(3)
アルフがやって来たのはその翌日の昼過ぎだった。
チップとストライクとハロウの3人を見つけると、非常に不機嫌そうなP.Pに連れられてきたアルフは、チップの頭をごしごしと撫で、ストライクの頬をでかい手でぱちんと軽く叩き、ダッフルコートを着たハロウを見て「ださっ」と言った。
「遠かったぜえ。汚染区域なんて息していいかもわかんねーし」
「なんでもいいから帰ろうぜ。メシがまずいんだよここは」
チップがしっぽをばんばんアルフにぶっつけて急かしたが、アルフは困った顔をして動かなかった。
「それがよ……」
「もう一人この人は連れてきたのです」
P.Pが不愉快にゴマを振ったみたいな顔で言った。
「先ほど少し目を離した隙に、フィリップ・オリジナルの水槽の部屋に入り込んで感情的になったようでしたので放置しています」
「もうひとり?」
「教会の管理者の宗教家ですね」
「キョウカイのカンリシャのシューキョーカ」
「イグナシオだよ。ぼっちゃん、むずかしい言葉知ってるねえ」
首をかしげたストライクにアルフが言うと、ぼっちゃん呼ばわりされたP.Pがいよいよ眉間にしわを寄せた。不機嫌を通り越して険悪だった。
「可能ならあの宗教家の細胞もあなたの細胞も採取したいのですが。ご協力願えますか。それから、どなたかそのイグナシオ氏をここに連れてきてくれませんか。先ほどから三次元映像で呼びかけているのですが、パニック状態であるようで、しゃがみこんだまま動きません」
「俺は合わせる顔がないんだけど、やっぱりそのことでイグナシオは来たのか?」
ストライクがアルフに恐る恐る尋ねた。
「ん? なんかよくわかんねえんだ。なんつーか、取り乱しててさ。こないだのこともあるからちょっと行きがけに教会に寄ったら、誰かいなくなったとか何かなくなったとかで、とにかく連れてってくれってすごい剣幕で飛びつかれたんで連れてきたんだ。お前なんかしたのか?」
「早く連れてきていただけないでしょうか」
P.Pとストライク以外の3人がフィリップ・オリジナルの水槽の前にたどり着いたとき、イグナシオはぺたりと床に座り込んだまま水槽の中の死体に視線を釘付けにしていた。
「イグナシオ? なあ、行こうぜ。こんなところにいてもしょうがねえよ」
アルフがそっとイグナシオの腕を掴んで引き起こそうとすると、イグナシオはずるずると立ち上がって、そのままよろよろとフィリップ・オリジナルの水槽に歩み寄った。
「この人は死んでいますね?」
「そうですね。俺にも死んでるように見えますね」
アルフがちらっと水槽を見て調子を合わせてイグナシオの体を支えた。暫く見ないうちにイグナシオはとても痩せたようだった。陶器のような白い肌に青いくまが刻まれて、手首や指はまるで小枝のように細く頼りなかった。頬がこけていた。
「どうして天に返さないのですか。召されたのなら、肉体も天にお返ししなければ……」
「それはね、個人のシュミってやつじゃないでしょうか。イグナシオさんよ、なんか返してほしいものがあって来たんじゃなかったでしたっけ。あっちの部屋に行くとなんだかんだを返してもらえるんじゃないですかね」
イグナシオは目を水槽に据えたままだったが、アルフはほとんど抱えるみたいにして、自分で歩こうとしないイグナシオをP.Pのいる検査室まで連れて行った。
動きだした聖像みたいなイグナシオは、アルフに支えられてP.Pの前にやって来た。
「か…えしてください……本当に…どうか」
ぼろぼろと涙を零していた。見ていて胸が痛くなるようだった。
「そうですね。お返しできるものもあります。私のほうはお返しすることに吝かではありません。ですがDr.A.Aの調査のほうはまだ完了しておりません」
P.Pはそれだけ言い残すと、白衣のすそを例によって颯爽と翻して、すたすたとどこかに行ってしまった。やがてちょうどゆりかごくらいの大きさのカプセルをふらふらと抱えて戻ってきて、落っことすみたいに床に置いた。
中にはジョーが入っていた。
「ジョー!」
ストライクはいつの間に、と思ったが、よく考えたらチャンスは一回しかなかった。教会に「聖なる柩」を盗みに入ったときについでにかっぱらってきやがったのだ。
俺より手癖が悪いじゃないか。
イグナシオがほとんど半狂乱でカプセルを開けても、ジョーはぴくりとも動かなかった。死んでるみたいにぐったりとして目をつぶり、前歯をちょっと見せてまるでぬいぐるみだった。
「安定剤を投与してあります。しばらくすれば目覚めるでしょう」
イグナシオはローブが汚れるのも構わず床に膝をつけ、ジョーの小さな体を抱きかかえながら、P.Pの年に似合わない分別くさい顔を見上げ、涙を拭いて「ありがとうございます」と言った。
「ありがとうございます。あなたを許します…神のご加護があなたにありますよう…」
ピピッ
「ははははははは」
P.Pは肩を震わせて笑い出した。
イグナシオは呆気にとられたような、ひどく不安そうな顔をしてP.Pの体を見上げた。正確に言えばP.Pの体を借りてDr.A.Aがげらげらと笑っていた。
「汝の敵を愛せとはよく言ったものだね。許すと来た! 一度お伺いしたかったのだがね、神と言うのは、あるいはその意思を代弁する君たち宗教家というのはなぜいつもそんなにも傲慢なんだろうね。
許す、とはどういうことなのか? 君たちの理論によれば我々は生れ落ちたときから原罪を背負っている。それを神様は『許してあげる』というわけだろう。
その原罪は誰が決めたんだ。一体それは罪なのか? なぜ神などという不確定な概念に『許されてあげ』なければならないのか?
勝手にするがいいと思うよ。わしがしてきたこと、人間がした行為をひっくるめて『罪』と呼び、さらにそれを『許してあげよう』と寛大な処置を取りたいのならば勝手にするがいい。ただしその思想を押し付けないで頂きたいものだね。わしらは自分たちの成すべきことをしているだけだ。誰にも許してもらう必要はない。
それにね、イグナシオ君、全世界に許しを請うべきは教会のほうではないのかね。知らないと言うことは罪ではないのかね」
P.PであるところのDr.A.Aは、いつもの嫌悪感を見事に喚起させる笑顔のまま、くるりと背を向けて歩き出した。
「付いて来たまえ。神や奇跡の正体をお目にかけることができるだろう」
約二ヶ月ぶりに入ったその部屋は、ほとんど代わり映えしていなかった。ただ一点だけ以前とは異なっていた。かつては入るなり蝋作りみたいな、育ちすぎた胎児を髣髴とさせるDr.A.Aのくしゃくしゃの体が否応なく目に飛び込んできたものだが、今回飛び込んできたのはそのDr.A.Aのプールの前にある細長い、簡素な白いつくえとその上に乗っかっている「聖なる柩」だった。ただし「聖なる柩」は、一目ではそれとわからないほどに変形していた。
「あ……あ…………」
P.Pの小さな背中に続いてこの罪深い部屋に足を踏み入れたイグナシオは、その金属のからくり箱と化した物体を「聖なる柩」と認めるなりくたりと膝をつき、頬を震わせて手を組んだ。
「なんということを……」
「君はその箱の中に何が入っていると思っていたかね。君の宗教の目録にはそれが記録されている。その記録は2212年に書かれたものだね。知っていると思うが。
それは第4次世界大戦の終戦の年と一致する。それ以前にその『聖なる柩』とやらの記録はない。一切だ。第4次世界大戦が終わると同時にその箱は歴史に忽然と『飛び出した』のだ。十戒やそれが収められたアークの話を知っているかね? あるいはそれに類似した神からの贈り物の話を? 必ずそれらには神と人間との取り決めがあり、約束があり、由来が付いて回る。だがこの箱には何もない。君はそれを説明することができるかね?
たった500年前、第4次世界大戦がこの世界の文明を破壊しつくしたその時、神様がいきなりこの箱を置いて帰ったのか? 500年前と言えばそれこそ神の権威は失墜し、ほとんど全ての科学技術が無に帰して神の奇跡も頼るべき科学も何も無くなってしまった時だ。そんなときに神が現れてお言葉の一つもなく奇跡も表さず、『開けてはいけない』箱を置いて行くものだろうか?」
P.Pの白衣の背中は淡々と愉快そうに言葉を続けた。
イグナシオは理解できないと言う風に眉根をよせ、目をほとんど潤ませて、14歳の少年の背中を恐ろしいものでも見るように見ていた。
「そしてまた、何の奇跡も表さない神への信仰がなぜここまで手厚く保護されているのか? 500年経った今でもだ。そこで神の僕と自称するイグナシオ、伺うがね、それはなぜだね?なぜ神は混沌とした大戦後のこの地上にそんな箱一つを置いて去ってしまったのだ?」
「…………神の御心は……我々に窺い知ることはできません。神の思惑を勝手に思い描くことは罪深いことです。人の推し量れるものではありません。それは身の程を知らぬ行為です」
「それは思考を停止させる宗教的思想にありがちな考え方だ。ではもっと現実的な考えを伺うことにしよう。神の思惑とやらが感知しない現実の話だ。500年だ。君はどこの神学校か知らないが教育を受け、あのご大層な教会に派遣され、その奇形の獣人と──P.Pの調査によるとどうやらそれはトガリネズミの変種の獣人であったらしいが──二人で生きていけるだけの寄進を受けているようだ。誰も祈りに来ない辺境の教会でだ。
君は自分の属している宗教がどれほどの規模のものでどれくらいの信者が居て、平均どれくらいの寄進がなされるものか知っているかな? 君の教会を維持するためにどれくらいの資金がかかるだろうか? 一つ教えてあげると、君の教会は全ての税金を免除されている。路上生活者でさえ何らかの形で必ず要求されるものをだよ。これがどういうことかわかるかね? それは国の好意だと考えるかね?」
「何がおっしゃりたいのですか? 私は……人々や国の好意によって生かされているのです。私こそが人々の善意を糧に神のみ技によって導かれているのです。そのことの何がいけないのですか。何をおっしゃりたいのですか」
P.Pが振り返った。いつものガラスのつくりものみたいな奇妙な透明度の目が、軽蔑したようにイグナシオを見た。
「君も気がついているはずだよ。見ただろう。この箱を我々が盗むときに教会中を照らしたサーチライトを。あの時扉を閉ざしたのは鋼鉄の天使の手ではなく電子ロックだったのを。
あれが正体だ。神なんかいない。君が教え込まれてきた神のおしえなんて言うものは、君のような忠実な羊を作るためのマニュアルにすぎない。本当に神がいるのならあの時我々を天使たちが捕まえ、神の力に我々は焼かれているはずだ」
こぽこぽこぽ、と空気が水をくぐる音が聞こえていた。どこかでモーターが軽く唸っていた。Dr.A.Aの体は青い液体の中で微動だにしなかったが、Dr.A.A自身はP.Pの体で好きなように動いていた。P.Pの指がさっと「聖なる柩」をさした。
「まだわからないなら覗いてみるがいい。これが『奇跡』とやらの正体だ」
イグナシオは糸が何本か切れてしまったマリオネットみたいに危なっかしく立ち上がると、一歩一歩テーブルに近づき、蒼白な顔で、まるで何もわからないまま遺体の入った棺おけを覗き込まされる子供のように恐る恐る箱の中を見た。




