(2)
またポンと音がした。
「ピピッ」
P.Pのゆびが今つけたばかりの、ガラスの白い曇りをぐりぐりと拭き取った。そして右の目をぎゅっと寄せて中を覗き込み、ぐにゃと唇を歪ませて笑った。
「やあストライク。元気そうだね? 実は君に折り入って頼みごとがあるんだよ」
ストライクは顔をしかめて白衣のP.Pの横顔を眺めた。
「そんな顔をするな。君にならきっと簡単にできることだ。まさか傷を治してもらってそのまま出て行こうなんていう恩知らずでもあるまい」
ねちっこい蛇のような話し方にストライクはぞっとした。見た目は変わらないのに、中身がDr.A.Aになっただけでどうしてこんな落ち着かない気分になるんだろう。
「箱があっただろう、ストライク」
「……箱?」
ハロウの箱? 箱? どの箱のことだ。
「察しが悪いな。やはり頭の回転がよくないようだ。わしが言っているのはあの教会にあった箱のことだ」
「そー言えばあんたたちが教会に来たのはあの箱のことでだったなあ」
チップが腕を組んで扉のすぐ横によりかかった。Dr.A.Aはチップの言葉を無視した。
「あれを手に入れてほしい。方法はお任せしよう。準備が必要なものがあればP.Pに言え」
「は?」
「君になら簡単だろう。引き受けてくれ」
「何を言ってるんだ?」
「君はわしが思っている以上に頭が悪いらしいな。しかし能力というものは学術的な事象にのみ発揮されるものではない。例えば君の窃盗の技術がそうだ。知能指数がわしやP.Pよりも低くても、わしやP.Pよりも技巧的に技術を習得し行使することができる。無論使用している脳の部分が異なっているからだが、君に説明してもわかるまいな。あの箱を盗んでここに持って来てくれ」
俺がチップならとっくにしっぽが太くなってるころだ、と、ストライクはゆっくり呼吸しながら思った。猫のしっぽを羨ましく思ったのは初めてだ。
「なんであんたみたいなやつのためにあれを盗んでこなくちゃなんねーんだよ。絶対やらねーからな。大体P.Pには恩もあるし感謝もしてるが、あんたにはずっと罵倒しかされてねーよ。あんたのために動く義務はないね」
「罵倒か。これは失礼。わし自身ここ100年ほどP.Pとしか口を利いていないのでね。わしの話が理解できないような人間との話し方を忘れてしまったのだよ。ところでストライク、君は『ドミノ倒し』という遊びを知っているかね。全ての文明を破壊したと言われる、第4次大戦の中にも生き残った数少ない古き善きゲームだよ」
Dr.A.Aは手前にあった椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。椅子はきゅうとさび付いた声を上げた。生っちろい小さな顔は、白い棺おけ(3065号が入っている装置)の覗き穴から淡い青緑色の光を受けて満面の笑みを浮かべている。
「知らんかね。ドミノという牌をいくつも並べ、最初の一つを倒せば連鎖で全ての牌が倒れるようにする遊びだよ。ただ全てが倒れればいいのではない。その連鎖はある一定の軌跡を描かなければならない。その軌跡は複雑であればあるほど、その連鎖は長ければ長いほど美しい」
「それがなんだって言うんだ」
「例えば一つ目の牌。君がケットローグで捕縛された時の3人の共犯者だが、そのうちの2名がその後別な場所で逮捕されている。一人は自分たちがある集団に属していたと自白している」
Dr.A.Aは面倒くさそうに白衣のポケットから布切れを取り出し、左のモノクルを左手で支え、右手で挟むようにして拭いた。
「二つ目の牌。さて、その集団について調べてみると、どうやら窃盗を始めとした犯罪組織らしい。ただし小規模で犯罪としても軽度のものだった。だがどうやらここ一年で、それまでとは異なった事業に手を出し始めたらしいね」
「三つ目の牌。残る君のお友達の最後の一名は、ミストハウバーンの街で死亡が確認されている。名前を知りたいかね? 君の友達だと思うよ。ブロウドという男だ。その遺体には特徴のある凶器が使用された痕跡があった」
扉がゆっくりと開いてハロウが亡霊のように滑り込んできた。でもDr.A.Aは話をやめなかった。
「4つ目の牌。死亡が確認された君のお友達、憐れなブロウド氏の死体に残された凶器は、他の事件でも同型のものが見つかっていた。3件ほど犯罪組織の上層部と言われる人間が暗殺された事件だ。とても特殊な凶器だからね。間違えようがない。時代錯誤もはなはだしいが、それは弓矢だ。ちょうど君の大腿部にあった傷と同様のね。
ただすべて一撃で絶命させているため……無論君を除いてだが。暗殺者には『魔弾の射手』などという小ざかしいあだ名が付いている。元となったオペラにおける『射手』とは銃の射撃手のことであると言うのにだ」
「5つ目の牌。ブロウド氏はどうやら属していた組織の私刑として殺された可能性が高いと見られている。それがなぜ他の暗殺事件に使用されたのと同じ方法なのか? つまりブロウド氏及び君の属していた組織の新しい仕事は暗殺だということだ」
「6つ目の牌。14年前のある記録が残っている。二人の人間男子の兄弟がハンナ・ウォルスキート養児院に引き取られたという記録だ。兄弟の年齢は不明であったらしく、年齢欄には二人とも5〜7と書き込まれている。二人の呼び名はストレインとストライク。二人とも黒髪、黒い瞳、健康体。白人と見られるが、黄色人種の混血の可能性あり。そしてその3年後の記録。ストレイン、ストライク、脱走により所在不明。ふふふ、このハンナ・ウォルスキート養児院は7年前に児童虐待と不正労働で告発されて消滅したよ。実際はどうだったかね?」
ストライクはその黒い目でDr.A.Aを睨み付けた。
「7つ目の牌」
Dr.A.Aはそんなストライクに向かって歯をむき出しにしてにっこりと微笑んだ。
「二人は公的には未だに行方不明のままだ。だがここに不思議な記録がある。9年前の記録。これは町内新聞の記事だ。『サーカスがやってくる──ゾーラ・グランガーデン。来る7月23日、各地を旅する高名なサーカス、ゾーラ・グランガーデン一座がやってくる。綱渡り、空中ブランコはもちろん、人間ピラミッドや軟体美女など見たこともない夢の出し物が目白押し!中でも注目は若干9歳のストレイン君による射的。小さな体から繰り出される弓矢は決して標的を誤たない』稚拙な記事だが内容はわかる。ここに射的の名手、ストレイン君が現れる」
「そんなの偶然かもしれないだろ」
「問題はこの後だ。その2年後にこのゾーラ・グランガーデンは路上生活をしている孤児を拾っては芸を仕込み、それに向かない子供にはスリの技術を教え込んで町で財布を取ってこさせる、サーカスを隠れ蓑にした犯罪者育成機関だったことが発覚し、団長以下成年12名が捕縛、18歳以下の少年少女13名が保護されている。その保護された少年少女の中に、ストレイン・ストライク兄弟が含まれている。彼らは慈善院に送られたとされているが、その後の記録はない」
椅子がきりきりと音を立てた。Dr.A.Aは長い机にひじをついてこめかみを少し触った。そのしぐさはP.Pのよくやるのに似ていた。
「本当はどこに連れて行かれたのかね。それとも逃げ出したのか? まあどちらでも大差ないが」
白い棺おけがまたポンと鳴った。
「次の牌。その2年後、ストライクという少年がたびたび補導されるようになる。主に窃盗罪。身元引受人はアルヴィル・ドーという人間男性ということになっているが、実際にはこの男性は存在しないな。そうだろう。戸籍も出生証明書もないのに運転免許証を持っている男がこの世界にいるわけがない。このころからすでにストライクはどこかの組織あるいは集団に拾われていたわけだ。
さて、この軽犯罪常習犯のストライクとゾーラ・グランガーデンで保護されたストライクは、君の反論も空しく同一人物だ。指紋を取られただろう? そして無能な犬の警官どもが見事に見逃したようだがね、その指紋は14年前にハンナ・ウォルスキート養児院で指紋を採取され、11年前に失踪届けが出された当時8歳前後のストライクとも一致するのだよ。そして先日殺された哀れなブロウド氏もまた身元引受人にアルヴィル・ドーと書いていた。偶然だろうか? つまり君は巷で『魔弾の射手』と呼ばれている暗殺者と同じ集団に属していたと言うことだ」
「さあ。次の牌だ。P.P。あの写真を投射してくれ」
「ピピッ了解しました。25倍に引き伸ばして投射します」
「ピピッ」
空中に横3メートル、縦2メートルほどもあるスクリーンが突然現れた。そこに一枚の写真が写っている。それは一人の青年、あるいは少年の全身を遠目の俯瞰から写した写真で、ピンぼけな上に画質が悪く、細かい表情はちっとも読み取れない。だがそんなことは本当にささいなことだった。その立った感じ、鼻の形、髪の色……
「ストライクじゃん?」
チップがすっとんきょうな声をあげた。
「そう。そっくりだ。さすが兄弟と言うべきかね。実際に2727年の9月にストライクはこの写真の主と間違われて事情聴取されている。まぬけなことに、事件の当日、ストライクが留置場に入れられていたのが証明されたので別人とわかったのだが。これが『魔弾の射手』の現在唯一の写真だ。彼がストレインだね?」
「あんた何が言いたいんだ? 勝手に人のことをかぎまわってくれたみたいだけどな。俺は何も言わないよ。あんたの調べたことは俺には関係ないね」
Dr.A.Aはにやにやと笑って「そう言ってくれて嬉しいよ」と言った。
「さっきも言ったとおり、ドミノ倒しというゲームは手が込んでいるほど充実感が増すのだ。まだ牌は続いている。楽しみにしておくことだ」
「ピピッ」
ポンとまた音がした。
P.Pはにやにや笑いが張り付いたままだった表情を戻し、こめかみを指でさすって目をつぶった。
「昼食にしましょう」
4人がぞろぞろと廊下を歩いている間も、誰も一言も口を利かなかった。