(5)
ハロウは今どんな気持ちなんだろうな。
ストライクはベッドに体を横たえたまま、隣のコンパートメントを壁越しに見た。あの箱が開いてから、隣の部屋からは何一つ物音が聞こえない。箱の声と一緒にハロウまで消えてしまったみたいだ。
とりあえず箱がハロウ宛のものだったことで、ストライクは少し安心していた。
よかった。のかな。
渡るべき物を渡るべき人へ。
そしてP.Pがやって来た。
「ストライクさん、どうしますか」
「行く」
ストライクはむっくり体を起こして、久しぶりにその小さな白い部屋を出た。体がなまっているのが、ドアまでのそんな数歩でもよくわかった。
だりぃ。
「今何時?」
「午後11時13分です」
「何時間で着く」
「2時間17分での到着が想定されていますが、トラブルがあった場合はその限りではありません」
「……トラブルって起こりそうなのか?」
「現在までのデータでは100%トラブルは発生しておりません。しかし確率を考慮しますと、路上で何らかの危機に直面する可能性は、いかなる場合も必ず存在します」
ストライクは例によってP.Pの口をなんとかして閉じさせてやりたくなったが、黙っていた。
小型の船みたいな、ハロウとストライクとチップをイグナシオの教会から運んできた乗り物に乗りながら、ストライクはぼんやりと外を眺めた。今は俺しかいない。P.Pと二人だけ。久しぶりに外の世界を見たと思った。
だけど外はやっぱり雪で、この無人の立ち入り禁止区域を、夜の闇の中にいくらすかしてみても何一つ見えなかった。空気だけが冷たく、雪のにおいがしていた。
「何も用意していないようですが大丈夫ですか」
「うん」
あとは無言だった。
密閉されているはずの船内だが、ストライクには、外の凍るように冷えた風が、どこからか吹き込んでいるように思えた。耳を澄ませばその風の音や、船の進む音や、人の声さえ聞こえてきそうな気がした。でもそんなのはぜんぶ気のせいにすぎないとよくわかってはいた。丸い窓にぴたりと手のひらを押し付けると、窓はさっと白く曇り、少しだけ汗ばんだ手を取り残した。切り取ったようにぽっかりと開いた手のひらの形の闇の中に、見慣れた顔が映りこんでいた。
黒い髪は外の景色に埋もれ、黄色人種特有の奇妙な強さを持った肌が、不思議なくらいに生気を失って浮かんでいる。ストライクは確かめるように何度か瞬きをしてみた。世界で一番見慣れた顔はそれに倣って瞬きを返した。
自分の傍らにはいつもこの顔があった。鏡なんか見る必要がないくらいに。こんな雪の季節も二人だった。風邪を引くのもいっしょ。治るのもいっしょ。気がついたら二人きりだった。寒かったよな。
最初の記憶は路地裏。季節は覚えていない。誰か女の人が手を伸ばしてきたので、レインがその手を取った。広い車に乗せられたような気がする。すごく大きな灰色の建物の中に連れて行かれて、女の人とはそこで分かれた。あの人は誰だったんだろう。
行った先は、顔だけ出た灰色の服を着たおばさんたちがたくさんいるところだった。今思うとあれは何かの宗教の尼さんたちだったんだろう。よく覚えていないけど、すごくひどい目に会って、夏の夜に二人で窓から逃げた。
気がついたらサーカスの子になってて、レインは弓を始めてめきめき上達してステージに立つようになった。俺は何もできなかったから、ほかにもたくさんいた子達と泥棒になった。見つかると財布の持ち主と警官から殴られる。サーカスに戻って親方からも殴られる。「お前なんかレインがいなきゃぶっ殺してやるのに」って何回言われただろうな。いつもレインが俺を庇った。
だんだんうまくなって、鍵開けが誰よりも得意になって、へまをしなくなったころに今度はサーカスが駄目になった。あの時は二人で話をしたっけな。どうする? って。どっかに連れてかれるらしいぞって。レインはすごく落ち込んでた。だって……
「だって俺は普通のことは何にもできないよ」
「俺だってできない」
「どうせちっこいころに入れられてたみたいなところに行かされるんだろ」
「よく覚えてないけどな」
「俺は覚えてるよ」
「どんなとこだっけ?」
レインは言いたくない、と言って顔を背けた。お前は忘れたって言うのか?
「本当に覚えてないんだよ。飯食わせてもらえなかったのと……鞭で叩かれたな」
「ふん」
「……まあとにかく……そんなに嫌ならまた逃げ出せばいいじゃん」
「だからそうしたところでさ……」
「いいよ。これまでもなんとかなって来たじゃねーか。大丈夫、大丈夫」
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
ぜんぜん大丈夫じゃなかったけど。