを振り向くと、ハロウはとても悲しそうな、最初に出会ったときのような沈痛な顔をしてイグナシオの背中を見ていた。アルフはポケットに片手を突っ込んで、近くにあったパイプに寄りかかってサングラスをちょっと下げ、口のはしを右側だけきゅっとあげて様子を眺めていた。緑色の髪だけが鮮やかだった。チップはまだ眠っているジョーを抱いて、ときどきそっとゆすぶっていた。
「人間の社会というものは」
Dr.A.Aの声はまるでどこかの劇場の何かの演劇のせりふみたいに、パイプと機械と配線だらけの部屋に響き渡った。
「君が信じてきたほど美しくないということだよ。君もこれまで味わってきたのではないかね? 例えばそこのストライク氏は君に何を約束して君にその後何をしたかね? 君は何度『罪びと』とやらに神の意思を説き、何度裏切られてきたかね?
それでも君は神の意思だからと諦めてきたのだろう。あるいは諦めなかったのだろう。でも神の意思など元からないんだよ。君が必死で善人にしようと伝えてきた神の言葉や慈悲なんて全部作り物だ。この世界には善行もなければ悪行もないのだよ君がこれまで教え込まれてきたことは全部勝手な思い込みの押し付けに過ぎないのだ」
イグナシオはゆっくりと振り返り、ゆっくりと微笑んだ。それはあたかも神の啓示でも受けたかのような神聖な笑顔だった。振り返ったイグナシオはほんとうに綺麗だった。この白い部屋に天使が降りて来たみたいだった。深い紫色のローブが白い肌、豊かな長い黒い髪に映え、つややかな黒い瞳と淡い紅色の唇が優しく微笑んでいた。陶器の置物みたいだった。
「裏切られるんですよ。いつもいつも」
イグナシオはその美しい顔のまま呟いた。
「ねえ。ストライクさん」
ストライクはイグナシオの暗い色をした目にひたと見つめられ、顔を伏せた。
「神はすべてを愛したもう。罪を犯しても悔い改め、正しい行いをして神の許しを請いなさいと私は出会うひとびと全てに話してきました。たくさんの人がやって来ました。みな罪を抱えていた。盗み。人殺し。嘘。姦淫。死を願うこと。私はそのたびに心から祈ってきたのです。神よ、この悩める人々をどうかお救いくださいと。でもね。そうです。あなたたちのように」
イグナシオの目はまだストライクを見据えていた。
「繰り返すのですよ。何度も何度も何度も泥棒は他人のものに手を伸ばすことを! 人殺しはナイフを手にすることを! 嘘つきは嘘で身動きできなくなって私にまで嘘をつく。何度教会に来ても異性に対する欲望を抑えることができない者……神に明日の命を願ったその足で首を吊った者。
私はそのたびに無力感に苛まされてきましたよ。貧しい人に食べ物を分け与えれば翌日には『なぜ今日はくれないのか』と貧しい人々が私に石を投げるのです。
なぜこんなにも私は無力なのかと私は神に問いかけてきました。そしてまた、神はなぜ知らぬ振りをするのかと。これは私に課せられた試練なのかと!」
イグナシオは笑顔のままだった。だが白い首筋と秀でた額には青い血管が浮き上がり、目は暗く血走りだしていた。
「でも違ったのですね。間違っていたのは私のほうだったと言うのですね! 神が奇跡を起こさないのは! ひとを救わないのは! 神なんかいなかったからですね!」
どこかからすすり泣きのような小さな声が聞こえた。ストライクはイグナシオの声を聞きたくなくて、顔を伏せたままそっとその声に耳を傾けた。チップの腕の中で、やっと目を覚ましたジョーが、両手で顔を覆って泣いていた。
「………牧師様は、間違ってなんか、いない、わ。誰よりも、だれより、も、自分以外の、ひとのこと、ばかり、考えて、優しくして、きたわ。何が……まちがいなの………」
「ジョー」
イグナシオはチップとジョーにまるで神の祝福でも授けそうな優しい声で呼びかけた。でもその姿はむしろ凄惨だった。口元が震え、イグナシオの指先はあまりに強く握り締められて真っ白になっていた。
「何が間違いだったかというと、ジョー、私の人生そのものです。この世界には優しさも罪も、神も奇跡もなかったのですよ。私はこの世界にはないものに一生を捧げて生きてきたのです。それが存在しないなんて考えもしないでね。見てください、ジョー。この箱の中身を。これが神の奇跡です。500年前に人間が作ったこの機械が。こんなちっぽけな機械が神の奇跡なのです。私が心のよりどころにしていたこれこそがその神秘ですよ」
つみなんてほんとうはどこにもなかったのですね。
イグナシオはぐるりと部屋をうつろな目で見渡しながら言った。
こぽこぽとパイプの中を、Dr.A.Aの水槽の中を空気が通り抜ける音だけが聞こえた。耳が痛くなりそうだった。イグナシオは体をこちらに向けたまま、端正な横顔を見せてじっと『聖なる柩』を見つめていた。
「これは生きているとおっしゃいましたね?」
イグナシオの声はやけに落ち着いていた。
「そうだ。そのスイッチ自体はまだ動作している」
Dr.A.AがP.Pの顔に勝ち誇ったような笑顔を浮かべて言った。自分たちの神の不存在を牧師が認めたことが嬉しくて仕方ないという表情だった。
「このスイッチを押すとどうなりますか?」
「推測できる範囲で答えるなら、先ほども話したとおり世界各地の主要都市に高出力レーザーが降り注ぐだろう。レーザーがどのくらいの規模のものなのか正確にはわからないが、もしかしたら最後の審判とやらを目で見ることになるかもしれない」
「そうですよね」
空気の音は続いていた。イグナシオはそのまま石になってしまうんじゃないかと思うくらいにぴたりと静止して「柩」を見ていた。ときどきまぶただけが機械的に動き、黒い瞳を隠した。それを見つめるほかの7人(Dr.A.Aも含めれば8人)も身動きができずにいた。重苦しい雰囲気がただでさえ不吉な部屋に充満し、ざらざらした空気の圧力に閉じ込められているみたいだった。
悪い予感がした。
ストライクはちらりと隣のレインの顔を見た。
レインもストライクを見た。
「この世界に罪というものが存在しないなら」
イグナシオはそっと撫でるように『柩』に手を触れた。
「もういいですよね。何の意味があるんですか。この世界が正しくあるように私は願ってきました。でも正しさというものが存在しないなら、利己的な精神こそが、欲望のままに生きるということが少しも間違いではないのなら、人の幸福を願うことが無意味なら」
遠目からでもわかるほど白い手を震わせて、イグナシオは『柩』をテーブルから取り上げ、自分の体の前に持ってきた。部屋の中の人びとにはそのつまらない灰色の箱がよく見えた。まるで墓石のようだった。
「こうすることも意味がないことですね?」
震える白い指は赤いスイッチを真っ直ぐに指し
「こんな世界は終わってしまえばいいんですよ。こんな汚い、醜い、報いのない世界なら」