(5)
このままここにいたら寝るばっかりだとストライクが言って起き上がったので、フィリップ・プロトタイプ3062号が施設を案内してくれることになった。
まず自分たちがいた検査室。「主に検体の検査をするところです。精密な機械が設置されていますので暴力行為などは慎んでください」
次に通されたのは小部屋がたくさん並んだ通路だった。(ここでチップが合流した)
「こちらは研究対象の生物を入れておくコンパートメントです」
小部屋は8個ほど横一列に並んでいて、一つ一つはとても狭い。手前の4つには病院にあるような白くシンプルなパイプベッドが一つと洗面台とトイレット(ストライクは本当に牢獄だと思った)、奥の4つは本当のただの白い部屋だった。それらの部屋の通路に面した壁はガラスばりで、その向かい側の部屋もまたガラスばりだったが、こちらは大きな一部屋になっていた。
「ここにぶちこんだ研究用の生き物を向かいのガラスの向こうから眺めるわけか?」
ストライクが吐き捨てるように言うと、フィリップ・プロトタイプ3062号は「その通りです」とまゆ一つ動かさずに応えた。
「手前の4部屋は人間と獣人用です。あなた方のコンパートメントになります」
ストライクは思い切り舌打ちした。
廊下はそこで直角に左に曲がった。
曲がりきってすぐに右に渡り廊下が見えた。でもフィリップ・プロトタイプ3062号はその渡り廊下をまったく無視して真っ直ぐに歩いていったので、ハロウたちもそれに従った。いくらも歩かないうちにまた廊下は左に折れた。どうやらさっきまでいた広い部屋の柱の向こうあたり、おそらく中央部にぐるりと回りこんだのだろうと推測された。
「Dr.A.Aの部屋です」
フィリップ・プロトタイプ3062号は突き当たりで立ち止まってとても高い金属性の扉を見上げた。
「ピピッP.P3062。認証を開始」
「ピピッ認証完了。扉が開きます」
扉は異常にゆっくりと開いた。
まず「プールだ」とハロウは思った。
部屋の中は液体の反射光で青く光り、ゆらめいていた。たくさんの太く透明なパイプが天井に向かって伸びていた。床の7割に液体が張られ、かなり深いのがわかった。パイプと同じくらい太いコードがその床をくりぬいたプールの中から伸び、壁やパイプやあらゆるところに繋がれていた。右手の奥には、黒々と山のように大小の機材が積み重なっていた。
「……Dr.A.Aはどこに?」
ハロウが恐る恐る尋ねると、フィリップ・プロトタイプ3062号は当然のようにプールを手で示した。
「こちらがDr.A.Aです。現在はメンテナンス中ですが」
フィリップ・プロトタイプ3062号に続いて、3人がコードに足を取られないように気をつけて中に進み、プールの中を覗き込むと、そこにはまるで人間の干物のような老人が薄青い液体の中に浮かんでいた。
ハロウはもしかして悪い夢をみているのかな? とふと考え込んだが、チップがしっぽを太くして目にも止まらぬ速さで部屋を飛び出し、ストライクが「なんだこれ」と言いながら後ずさり、しかも老人が襲い掛かってくる気配もないので、ちゃんとした現実のようだなと思い直した。
水中の老人の皮膚は灰色のような黄色のような、ひどく不愉快な色をしていた。左目が半開きになっていたが、その瞳は白く濁りきって、きっともう何も見えないだろうと思われた。頭には細いコードがまるで髪の毛のように緊密に植えられ、手も足も骨と皮ばかりに細い。
「死んでる」ストライクがぼそっと言った。
「脳波も心拍数も血圧も正常です。生命活動に異常はありません」
フィリップ・プロトタイプ3062号がストライクを否定した。
「183歳か」
ハロウは、その年齢の意味するところがどういうことなのか、さっき話を聞いていてもぜんぜんわからなかった。でも今その現実が目の前にある。こういうことだ。
「本当はDr.A.Aの感覚器はすでに機能不全になっており、私の感覚を電気信号で送信し共有している状態なので、実際には脳しか必要ないのですが、前例がないので、すべての臓器を保存しています」
それがこの今ここにあるDr.A.Aの肉体に関することだと気が付くのに少し時間がかかったので、ハロウとストライクは先に行ってしまったフィリップ・プロトタイプ3062号を走って追いかけなくてはならなかった。チップは物陰に隠れるようにして付いてきた。
次の部屋はシンプルだった。廊下の延長のようで、実際に扉もなく、通路がそのまま膨らんで部屋になったみたいだった。向こうにまた廊下が続いているのも見えた。
でも部屋の真ん中には太い柱が高い天井に向かって伸びていて、右手にまた渡り廊下が繋がっていた。やはりフィリップ・プロトタイプ3062号はさっきと同じように渡り廊下を無視した。
ハロウがフィリップ・プロトタイプ3062号を追いかけてまっすぐに部屋を突っ切ろうとした時、目の端にマネキンの腕が見えた。
こんなところにマネキンが
ふっと振り向くと柱の半面が強化ガラスになっていて、中にマネキンがきれいに収まっていた。
しかもそのマネキンはフィリップ・プロトタイプ3062号にそっくりだった。
「これは……」
ストライクも足を止めてそれを見た。
「死体だ」
でもそれはそうだった。フィリップ・プロトタイプ3062号が何と言ったとしても、これはほんとうに死体だった。
よく見るとその柱は液体に満たされ、その体を包んでいた。Dr.A.Aの生きた肉体よりも肌は白く、柔らかそうで、瞳は今にも開きそうなくらいに穏やかに閉じられ、まるで微笑んでいるかのようにさえ見えたけれども、それはどうしても死体だった。そんなことは世間知らずのハロウにだってわかった。
そしてその死体はフィリップ・プロトタイプ3062号よりも年をとっていた。
「フィリップさん、お兄さんですか?」
「まずはじめに」
フィリップ・プロトタイプ3062号はすでに向こうの廊下に出ていてその場で立ち止まった。
「私は『フィリップ』ではありません。『フィリップ・プロトタイプ3062号』です。そのように呼んでください。もし何か別な呼称が必要な際は、『P.P』か『3062号』としてください」
フィリップ・プロトタイプ3062号──P.Pはゆっくりと柱の側にいるハロウたちを振り返った。
「次に、そのボディですが、兄ではありません」
「おやじだとか言うんじゃねーだろうな」
ストライクが、これ以上ありえないことが起きても困るといった調子で言った。なにしろパイプの中の遺体はどう見てもはたちかそこらなのだ。
「『オヤジ』が『父親』を意味する俗語という理解でよろしければ、わたしの父親でもありません。そのボディはフィリップ・オリジナルです。遺伝子的にはそれはわたし自身です」
やっぱり夢の中なのかもしれない、とハロウはもう一度思った。
それにしてもずいぶん悪趣味な夢だ。イグナシオの教会で見るような夢ではない。
じゃあ今僕はいったいどこにいるんだろう?
僕は首吊り縄をぶら下げてみたあの部屋から、本当は一歩も出ていないのかもしれないな。