(9)
チップがぎゃあと叫んでしっぽを太くして走ってきたのはその日の午後だった。
また電気ショックでも受けたのかと思ったらそうではなかった。
「ひと、ひとひとひとがいっぱいいる」
チップの大きな緑の目は瞳孔で7割がしめられ、耳がぎゅっと伏せられている。
「ひと?」
「すげえきもちわるい人がいっぱいいる」
その時検査室にはハロウとストライクしかいなかったので、二人はチップについて白い廊下を歩いていった。
「ひとがいっぱいぎゅうぎゅうにつまってる」
「なんだそれ」
昨日案内してもらえなかった渡り廊下を下り、倉庫のような扉を開けると、中は灰色でひどく寒かった。目の前はいくらか開けていたが、両側に5,6メートルにもわたって何か大きな箱のようなものが積み上げられていた。
ちょうど人が一人分入るくらいの大きさで、側面のガラスが白く曇っている。
「よく見てみな。この箱の中身」
ハロウがすっと右横の箱の腹を撫でて霜を払い、中を覗き込んだ。
「ああ。本当だ。人間ですね」
「まさかこれ全部?」
ストライクが倉庫の中を走り回ると、倉庫はまるでどこかの劇場くらいあって、何列もガラスの棺おけが連なっていた。
箱の中身はあらゆる人種の人間で、みな一様に若々しかった。
「うわあ。気持ちわりい……」
「獣人が一人もいない」
「作り物ではありませんよね」
[それらは移植用のストックです、検体2号]
突然空中にまたしてもP.Pが現れた。
[気温調整が狂ってしまいますので検査室に戻ってください]
3人が検査室に戻ると、P.Pはぽかんと空中を見つめていた。
「結構です。温度・湿度ともに戻りました」
「わかるんですか?」
「昨日も申し上げましたが、この研究所は私の管轄です。この研究所のどこで何が起こっても情報は速やかに私に伝達されますし、どこにでも私には3次元映像を中継して警告を与えることができます」
「なんでわかんの」
「私の脳には2枚のチップが入っています。一枚はDr.A.Aの意識を受信するチップであり、もう一枚はこの研究所のメインコンピュータにデータを送受信するためのチップです。その2枚目のチップによって私は常時メインコンピュータとそこから繋がるネットワークにアクセスすることができます」
「俺は入ってないね」
チップが体をまるめながら言った。
「それによってこの研究所の中の出来事はすべて私の知るところとなりますし、私とメインコンピュータにアクセスできるDr.A.Aの知るところでもあります」
「ということは? どっかで例えばハロウと二人きりで話をしてもP.PやDr.A.Aにはつつぬけになるってことかな?」
「そうです。多少のタイムラグはあるかもしれませんが基本的にすべてログを取っておりますので、数時間後には確実に伝達されます。まあ全てのログを長期保存するわけではありません。ログは保護されたもの以外は1ヶ月で破棄されます」
「気持ち悪いなあ。さっきの氷漬け?のニンゲンもさあ、そーいう盗み聞きもさあ、気持ち悪いよここ。なんだよ」
チップはベッドの上で後足をぎゅーっと伸ばし、もう一度くるりと体を丸めた。
寝ることにしたらしい。
「先ほどの倉庫は申し上げましたとおり移植用の人体です。この研究所ではクローンでああいうものを作り、移植できるまでに成長し、異常が見られなければ倉庫に冷凍保存します」
「ピピッお前たちはこれほどの施設がわし一人の蓄財で130年も運営できると思うのか?お前たちがさっき見たものは金のなる木だ。あれは各国の金持ちのクローン体だよ。あれを保存してやっている限り奴らは無尽蔵にわしに金を払い続けるのだ。他ではクローン体すら満足に作ることはできんからな。ハロウ・ストーム、貴様の父上はまだクローンを作っていないようだが、これからの臓器不全に備えて作ってやってもいいぞ。無論高くつくがね。ははは」
「ピピッ」
P.Pが戻ってくると、なんだかとても悲しそうな顔をした。
「昨日ご案内しなかった、フィリップ・オリジナルの部屋から続いている倉庫は──あっちは私たちの倉庫です。あっちの倉庫には私と同一の個体がストックされています」
「はあ?」
「私はP.P3062号です。3062体目のクローン体です。倉庫の中には部分的に異常があって私のようには覚醒状態に入れないものとNo.3063から3100までの成長途上のクローン体が合わせて300体ほどあります」
「どうしてそんなに? その……どうしてなんですか?」
P.Pは目を上げてちょっと正面を見た。
ストライクはやっとそのしぐさが、P.Pの左の目にあるモノクルを見つめているのだとわかった。たぶんあれにいろいろなお知らせが写るんだろう。ただ今のお時間とか。明日のお天気とか。
「Dr.A.A、メンテナンスのお時間です。回線をシャットダウンします」
「ピピッ了解。また後ほど。ああ、ストライク、面白いことが起こるよ。楽しみにしておくといい」
「は?」
「ピピッシャットダウンピッ」
「何だ今のは?」
P.Pはストライクの言葉を無視して話を続けた。
「なぜ私と同一の個体が300もストックされているかという話でしたね。長い話になると思います」
P.Pは憂鬱そうにちょっとこめかみを触り、話し始めた。
「…………Dr.A.Aがフィリップ・オリジナルの死に際して最も重要視したことは、記憶の引継ぎという点でした。フィリップ・オリジナルが死亡した際、Dr.A.Aは直後に遺体を研究所に運び記憶を複製しました。なぜならDr.A.Aには新しい健康な肉体をいくらでももう一度生み出すことができたからです。
クローンでフィリップ・オリジナルの体を複製し、記憶を移植できればそれはフィリップ・オリジナルそのものです。しかしこれまでクローンから臓器の移植を受けて若返り、または長く生きた人はいても記憶の移植を受けたものはいませんでした。
また、フィリップ・オリジナルの死はあまりにも突然だったため、移植可能なクローン体が作られていなかったのです。だからDr.A.Aは記憶の複製をデータ化して保存した一方でクローン体を作り、移植可能になるまで成長を待ちました。
2616年に一体目のクローンが完成し、Dr.A.Aはまずフィリップ・オリジナルの保存してあった脳そのものを移植しました。これが一番確実な方法と思われたからです。
しかし手術は失敗に終りました。
正確に言うと手術の失敗ではありません。オペレーションは完璧でした。
その頃はまだDr.A.Aはクローディア・ゲールアカデミーの教授でしたので、その時に成し得る最高の助手と外科医と機材によって奇跡とも言える脳の移植が完成しました。その時のオペレーションの様子は今でも国立情報博物館で映像データとして閲覧できます。閲覧には医師免許が必要ですが。
しかしフィリップ・プロトタイプ1は目覚めませんでした。なぜなら移植された時にすでに脳は死んでいたからです。脳死状態の脳を移植しても脳は生き返ることはありませんでした。術後3ヶ月でP.P1号の延命装置は切られ、肉体の方も生命活動を停止しました。
その後Dr.A.Aは残されたフィリップ・オリジナルの記憶データをクローン体に復元することを模索し始めました。
時を同じくしてDr.A.Aは大学を離れ、クローン技術によって莫大な資金を得てこの研究所を立ち上げ、独自に研究を進めました。
P.P2号~1200号までは脳に記憶の一部なりを移植する練習代となりました。その段階で脳にフィリップ・オリジナルの脳が生きていく間に受けた刺激をそのまま電気信号に変換して同じ部位を刺激していけば大体同じ記憶が複製されることがわかりました。
2000番台からはそれを本格的に取り入れて実際にフィリップ・オリジナルを複製する段階に入りました。しかしやはりプロトタイプの脳にインプットされた記憶は完全なものではありませんでした。その頃にはこの研究所は常時10人ほどのP.Pで管理されていたはずです。
また、その時期にDr.A.Aは肉体の老化による衰弱を予防するため現在のようにDr.A.A自身が2684年に開発した代謝を極度に抑制するティターン溶液の中で生活するようになりました。
そして2725年、私がフィリップ・オリジナルの記憶の複製を完了したのを受けて、その他のP.Pたちは分解されました」
P.Pはそこで一度話を区切った。遠くから生き物みたいにワゴンがコップを載せてやって来て、忠実な犬みたいにP.Pの横にぴたりと止まった。
P.Pは疲れたようにコップを手に取り一口飲んだ。
「分解?」
「処分されたということです。彼らはやはり完全な記憶を持っていなかったのです」
「私は俗に言う11歳の時にフィリップ・オリジナルの21歳までの記憶の移植を完了しました。
私の記憶はこれまでのP.Pたちの記憶が比較的不安定で、整合性が保たれなかったのに比べれば完璧でした。
私は何月何日にパパとどこで何をしたのか、例えば2582年の8月2日はどこにいてどんな授業を受けたのか、友達の名前は誰だったのか全て答えることができました。
またそういった出来事による刺激の強弱も正確に引き継いでいました。
脳の刺激する部位の研究が進んだことと、フィリップ・オリジナルの記憶データだけによらない客観的なデータ……例えばフィリップ・オリジナルの通っていた大学の外見や友人の写真など……を交えて移植したことがより明確な引継ぎを可能にしたのです。
ですからDr.A.Aはこの研究を終了し、それまでのP.Pたちを破棄しようとしました。
しかし、Dr.A.Aと暮らすうちに私がDr.A.Aが理想としていたような記憶の引継ぎには成功しなかったことが明らかになりました。
フィリップ・オリジナルと同じ反応を私は返すことができなかったのです。
Dr.A.Aはもう一度研究を再開しました」
P.Pはもう一口液体を飲んだ。
「だから、倉庫にはまだたくさんのクローン体があるのです。
ただ、私と作成日が近いクローン体がおらず、まだカプセルの外に出せるほど成長した個体がないので」
私が今のところは研究所を統括しているのです。
とP.Pは口を閉じた。P.Pは隈のできた不健康な顔をしていた。
「つまり、息子さんをもう一度新しく作りだすために?」
ハロウが聞くと
「私も遺伝子的には同一なのですけれど」とP.Pは色素の薄い目を伏せた。