(8)
船はどんどん教会から遠ざかっていった。
だって、イグナシオ、仕方が無かったんだ。
俺だって何も盗むつもりなんかなかったんだ。ほんとうにあの日から、自分に言い訳しながら、天使の彫刻や、目の前の視線に後ろめたい思いをしながら生きていくのはもうやめようって思ったんだ。こんなこと好き好んでやったんじゃないんだ。
イグナシオに前に捕まったときもそう言ったんだ。
こんなことしなくても生きていけたんなら。
どうしてよりにもよってイグナシオをまた傷つけないといけなかったんだろう。
「ピピッストライク君。その柩を渡してくれ。君にはなんの価値もないものだ」
ストライクはそう言われてやっと、自分がまだ固く四角い冷たい、そののっぺりとした箱を大事に抱えていることに気がついた。反射的に手を開くと、『聖なる柩』は船のリノリウムの床に落ち、ごつんと鈍い音を立てた。
「おい! 乱暴に扱うんじゃない。拾ってここまで持ってくるんだ」
嫌だった。もうそれに触りたくなかった。
ストライクが真っ青な顔でゆるゆると首を横に振ると、例の機械音がしてP.Pがそれを拾い上げ、Dr.A.Aが指示した運転席の横のごつい入れ物の中にしまいこんだ。
「ピピッどうしたんだ、大泥棒のストライク君。ずいぶん顔色がよくないが後悔でもしてると言うのか? 君はこんなことの専門家じゃないか。胸を張るべきではないのかね? 実際わしは君のそのプロフェッションに大いに助けられた。
あの教会はその柩の保管場所であるためか、あの古さにしては驚くほど保存状態がよく、施錠も行き届いていてね、わしだけでは壁を破壊でもしなければ、それを盗み出すことはできなかったのだ。君は君の技能を誇りに思うがいい」
「……」
「不満なのかね? 君の兄弟の殺人犯も生かして返すし、君も自由の身になる。自分の技術を生かす場も持つことができた。わしもP.Pもそれを評価するよ。一体何が不満だというのかね」
「……」
「報酬に不満があるのなら相談に乗ろう。ただあまり高望みすると、君の双子の殺し屋もどうした加減か死んでしまうかもしれないがね」
「……そんな話したくないんだ。イグナシオは知り合いなんだぜ。それを……目の前で盗んだりして…」
Dr.A.Aがあの不気味にゆがんだ顔ではははと笑った。
「君のこれまでの犯罪歴を見ると、君がそういった感傷を抱くとは考えがたいのだが、わしの理解する範囲で個人的な意見を述べてみよう。
先ほど不法に家宅に侵入され、管理下にある物品を持ち出された気の毒な牧師は君の友人かもしれない。でもだからどうだというのかね。君がこれまで盗んできた数々の品々に持ち主がいなかったと思うのかね? どんな品物一つをとってもやはり同じように持ち主がいて、他人に奪われたいとは思っていなかったはずだ。例外はあるだろうがね。
君が先ほど犯した窃盗と、これまで君が犯してきた犯罪は何一つ変わりはないのだよ。『知り合いだから心が痛む』などというのは無に等しい。偽善に過ぎない。ほんとうの偽善だ。わかるかね? 知り合いから盗むことに胸を痛めるくらいなら、最初から誰からも盗むべきではないのだ」
「だって今回は……今回はあんたがやらせたんじゃないか! 俺は盗もうとなんて思ってなかったんだ。あんたがレインを人質に取って、ハロウやチップを閉じ込めて、こうしなきゃいけないようにしたんじゃないか!」
Dr.A.Aは再びゆがんだ微笑みをストライクに向けた。
どうして中身が変わっただけであんなに気持ちの悪い顔ができるようになるんだろう?
「そう。そうすればいいじゃないか。ストライク君。そうやって自己弁護したまえ。それはとてもよい解決法だと思うよ。自分を正当化して現実問題から遁走することは、精神の安定を保つのにとてもいい方法だ。簡単でね。
君の言うとおりだ。君が窃盗に手を貸したのは、わしが全部仕組んだからだよ。君が動かざるを得ないようにな。君は君の人殺しの兄弟と、友人と呼べるのかどうかもわからないような旅の仲間のためにものを盗んだのだよ。仕方なくね。君は何一つ悪くない。君には何も罪はないよ。満足したかね。ではおとなしく到着を待つことだ」
Dr.A.Aはそこまで言うと、運転席から前に向き直って箱をいじり始めたので、ストライクは力なくぐったりと布張りのベンチに腰をかけた。
──なぜ盗みが罪と言われるのかというと、何一つ自分がその身を削らずに、誰かから奪うだけ奪っているからです。
Dr.A.Aは正しい。イグナシオと同じことを言っている、んだ。たぶん。でも、正しいのはわかるけど、でも、
「吐きそう」
「酔い止めがありますが服用しますか。あくまで予防の段階で摂取しておくべきものですが」
「……いらない」
P.Pはいつもの調子で「あと81分で到着です」と言った。そしてこめかみから生えていた銀色の線を引き抜くと(少なくともストライクにはそう見えた)、白衣の胸のポケットからいつものモノクルを取り出して、線を引き抜いた穴にぐさりと突き刺した。P.Pの顔はその一連の動作に少しも動かなかった。
ストライクは思わずそれに見入ってしまって声を掛けた。
「痛くないの?」
「配線用のバイパスに繋がる合金のソケット部分に接続しているだけですので、接続の際に異物を感じることはありますが特に痛みはありません」
「それ付け替えできるんだな」
「必要に応じて」
「ほかにどんなものがつけられる?」
「端子が合うものなら何でも」
「街灯とか?」
「車もですね。繋がるだけですけど」
「繋がってどうする?」
「電源を入れたり消したりでしょうか。車ならエンジンを掛けられるかもしれませんね。繋がった端子によっては」
「便利?」
「使用法によります。たとえば電子ロックでないと私には開錠できません。あなたにはできますが」
ストライクが黙り込むと、P.Pは運転席から少しだけ振り向いた。
「あなたの技術を高く評価します」
「ありがとう。でも俺は取り返しのつかないことをしてしまったような気がずっとしてる。Dr.A.Aは偽善だと言うけど……」
「私にはそういった概念がよくわかりません。Dr.A.A本人かハロウ・ストームさんに意見を求めることをお勧めします。私は今夜法律に反する行為をいくつか犯しました。しかし私たちはこのくらいの犯罪行為を追及させないことが可能です。ですから私たちは実質的には無罪です。おわかりですか」
「……罪がなかったことになるっていうこと?」
「そうですね。一般的に法律というものは他者の心身や名誉、財産を守るために作られたもので、それらを侵害したからといって自動的に適用されるものではありません。しかるべき手続きが必要です。つまり、その手続きが取られない限り、どんな犯罪行為を何度犯しても、法的には無罪なのです」
「なあP.P」
「なんでしょうか」
「それはうそだろう?」
「事実です」
「じゃあP.Pは何も悪くないのか? 俺も何も悪くないのか?」
「そうです。法的には無罪です。イグナシオさんがどこの警察あるいは弁護士に掛け合ったとしても、どこかで必ず我々の犯罪行為は立件を見送られることになっています」
「じゃあ今夜のことは罪ではないのか? 家をこじ開けて? 箱を盗み出して?」
「無罪です」
「イグナシオを裏切って? お願いだから裏切らないでくれと言った人との約束を破って? それでも罪ではないのか?」
「それはもともと違法な行為ではありません」
じゃあどうしてさ、どうしてどうして
「じゃあどうして約束を破った人たちはイグナシオに会えないんだ!」
「その発言は意味不明です。脈絡がありません」
そして船はゆっくりと研究所に収まった。