(3)
3人はとても狭くて薄暗くてじめじめしていてやかましい酒場に腰を下ろした。もう少しマシな場所もありそうだったが、黒服の男が「人気のないところ」と言ったので黒猫がここにしたのだ。ほとんど獣人専用の店らしく、人間はストライクと黒服の男しかいない。「人気がない」というわけだ。かわいらしいポメラニアン顔のウェイトレスが注文を取りにやってきた。
「マタタビビール3つ」黒猫は当然のように言った。
「で?」
ストライクが不機嫌に口を開くと、なんと驚いたことに黒猫まで「それで?」と男を見上げた。もう何がなんだかわからない。
「それで」
黒服の男はシルク・ハットを取ってそっとひざの上に置いた。コート掛けなんていう気の利いたものはない。
「さっきあなたは僕の財布を取ったわけですよね。すごく上手に。僕はぜんぜん気がつかなかった。」
(黒猫が「俺が気づいてやったんだぜ!」と猫背を伸ばした)
「そうだよ。でもその後ちゃんと財布も返したし、あんたも文句付けなかったじゃないか」
今さら文句を言うために俺をまた捕まえたのかよ、と、ストライクは最高にイライラしてきた。自分は法律に守られている、財産に守られていると思っている世間知らずは大嫌いだ。身包みはがされて放り出されてしまえよと思う。はがしそこなったわけだが。
「財布の中身は少ないですか?」
「は?」
しかもイヤミか? とんでもございません、たいそうな大金でございましたとでも言えばいいのだろうか。これだからご教養のおありになる金持ちのボンボンなんてものは性根がお腐りになっていらっしゃるのだ。
露骨に嫌な顔をしたのがこの、人の目を見ない(先ほどから彼は、目の前の木製のテーブルにある木星のクレーターみたいな木のこぶの模様を熱心に見詰めているように見える)黒服の男にもわかったようで、うつむいて、そのしょうがみたいな、薄い黄色の髪の色しかわからなかった顔を、少しだけ上げてストライクを見た。
「実は……あなたのような人でないとお願いできないことがあって。せっかくお知り合いになれたので……お話できればと思いまして……」
貧血でぶっ倒れそうな顔をしていた。好意的に見るなら、とても切羽詰った顔をしていた。
「こちらの黒猫さんに頼んであなたを追いかけてもらったんです」
黒猫はフンと鼻を鳴らす。
「無論俺だってタダじゃねーよ。そもそもがスリ師をとっ捕まえてやって、財布の中身を何割かもらうつもりだったんだよ。そしたらそのにーちゃんが『もういちど彼を捕まえてくれないと払いません』とか言い出すからよ」
「そうでしたね。あなたにもお支払いしないといけない」
「そーそー。早くね」
マタタビビールが運ばれてきた。試しに一口飲んでみると意外と口当たりがいい。黒猫はくぴくぴとうまそうに半分ほど飲んだ。どうやら財布を掏ったことに関して何かあるのではないらしい。意外なことだが。むしろその技能を認めて何か頼もうとしているのだ。
いったいどれだけ甘ちゃんなんだこのボンボンは。
しかしストライクはこの街にもういるわけにはいかなかったし、手ぶらで街を出る気もなくなっていた。
もうへまはしない。
「とりあえずその『お願い』の中身を聞いてみねえと」
黒服の男はまるで熱いカップでも持つみたいに、ビールジョッキを両手で包むようにして話し始めた。
「ある家にあるあるはこを盗み出して欲しいのです。」
「はこ?」
「そうです。パンドラ・ボックスというのをご存知でしょうか。最近若い女性の間で流行っている一種の伝言ボックスです」
「ああ、あの恋人同士の合言葉がないと箱が開かなくて、入ってる伝言もきけないってヤツか」
黒猫青年がなぜか一緒に聞いている。
「そう。それを一つ盗んで欲しいのです」
「ふーーーーん……まあ、あのね、相手にもよるし、場所にもよる。もちろんモノにもよる。あんたが出す金額にもよる。わかるよな?」
黒服の男はかすかに頷いた。頷いたんだかなんだかわからないくらいかすかだった。
「その箱はからくり師のリシュリュー・エウリディクの家にあるはずなんです。隣町に家と工房があり、恐らく家のどこかにあると思います。モノはまあパンドラ・ボックスですから……10センチほどの立方体でしょうか」
男は泡の消えかけたビールから手を離して、指で空中に四角い形を描いた。
「お出しできるのはその財布全部です。もちろん黒猫さんにお渡しする分を引いてですが。あいにくそれ以上は持ち合わせがないので」
「ぜんぶ?」
男はまたほんのちょっとだけ頷いた。
無表情すぎて冗談なのかどうかもわからない顔をしていた。
この男は目が灰色だなあ、とストライクはその時気がついた。