(3)
あの日僕はリリィにピンク色をしたゆりの花を持っていった。
ハロウは冷たいガラスの壁に額と両手を付けて自分の脳みその中を歩き始めた。脳みその中には、たくさんの回廊とたくさんのドアがあって、どれも少しずつ似ていてどれも少しずつ違っていたので、その扉にたどり着くのにかなりの寄り道をしなければならなかった。
それはたしか5月のことだったはずだ。そう。とても暖かい日で……でも窓を閉めた。風がとても強かったから。
「窓を開けていたいお天気なのにね」
リリィは口を尖らせてそう言った。
彼女の母親が窓を閉めて部屋を出て行った後、ハロウとリリィはさんさんと初夏の日差しが降り注ぐ中庭を眺めていた。
天使のランプが気持ちよさそうに、強い風の中を口にラッパを当てたまま飛んでいた。風はびょうと鳴って窓を揺らし、暴力的なほどに青々と葉を茂らせた木や草を激しく波打たせていたが、その太陽の光の中でそれは不安を感じさせるものではなかった。ベッドの横に飾られたゆりの花の一輪を、リリィは病的に細く白い手でそっと取った。
「ねえ、ハロウ、あなたの本当の名前はなんていうの?」
「本当の名前?」
「ハロウって本当の名前じゃないのでしょう? お姉ちゃんもお仕事で別な名前を使っているでしょう。それと同じなんでしょう?」
「そうだよ。ペンネーム…だね」
そのときハロウはすでに自分の本当の名前を全く使わなくなっていたので、彼女がどういったことを聞きたかったのか一瞬わからなかった。
本当の名前。
「私はリリィでしょう。生まれたときからそう呼ばれてるわ。ねえ、ハロウは?」
「僕も生まれたときからハロウと呼ばれていたよ」
「でもそれはほんとの名前じゃないでしょ? 私知ってるわ。ハロウのパパの苗字はオルフェリウスだもの。ハロウだけ苗字が『ストーム』なんてないわ」
そこでやっとハロウはリリィがハロウの、市民として登録されているような名前のほうを聞きたいのだとわかった。
「ハロルド。だよ。僕の本名はハロルド・オルフェウス・オルフェリウスだ」
リリィは大きくてとても上品な茶色の瞳をぱちくりさせて、もう一度ハロウにその名前を繰り返させた。そしておかしそうにくすくすと笑った。
「長いわ。覚えていられない」
「うん。僕もそう思う。実際にさっきまで忘れていた」
「魔法の呪文みたいね」
リリィはすっと窓に手を伸ばして開け放った。ハロウは慌ててリリィの体と窓に手をやって、風に煽られるのを防いだ。リリィはまだくすくすと笑っていた。
日差しのにおいをいっぱいに含んだ風が吹き渡り、リリィの甘いにおいのする、背中の真ん中くらいまである長い髪の毛が舞い上がった。
「いいなあ! 私の名前は短すぎると思わない? ねえハロウ、私に名前を付けてよ。忘れてしまうくらい長くて、素敵な名前をつけて。私の本当の名前をつけて」
それで…………
僕は腕を組んで暫く外を見ながらそれについて考えたはずだ。彼女の名前はリリィだから、
だから、
ハロウは一つ大きく深呼吸をした。そっと箱を探り、スイッチをそっと押した。
「パスワードをどうぞ」
「リリアノーラ」
「パスワードを確認。ブロックを解除します」