(1)
そのまた次の日になると、もう傷は頬も足もほとんどなくなってしまっていた。しかしP.Pには頬にテープを張られた。
「なんで。もう治ってるじゃん」
「昨日もお伝えしたとおり、色素斑ができやすいんですよ。あと一月はこうやって保護しないと、この傷の形に一生色素が沈着してしまいますよ」
「一ヶ月も貼ってたらテープの形がほっぺたに付いちまうよ!」
でもP.Pはテープを剥がしてくれなかった。
「テープによってかかる圧力、テープの素材、紫外線量、あなたのアレルギーの有無を考えても、そんなことはありません」
P.Pの診察が終わると例によって何もやることがなかったので、研究所の中を歩き回ることにした。P.PもDr.A.Aも止めないから問題ないのだろう。単にどこで何をしていても筒抜けだからかもしれない。ハロウは昨日の夜に自分のコンパートメントに入ってから全く出てこなくなってしまった。途中から見るからにヒマそうなチップも合流してきた。
「よ。めぼしいものはあったのかよ」
「ばか。盗んでねーよ」
「いつまでもつかな」
やれやれ。この猫には最初から信用されていない。
ストライクは自分の首にかかったままの、イグナシオからつけられた聖印の首飾りに軽く触れた。とても古い銀細工の首飾りだった。いびつなトンボ玉がいくつか入っている。
箱を開けにかかっているハロウの邪魔をしないよう、コンパートメントを迂回して、P.Pのオリジナル──フィリップ・アンテノワの遺体の部屋を通る。
どうして死体をこんな風に飾っておくんだろう?
Dr.A.Aだって見ていて不気味だけど、あっちは少なくとも生きている。
渡り廊下の向こうで「ポン」と音が聞こえたので、チップと一緒に入ってみた。どうせだめだったらP.Pがゆうれいみたいにポッと出てくるんだ。こちらの部屋はP.Pが自分と同じ個体がストックされていると言っていた部屋だった。ストライクはちょっと想像してみた。部屋の一面を埋め尽くす死体みたいなP.Pが入った箱。それが一体どういうことなのか考える前にチップが扉を開けてしまった。
中はストライクが想像していたようなものではなくて、ちょっとした実験室みたいになっていた。病院とそっくりな検査室に比べれば、ずっと本物の実験室に見える。でもやっぱりただの実験室ではなかった。入って2メートルばかり右手にガラスの壁があり、その壁で部屋は二分されていた。ガラスの奥にはやはり昨日の「ストック」たちのように、ガラスの棺おけがずらりと積み重なっていたが、一番向こう側の奥には、昨日の「ストック」の倉庫にはなかったような、とてもでかい試験管みたいなものが並んでいて、中に何か入っている。遠くから見たらピンク色のボールのようなものだった。
ポン、とまた音がした。音は左側から聞こえた。
チップが左の耳をくるりと向けた。
その左側の部屋、ガラスの壁のこっち側は、一番奥に5人は掛けられるような横に広い机があり、キャスターと背もたれと肘掛のついた椅子が二脚あり、机の上には普通の大きさの試験管と、気まぐれに捨てられたような注射器、半分ほど入った液体が少し蒸発して濁ってしまっているフラスコが載っている。なんだかずいぶん長いことほったらかしにされたみたいだ。
机のはしに、昔は白かったんだろう紙ががさがさと積み上げられていた。今は黄ばんで端が丸まっている。そのまた左の奥にはまるでピザ屋にある窯みたいな、でも白くてステンレスのふちがついていてまるで……
「豪勢な棺おけ」
チップがくんくんと鼻を動かしながら言った。そんな感じだった。またポンと音がした。音はこの棺おけから出ているらしい。その3倍サイズの棺おけは、黒い大小の箱で囲まれて、たくさんのコードで繋がっていた。黒い蜘蛛の巣の上に棺おけが載ってるみたいだった。横っ腹に10センチくらいの丸い穴が5センチ感覚で3つ並んでいて、中が見えるようになっている。ちょっと覗き込んでみると、中にはとても小さい体があった。子どもの体が液体に沈んでいる。
「うわ……」
チップが中をちらりと見てまさに一瞬で扉に駆け戻ってしまった。ストライクも逃げたかったが、それがどうなっているのか理解できなくて逃げそこなった。中の子どもは、顔がぐっちゃりと潰れている。スイカが割れたような赤い肉がこちらを向いて揺れていて、顎くらいまでをすっかり隠している。そしてその皮と肉と骨の隙間に、がっちりと金属の薄いプレートが差し込まれて、頭蓋骨があるべきあたりをヘルメットのように覆っていた。ヘルメットには太いコード、細いコード、あらゆる色のさまざまなコードが繋がっていて、頭を棺おけの奥に固定していた。
「う……」
ストライクが吐きそうになって屈みこむと、P.Pが予想通り空中に現れた。
[ここで嘔吐するのはやめてください。その棚の3段目にガーグルベースがありますので、その中に吐瀉してください]
ガーグルベースって何だよ。
ストライクはなんとか吐き気を押さえ込んだ。
「なんだこれ。病気? 死んでる? 頭割れちまってるぞ」
チップが恐る恐る戻ってきて、屈んだままのストライクの背中をしっぽでばんばんと叩いた。介抱してくれているつもりらしい。
[昨日も申し上げたと思いますが、ここはフィリップ・プロトタイプのストックの倉庫です。つまり]
「つまりその頭割れてるのもP.Pなのか」
[そうです。それはP.P3065号です。3063と3064は、それぞれ身体的に異常が見られたので移植用ストックとなりました。今、P.P3065号はフィリップ・オリジナルの記憶を脳に移植しているんです]
「それでなんであんな、頭剥いてんの?」
[記憶の移植は脳の対応する部位を刺激することによって進行します。脳に直接電流を流す必要があるのです。だから頭蓋骨を外して脳を露出させ電極を]
ストライクはもう一度吐きそうになった。その時本物のP.Pが後ろから近寄ってきて、そら豆の形をした深い洗面器みたいなやつを差し出した。同時に目の前に浮かんでいた方のP.Pがぱっと消えた。
「これがガーグルベースです」
「……いや、いい。だいじょうぶ。うっぷ。こうやって記憶を移植してるってこと? 顔がぐちゃぐちゃだぜ」
「こうやって約11年かけてフィリップ・アンテノワの21年の記憶を移植します。皮膚を筋肉組織から剥離し、引き下ろしています。時が来れば別な場所で培養している頭蓋骨をはめ込み、皮膚を元の位置に戻します。成長によって足りなくなった分の皮膚は遺伝子的・肉体的に欠損が見られたP.Pから移植します」
そしてやはりストライクはP.Pの手からガーグルベースを奪い取って吐いた。
「私がそうやってできたP.Pの3年目です」
言われて落ち着いてよくその棺おけの中の子どもを見ると、ちょっとだけ見えている顎のラインはP.Pに似ているような気がした。
「つまりこの子どもはあと何年かしたら、お前と全く同じになるっていうこと?」
「あるいはフィリップ・オリジナルと全く同じに」
P.Pは手を伸ばして棺おけの窓に触れた。窓はさっと白く曇り、中でだれかの記憶を植えつけられているP.Pをほんのつかの間隠した。
その指は細く幼く、P.Pの顔だってたったの14歳だった。